リビングのソファに泉を座らせる。
 生活の基盤している方の家は広いだろうとは思っていたが、リビングは十畳を越えていた。
 カウンターキッチンと接しているからという理由もあるだろうが、一人暮らしにその空間は広すぎる気がした。
 液晶テレビとオーディオ、ソファ、大きな窓は日差しを部屋の奥まで入れてくれるだろうが、夜である今はカーテンが引かれている。
 観葉植物がぽつりを置いてある。まるでモデルルームのように、寂然としている。
 陽気でにここにとしている泉が住んでいるには、少しばかり物が少なく静かすぎる気がした。
「蜜那、保冷剤と救急箱持って来て」
 スーツケースを玄関に置いた蜜那は、泉の言葉に頷きキッチンの奥にある冷蔵庫から保冷剤を取り出す。
 それを泉に渡すと、今度はリビングのドアを出ていった。救急箱はここにはないのだろう。
「無駄に広いだろ。前はじーちゃんと親父、僕の三人暮らしだったからこれくらいでも良かったんだけど。今は寂しい」
 保冷剤を足首に当てながら、泉は目を伏せる。
 寂しい。そう呟く声は心底そう感じている切なさが込められていた。
 確かにこれだけのスペースは、一人暮らしにとってはただ苦痛なだけかも知れない。
「蜜那がいるじゃないですか」
 少女の外見を持ち、間と同じような言動をする人形がいるなら、少しは気が紛れるのではないか。
 恭一は静寂を持て余して、そう言うが泉は首を振る。
「人形は眠っている時間のほうが圧倒的に長いよ」
 人間とは違う。作り手であり人形に愛情を注いでいる泉の口から聞くと、深く納得してしまうと同時にやるせなさがあった。
 当然のことではある。だがその決定的な違いは、泉に孤独を与えているだろう。
 蜜那が救急箱を抱えて戻ってくると、恭一がそれを受け取った。
「やりましょう」
 この手の処置なら慣れていた。
 恭一はソファに座っている泉の足下に座り、ジーンズの裾を上げた。
 泉の足首は掴まれた指の痕がしっかり付いていた。
 ぺたんとラグマットの上に座った蜜那はそれを痛々しげに見ていた。
「きっちり付いてますね。やっぱり泉さんはあんな場にはいないほうがいいですよ。何かあったらどうするんですか」
 冷却の湿布を探しながら再びそう言う恭一に、泉は苦笑する。
「んー…でもね。いなきゃいけないんだよ。そうしなきゃ蜜那が上手く動けない」
「どうしてですか?」
 見上げると泉は視線を逸らした。それは故意というより反射的なものに見えた。
 人と目を合わせることを嫌っているのだろうか。だが眼鏡をかけているときは目を合わせても気にすることなく笑っていた。
 眼鏡なしでは嫌なのだろうか。
 目を見ないほうがいいんだろうか。再び患部に視線を落とそうとした時、泉の瞳が恭一を映した。
 琥珀の瞳が、何か決意を感じさせる色を宿していた。
 波紋のないその眼差しに恭一の視線が止まる。
「…僕の目、左右でちょっと違うの分かる?」
 泉は背を丸め、恭一に顔を近付けた。
 まるで口付けるような距離まで寄せられ、心臓が踊る。
 吐息のかかるこの距離は、驚かされるのには十分過ぎる近さだ。
 間近で見た泉の左目はとろりとした甘い色をしている。日の光にかざせば金に光るのではないかと思えるほど、澄んだ鉱石のようだ。
 そして右目は茶色で、何の変哲もない瞳のように見える。だがそこには微かな不安と、それでも揺るぐことを許さない凛とした色があった。
 左が鉱石のように深い色、右が感情の揺らめく色を現しているようだった。
「そう…言われれば、そうですね」
 左右で瞳が異なる気がする。そんな感覚はさっきからあったのだが、まるで今気が付いたのかように答える。
 顔が近すぎるという動揺が収まらず一瞬どもったのが驚きを演出したようで、泉は「そうなんだよね」と小さく安堵を見せて頷いた。
 ちゃんと隠せていた。と安心しているようだった。
 それほど気にしているのだろうか。
「これ、左が義眼なんだ」
「は!?でも!」
 義眼と言われて改めて泉の左目を見るが、人工的なものであるとは思えなかった。
 違和感もなければ、肉体の一部ではないといういびつさもない。右目との違いは、ただ僅かな色の差だけに見える。
「義眼ぽくないだろ?でもこれは蜜那と同じような感じに作ってもらった、作り物」
「蜜那と?」
 子犬のように泉の足下に座り込んでいる少女は大きな瞳を恭一に向けた。
 泉より明るい、金のような琥珀色だ。
 言われる前から感じていたことだが、改めて言われると色合いだけでなく瞳が持っている雰囲気が酷似していた。
 生きている、肉体と同化している。だがどこか鉱石のような硬質な輝きを持っている瞳だ。
「この左目は人間の義眼とは少し違う作り方をしてもらってるんだ。どっちかというと人形のものに近いところがある」
 説明されても恭一にはすぐにし信じられない。人間のものとしか思えない眼が、人形のものと似た作りをしているなど。
「それで、見えるんですか?」
 人形のような眼など、人間の眼窩にはめてちゃんと機能するのだろうか。いぶかしげな恭一に泉はばちばちと瞬きをした。
「見える。自分の目と何ら変わりなくね」
「変わりないんですか?」
「全く。おかしいだろ?でもこれが朝日奈の嫡子なんだ。そして嫡子として人形の作り方を知るための条件はただ一つ」
 泉は左目に掌を当てた。感覚を確かめるように。
「片目を捨てて、人形と同じ世界を見ること」
「人形と、同じ世界…」
 恭一の傍らで蜜那がにっこりと微笑んだ。
 人と変わりない笑顔。だがその瞳に映っている世界は、おそらく恭一とは違うものだろう。
 鼓動、血液、呼吸、生身がない者が感じている世界と、生身のある生物が感じている世界が同じであるとは到底思えない。
「片目を捨てるって…まさかその眼わざと?」
「ううん。子どもの頃に視力を失ったんだ。嫡子になった者はみんなそうして視力を失っていく。じーちゃんなんか片目は老眼や白内障になったのに、義眼は見やすいままだって気に入ってたけどね」
 掌を目から離し、泉は懐かしそうに話した。
「血筋ですか」
 視力を失う遺伝子というものが、朝日奈の中には流れているのだろう。
 不思議だが有り得るのではないかと恭一が口にした時、泉は首を振った。
「違うよ」
 泉は否定すると、口を閉ざした。
 そして目を伏せ眉を微かに寄せる。迷っているようだった。
 だがそうして視線を逸らしても、足下に座っている恭一を完全に視界から消すのは難しい。
 一度目を閉じると泉は両手を合わせ、祈るように指を交互に折り曲げた。
「僕は一滴も、じーちゃんと親父の血は引いてない。母親と一緒に行き倒れていたのを、姫に拾われたんだ」
「…じゃあ……先代が何処かから拾ってきたって言うのは…」
「本当だよ。自分が拾ってきたわけじゃないけど、親父は嘘を付いてない」
 朝日奈に嫡子が出来た時、結婚もしていない先代が一体何処から子どもを連れてきたのか話題になった。
 篠倉でも首を傾げていたか、拾ってきた、という言葉に親戚から養子でも招いたのだろうと勝手に思っていたのだ。
 まさか本当に見知らぬ子どもを拾って自分の跡継ぎにするなど、想像もしていなかった。
「人形が…姫が泉さんを拾ったんですか?」
「うん。僕が三歳の時だったらしいよ。母親はその二年後くらいに亡くなったみたい。よく覚えてないけど。彼女に人形師と認められ、片目の視力を失った人間が朝日奈の嫡子なんだ」
 血なんかじゃない。
 泉は静かな声音だった。だが重ねた手に力が入っているのが、見て分かった。
 もしかすると、誰かにこんな話をするのは初めてなのかも知れない。
 気安く明かすことの出来る話ではない。
 事実を知り、恭一はただ泉を見上げていた。現実味のない話だ。しかし魂を宿す人形を作る、そんな元々有り得ないことをやってのける職人たちならば、そんな背景も有り得るのではないかという気になる。
「大抵は親から子へと繋いでいくみたいなんだけど、子どもが生まれなかったり、どうしても才能がない子どもだけだったりすると、外から連れてくる。過去に何度かあったことらしいよ」
「じゃあ、朝日奈の血は何度も途絶えているんですか?」
「みたい。うちは親父が子どもを作らない人だったから、僕が拾われた」
 泉の父、先代は変わった人物だった。人付き合いがあまり良くなく、寡黙で、人形に対する気迫はすさまじいものだったらしい。
 恭一の祖父が「付き合い方が難しい」と言っていた。
「才能を見込まれて」
 これほど素晴らしい人形を作る人だ、おそらくその才能が姫という人形の目を惹いたのだろう。
 そう思う恭一とは反対に、泉は「どうかな」と呟く。
「片目を失うことによって初めて人形のことが分かるんだし」
 伏せたままの泉の瞳は、恭一と視線を合わせないままだった。
 表情を見るのが怖い、そう言うように。
「この左目は人形なんだ。身体の中で左目だけは人間じゃない。グラスアイをはめ込んでも、この義眼みたいに自分のものにしてしまうんだよ。もう一方の目と変わりなく勝手に作り変えてしまう」
「グラスアイでも?」
 硝子で作成された人形の瞳がグラスアイだ。人間の眼窩にはめ込めるものではないし、その上視神経を繋ぐことなど不可能だというのに、泉はそれが生身の瞳と同じようになると言う。
 義眼を作り替える、確かにそう説明されなければ納得出来ないほど泉の瞳は生気に満ちている。
 今は悲哀を帯びて伏せられている様まで、生身のものと変わりない。
「グラスアイでも、アクリルアイでも…素材は何だって構わない。目であると分かれば、それは作り替えられる」
「泉さんが体験したことですか?」
「じーちゃんだよ…。性能のいい義眼なんて昔はないからね」
 現在ならともかく、昔の義眼など一目で作り物だと分かるほどいびつなものだった。視神経を繋ぐことも難しく、失明したままでも珍しくはなかっただろう。
 それが、作り物の目でも自分のものにしてしまう。とても便利な話に聞こえるが、実際はその異様な仕組みを受け入れられるかどうかが問題だろう。
 泉には、抵抗があるようだった。
「そして、同じ目を入れることによって人形と意識の一部をリンクさせることが出来る」
 泉は蜜那の髪へと手を伸ばした。
 頭を撫でると蜜那の目が細められる。嬉しい、そう微笑んでいるのだろう。
 無邪気な笑みに、泉がつられるようにして唇を緩めた。
「常時じゃないけどね。リンクしようと意識したときに、繋がるんだ。スイッチを入れたみたいに。蜜那一人でも十分思考力があり、自由に動けるけどまだ作ってから間もないからね。思考のスピードが時々遅れるんだ」
 作って半年という短さで動き、喋ることが出来ること自体驚異だというのに泉はそれ以上のことを望んでいるようだった。
「戦っている間にそんなことが起これば危険だから、人形を破壊する時は僕と繋がってる。すぐに対応出来るように」
 でも、と泉は蜜那の頬を撫でながら苦そうに微笑んだ。
「僕の意識は蜜那に引きずられて、僕自身をおろそかにしてしまう」
「だからさっき、俺が呼んでも反応出来なかったんですね」
 てっきり泉が蜜那の動きを見ることに夢中になって、自分の周囲に気を配らなかったせいだと思っていたのだが。
 意識自体が蜜那のところに行ってしまえば、気が付かなくても無理はない。
「そう。好きでぼーっとしてたわけじゃないから」
 とろい、鈍いと言われたことを思い出したように、泉が主張する。
 そこには不安ではなく、いつもの調子が見えて恭一は内心ほっとした。
 神経をぎりぎりに張り詰めて、恭一の一挙一動に怯えるような泉を見ているのは、正直かなり疲れる。
 そんなに怖がらなくても、拒絶したりしないのに。
「だったら余計危ないじゃないですか。泉さんが襲われたら蜜那だった倒されるってことでしょう?」
「そうなんだけど…」
「もう人形が二体いたらどうするんですか?いくら蜜那でも二体を一度に相手するのは無理でしょう。俺なら時間稼ぎくらい出来ます」
「アクセはめた手で?」
 いくらシルバーリングをはめているからといって、何の鍛錬もしてない人間が人形の指など破壊出来るはずがない。
 感触からしてただの人形ではない。おそらく何かしらのコーティングが施されているものだ。素手でやればこちらの拳が破壊されかねない。
「そうですよ。大体蜜那がスーツケースに入ってる時だって反応鈍かったじゃないですか。泉さんと蜜那の二人だけより、俺が入ったほうがはるかに安全です」
 人形がビルの三階から飛び降りてくる際、恭一は気が付いたが泉は気配を感じなかった。
 日常の中で、誰かに狙われることも、真剣に勝負するということもないのだろう。
 恭一なら、ある程度神経を集中している場合、襲われる段階になれば分かる。
 おぼろげにだが、視線や気配を察知することが出来た。
 視線というのは背中を向けていたも感じることが可能なほど、声高な存在なのだ。
「…痛いこと言うなぁ」
 蜜那は泉が困っているのを見上げ、きょとんと大きな瞳で瞬きをする。
 どうしたの?と思っているようだ。
「駄目だって言うなら、ストーキングします」
「宣言してどーすんの…もー…」
 はぁ…と力無く泉は溜息を吐いた。
 陥落したな。
 恭一はにやりと笑いながら、泉の足首に貼った冷却湿布の具合を確かめる。
 得たばかりの秘密と、陥落させたという達成感に気持ちはふわりと軽く浮き足立った。






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