泉に乗りかかるようにして倒れた。
 だが体重をかけないように、身体を上に乗せる直前で地面に手を付く。
 まるで押し倒したかのような格好だったが、二人ともそんな格好にまで気が回らなかった。
 投げられた腕は二人のすぐ後ろにあった壁に激突し、鈍い音を立てる。
「何してるんですか!!」
 怒声を上から浴びせられ、泉はびくっと大きく肩を揺らして強張った。
 眼鏡という一枚の壁をなくして間近で見た泉の左目は、不思議な色合いをしていた。
 光彩の色が茶色より少し明るい、甘い色をしていた。
 日本人の多くは焦げ茶色なのだが、それとは異なっている気がした。だからといってハーフやクオーターのような薄い茶色でもないのだ。
 まるで鉱石、琥珀のような瞳をしている。
 そこには右と同じように動揺と不安の色が濃く滲んでいた。
 腕を投げられたことか、恭一に押し倒されたことか、もしくはこんな距離で瞳を見つめられていることに思考が付いていっていないのか、泉は「あ、ごめ、ん」と曖昧な謝罪を口にして固まっていた。
「泉!?」
 二人のものとは明らかに違う、高く澄んだ少女の声が響いた。
 その声質からして、可能性があるのは一つ。だが恭一も泉も、信じられないというような目で声の主を見た。
 蜜色の髪をした少女が、大きな目でこちらを見ていた。
 そこには泉と同じように、動揺が広がっている。
 人形が襲いかかってきているというのに。
「蜜那!」
 少女が自分を見て心動かされたのを察して、泉は声を張り上げた。
 鋭い声音に、蜜那は表情を一変させる。すっと動揺を消し、冷えた眼差しを正面、人形へと向ける。
 スイッチが切り替わったかのようだ。
 そしてまた泉も、恭一の下で不安の色を払拭し厳しい表情を見せる。
 蜜那と繋がっているかのようだ。
 すでに自分の上に乗っている恭一など意識の外にあるようだ。
 だが恭一としてはこんな妙な姿勢は困るので、起き上がると泉の手を引いた。
 引かれるまま、上半身を起こした泉は決して蜜那から目を逸らさなかった。
 凛然とした横顔を左側から眺めながら、その瞳に恭一はじっと見入っていた。
 泉の人形に共通して見られる凛然とした眼差しが、艶やかさと威圧されるほどの生気を帯びてそこに存在していた。
 人形の瞳を見て綺麗だと思ったことはあるが、人間の瞳を見てこれほど美しいと思ったことはなかった。
 だがじっと凝視し続ければ、もし泉がこちらを見た瞬間気まずい思いをする気がして恭一は目をそらす。
 泉は座ったままじっと蜜那を見守っているので、そのまま恭一も片膝を立てた姿勢で戦いを眺めた。
 人形の蹴りを蜜那は片手で受け流す。子どもを相手にしているかのようだ。
 愛らしい容貌にはどこか蔑んでいるような冷淡さが浮かんでいる。
 相手の存在自体が許せない、そんな様子だ。
 拳を掌で止めると、蜜那はしゃがむように姿勢を低くし、人形に足払いをかけた。
 足下を崩され、かくりと身体を低くした人形の首を、蜜那は膝を伸ばして立ち上がる動作とともに下から掴み上げた。
 身長差はおそらく二十pを越えるだろう。そのせいで蜜那が上に腕を伸ばし人形を持ち上げようとしても、人形の足は地から浮かない。
 それを確認すると瞬時に蜜那は首を掴みながら、人形を真横に投げ捨てた。
 まるで打ち捨てるかのように投げられた人形は呆気なく地面に叩きつけられる。
 勝敗がついた。
 恭一がそう思った時、泉の口から短い悲鳴が零れた。
「く、あ」
 泉は目を見開き、苦悶の表情を浮かべる。
 切断され、壁に投げ付けられた腕が泉の足首を掴んでいた。
 身体から切り離されたというのに、腕だけでも動くようだ。
 細い指が食い込んでは、泉の骨を砕こうとしている。
「っ!」
 激痛に唇を噛み、その手を外そうとする泉の手を恭一がそっと触れて止めさせる。
 そして作り物の手に、拳を真っ直ぐ振り下ろした。
 渾身の力を込めて打ち付けた拳は、人形の指にひびを入れた。もう一度拳をめり込ませると今度は指が砕け、破片となってアスファルトに落ちる。
「素手で、壊すって…」
 泉はばらばらになった指を見て、目を見開いた。
 人間では相手にならない。と断言した人の驚きに、恭一は小さく笑う。
「シルバーリングですよ」
 恭一が装飾の意味でリングを付けることはない。
 今日こうしてはめているのは、もっぱら破壊力を増すためだけだった。
 素手よりも、こうして金属を付けているほうが人形のように硬質のものを砕くには効果的だ。
「アクセはそうやって使うものじゃないのに」
 左右でピアスを四つ、今日も首にはチョーカーと鎖を付けている泉は渋い顔をした。
 だがすぐに「ありがとう」と笑った。
 琥珀のような左目と比べ、右目は他の人間と変わりがない。だがその分微笑むと優しげな色がふわりと溢れるように浮かぶ。泉らしさ、というのはそこにある気がした。
 異なる双眸に、恭一の視線は縫い止められる。
 だが泉はそれを察したのか、目を隠すように顔を背けた。
 あまり目を見られるのは好きではないのかも知れない。だからいつも眼鏡をかけているのだろうか。
 一方、蜜那は倒れた人形の腹に足を乗せ、心配そうに泉を見ていた。
 どうもこちらが気になるようだ。
「構うな、砕け」
 数秒前まで柔和な微笑を見せた人間とは思えない、凍り付くような声音で泉は命じた。
 憎悪に近い怒りを感じ、恭一は内蔵が一瞬ぎゅと縮まるのを感じた。それほどに、泉の怒気は冷たく、深い。
 腹を踏んでいる蜜那の足を人形が掴むが所詮は片手。足をどうじたばた動かしても、蜜那を止めることは出来なかった。
 頭部、丁度目の辺りを蜜那が容赦なく踏み潰す。
 破壊される音が響くと、人形は動かなくなった。塗装が剥がれ、素材が見えるが蜜那はもう一度ヒールを打ち落とすと、用はなくなったとばかりに人形の上からしなやかな足取りで降りた。
 これで、終わりだ。
「蜜那おいで」
 泉は両手を広げて、蜜那を呼んだ。
 すると冷ややかな眼差しが一変して、心配そうな表情になる。
 駆け寄ると、泉の腕の中にするりと入ってはじっと不安そうに見上げる。
 大きな瞳からは泉に身を委ねている様が見て取れる。
「喋れるようになったんだね」
 ぎゅっと泉が笑顔で抱き締めると、蜜那は不安げな瞳をしたままこくんと頷く。
 小さな子どものようだ。人形を破壊していた、全てを威圧するような雰囲気はもうどこにもない。
 いるのは子犬のような藍らしい少女だけだ。
 その光景はまるで兄妹のようだった。
「生まれてから半年で喋れるようになるなんて、やっぱりすごいね」
「半年!?」
 人形は動き出すまでに数十年、喋るまでにさらに十数年かかるという。
 それが蜜那はたった半年で声を発することが出来るようになったというのだ。
 恭一は信じられずに、まじまじと蜜那を見た。
 なめらかな動きをするだけでなく、言語も扱えるということはすでに人との違いが曖昧になってきている。
「泉…」
 蜜那は泉の足を見た。琥珀の瞳が揺れている。
 その色は、泉の左目とよく似ていた。
 まるで同じものように。
 だが人間と人形では明らかに違う物質のはずなのだ。
「大丈夫だよ。それより人形の回収をお願いしていい?」
 泉はこつんと額を合わせて微笑んだ。安心して、大丈夫。そう囁くと蜜那は物言いたげな顔をしたが、ゆっくりと立ち上がり壊れた人形の腕を拾い始める。
「半年って本当なんですか?」
「そ、蜜那は特別だから。でも初めて喋ったのは今さっきだけどね」
「特別過ぎでしょう…」
「まぁね。でも初めて喋った言葉が僕の名前か」
 驚きがまだ残っている恭一の隣で、泉はほのぼのと我が子を初めて抱いたような感想を述べている。
「父親みたいな顔してますよ」
「いいじゃない」
 初めて言葉を話した赤ちゃんが自分の名前を呼んだ。そんな様子で泉はにこにこと上機嫌だった。
 だがその機嫌の良さに水を掛けるようなことを恭一は口にした。
「泉さん、いくら蜜那が気になるからって意識を向こうに集中させすぎですよ」
 腕が投げられていたというのに、いつまでも気が付かなかった泉にそう注意すると、泉は小さくなりながら「うん」と頷いた。
「蜜那に全部任せて、泉さんはもっと安全なところにいたらどうですか?側にいたら危ないですよ」
 今日も、とばっちりで怪我までしているのだ。
「それは出来ないよ」
「なんでてすか?」
 恭一に問われ、泉は「うーん…」と唸った。どうしていいものか、と思案しているようにも見える。
「これ、腫れるかなぁ。骨は大丈夫だろうけど」
 話題を変えられ恭一はむっとしたような顔をするが、足首は気になった。
「ちょっと手入れますよ」
 ジーンズの裾から手を入れ、直接泉の足首に触れた。すでに熱を持ち始めるようだった。
 空手で打撲だの骨折だのということが日常的な恭一は、慌てもせず患部をそっと撫でる。
「腫れるでしょうね。しばらく痛むと思いますよ。心配なら医者に行くことをオススメします」
「それは大袈裟」
 泉は軽く笑うが、医者に行かずとも何かしらの処置は必要だろう。
 おそらくもう歩くのすら痛む。
「もし次の事件があったら泉さんは遠くに連行しますから」
「なんで!?てか君また来るつもり!?」
「行きますよ。事件があったらいつまでも。執念深いんです、俺。そん時泉さんに会ったら絶対別の場所に連行です。柱にくくりつけてでも」
「駄目だよ」
 泉は怒るというより、心底困ったように肩を落とす。
「だって鈍くさいじゃないですか」
 年上、しかも尊敬する人形師に恭一はさらりと言う。
 確かに人形に関してはかなわない。深く尊敬している、ずっと見上げていく人なんだろうとも思う。
 だがそれ以外、人形に携わっていない時の泉は本当に年上なのかと疑いたくなる。
 格好もそうだが、仕草も子どもっぽいところがあるのだ。
「本当のことをそんなにも直球で言うなぁ!」
 本音を零すと、泉は図星を付かれたように慌てている。
 知られたくないことのようだ。
 だが人形の襲撃には気が付かない、腕を投げられても全く気が付かない。なんて場面を見たらバレて当然なのだが。
「自覚してんじゃないですか」
 呆れる恭一に泉は不満そうな顔を見せる。目を少し据わらせるが、所詮拗ねているようにしか見えない。
 年上の威厳というものが感じられない。本当はこの人、そんなに年変わらないんじゃないだろうか、そんな疑問が恭一の中に生まれてくる。
「…とりあえずもう帰ろうよ。夜遅いし」
 不満は残るらしいが、ここにいても仕方がないと泉は言い出すのだが。
「足大丈夫ですか?」
 恭一は立ち上がり、手を取った。ゆっくり起こすと片足を庇うようにして泉が立つ。バランスが取りにくいようで、手を離すとそのままよろめきそうだった。
「運転は出来るよ」
「車まで連れて行きます。肩に捕まって下さい」
 肩を組むようにして泉の腕を自分の肩に回す。
 体重を預かり、恭一は泉を気遣いながら歩き出す。
 こうしていると泉のほうが少しばかり身長が高いようだった。一、二pほどの違いだろうが。
 筋肉の付き方が違うのか、細身だった。
 蜜那は人形を背負いながら二人の後に付いてきた。どうやら人形は破壊した後持って帰るようだ。前回も確か回収していた。
「ごめん」
 小さく泉が謝った。
「そんな言葉より、俺は真実が知りたいです」
「真実?」
「泉さんが、隠したがってること」
 何度もはぐらかされ、誤魔化されている恭一としてはいい加減泉の本音が聞きたいところだった。
「…引くよ」
 またはぐらかすだろうか。そう思っていたのだが意外にも泉はぽつりと寂しげに呟いた。
「引きませんよ」
 話してくれそうな雰囲気に、恭一は強く反論した。
 泉は目を伏せじっと俯いている。
「聞いてないからそんなことが言えるんだよ」
「今更これ以上引くことがありますか?」
 弱気な発言に、恭一は苦笑しながら答える。
 人形が人を殺す。そしてその人形を破壊する人形がいる。どちらとも人間のように動き、だが決して人間に似ることはない身体を持っている。
 有り得ない光景を見つめ、有り得ない事態に自ら挑もうとしている恭一に、これ以上理解できない、受け入れられないようなことがあるとは思えなかった。
 まして泉の口から語られることに、拒否反応など示すはずがない。
 すでに恭一は人形に関することを泉に委ねている感がある。自分だけで太刀打ちできないことだと理解しているが故に。
 手伝えることがあるなら、支えになるのなら、微力ながらでも役に立つのなら何でもしたい。
 そんな思いを抱いているのに、今更引くも何もない。
「…それは言えるかもね…」
 異常事態という認識が泉にもあるのだろう。ほんの少し、唇が笑みを浮かべた。力のない、弱いものだった。
「でしょう?」
 こんなに弱気になるほど、何を持っているのだろう。
 恭一は歩きながら、泉の細い身体が抱えているものをより強く知りたいと思った。
 人形と対しているときは見ている恭一まで焼き尽くそうとしている灼熱を持っていたのに、今はそれが感じられない。
「恭一君、口堅い?」
「泉さんが言うなって言うなら、言いません」
 隠されたことを知るきっかけ。それを掴み取った気がして、恭一はそう断言した。
 どんなことであっても、秘密は守り抜く。そう信用してもらいたかった。
「なんで?」
 きっぱりと言い切った恭一に、泉が尋ねる。恭一の声から感じ取った意志の強さが少し意外だったかのような響きだった。
 無理もないだろう。出会って一ヶ月ほどしか経っていないのに、こんなにも強く信頼を寄せられるなんて。
 恭一が泉の立場でも首を傾げただろう。
「貴方と仕事出来なくなったら困るし。すごく嫌だから」
 すんなりと口から出た言葉は、少しだけ言葉足らずだった。本当は、泉本人に会えなくなることも嫌だった。仕事の関係だけでなくても、泉に会いたい。
 これほど人形に情熱を傾けている人を、祖父を失った後他には知らないのだ。そしてこんなも無邪気に人形と接している人も。
 そしてさっき見た琥珀の瞳や、人形のこと以外ではどんなことを思っているのかも、知りたい。
 純粋な欲求だった。
 今まで知らなかったことを知りたいと思うのと、同じようなことだと思うのだが。
 実際はどんな気持ちなのか、恭一本人にも分からない。
「人形好きだなぁ」
 恭一の答えに、泉は笑う。ようやく普段通りの泉に戻ったようだった。
「そうじゃなきゃ、あんな仕事やってられませんよ」
「そーだよね」
 泉の人形が好きだから。だから恭一はこうして近寄ってくる。
 そう泉に結論付けられたことを察しながらも、恭一は否定せずにいた。どう否定していいのか、どう伝えたいのかすら分からなかったからだ。
 もやっとしたものが生まれてくる気がしたが、消し去る術が分からずただ黙って泉を支えながら歩いた。



 


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