山道の入り口のようなところで、点在する街灯に照らされて泉は立ち止まった。
 住宅街から少し離れ、右側には山、左側にはつぶれかけのビルが幾つか並んでいる。というかなり寂しい場所だった。
 ビルのすぐ傍らを通っていると、壁が所々はげているのが分かる。地震があればすぐにでも倒壊しそうだ。
 からからとスーツケースを引く音がやけに大きく響く。
 こんな場所で夜中に人と出会うとは思っていなかった。
 だがその感想は、確か前にも抱いたことだった。
 そして、その時も見つけた人は。
「どうしてこんなトコにいるのかな」
 溜息まじりに問い掛けると恭一は車に寄りかかるのを止め微笑んだ。
 少し性格が悪そうに。
 もう少年期を完全に抜けだし、大人の男になってしまった人はその表情がよく似合っていた。
 だいぶ年が離れているのだが、普段はその差を感じさせない。
 一見泉などよりよほど落ち着いている。
 その内側では、自制出来ない怒りに突っ走ろうとしている若さもあるわけだが。
「奇遇ですね」
「嘘臭いよ」
 白々しい台詞だ。そう思いながら泉は再び歩き出す。
 追い返したいのは山々だが、恭一は聞く耳を持たないだろう。
 今まで何度も繰り返したことだ。
 紅を模造した人形には関わるな。そう言えば返ってくるのは「無理です」という一言だけだ。
 しかも泉が模造品を破壊する時、ついてくると言って聞かない。そういうところだけ我が儘を見せてもらっても困るだけだ。
 こんなことは自分一人で片付けたい。
 紅の模造なんてものがこの世にあることを知られたくないのだ。それが人を殺しているなんて、あまりの侮辱に血が沸騰するんじゃないかと思うほどの怒りが込み上げてくる。
 誰の目にも触れさせず、一刻も早く抹消したい。
 だが誰が作っているのか、どうして模造を繰り返すのか、まだ分かっていないのだ。
 調査員が分からないというなら、他の誰が知っているというのか。
 あの部類の人間たちに調べられないことは、一般人が触れることの出来る領域をとうに越えているということだ。
 泉など人形に関すること以外は一般人と大差がない。
 何者による仕業かは、ただ報告を待つしかなかった。
 身を焦がすような激怒を抱えながら、現れる人形を破壊し続ける。屈辱的な日々だ。
「後を付けてきたわけじゃないですから」
 街灯と恭一から僅かに距離を置き、泉は足を止めて「むしろ先回りだね」と呆れたような顔を見せる。
 丸眼鏡なしで見つめると、なんだか視線を強く感じた。
 恭一は目に力を感じさせるタイプの人間なのだろう。
 思わず目をそらしたくなる。
「今日、この時間に泉さんが来るなんて知りませんでしたよ」
「人形が来るんじゃないかと思ったんでしょう?」
「前にもこんなことしてましたから、習慣になってるんです」
 習慣という言葉に、泉はふと疑問が浮かんだ。
「まさか前に会った時、四ヶ月くらいあんな人気のないところ通ってたの?」
 恭一に待ち合わせもしていないというのに夜道で会った時、彼は祖父を殺害した手口と似た方法で人が殺されていた現場にいた。
 そこに人形を壊していた泉が通りかかったわけなのだが。
「車の免許取ったら、運転がしたくて。走りたいけど目的地がなかなかなくて、どうせならあそこに行けば何か分かるんじゃないかって気持ちで通ってただけですよ。なんとなく四ヶ月くらい続きましたけど、あそこに通うのが目的ってわけじゃ」
 だとしても、四ヶ月もあんな何もないところに通い続けるのは惰性以外のものがあるからだ。
「執念を感じるなぁ」
 呆れるとともに、参ったな。という気持ちにもなる。  それほど怒りが深いということだ。泉の予想を上回ってしまっている。
「そのケース、蜜那ですか?」
「まあね、歩いてるところを人に見られるとまずいから」
「確かに、驚くでしょうね」
 どうするか。と内心ばっさりと恭一を斬り捨てる言葉を探している泉など知らず、恭一はスーツケースを指さした。
 その指にキラリと光るものがあり、おやと泉は目を留めた。
 さらりとケースの話をしながら恭一に近寄り、指に目をやる。
「珍しいね。リングなんて」
 幅が広いシルバーリングが人差し指、中指、薬指と三本に入っている。
 恭一がアクセサリを付けているところを初めて見た。リング以外は何の装飾も身につけていない。
 アクセサリの類はあまり好きじゃなさそうだな、という印象を受けていただけに意外性があった。
「ああ、これは」
 恭一が何か言おうとしたとき、コツとコンクリートに何かがぶつかる音がした。
 背後を振り返ると、人形がビルの三階から降りてきた。
 正確には、降ってきたとも言える。
 ガッという音とともに足下にまたコンクリートの固まりが転がった。さっきのは壁の一部が落ちた音のようだ。
 スローモーションのように人形が落ちてくるのが見える。予想外のことに驚いて立ち尽くしてしまった泉に、恭一は「泉さん!」と声を張り上げたが「え」と泉の反応は鈍い。
 状況を把握した頃にはすでに人形を間近にしていた泉を、恭一が横からぐいっと腕を引いて人形が降ってくる位置から遠ざけた。
 直後に泉がいた位置のすぐ前に人形が着地する。
 短い髪、性別の分からない顔立ち。身体つきも細身ではあるが凹凸が一切なかった。
 だがそこには、紅の面影がはっきりと残っている。
 優麗な容貌と薄い唇。無表情であるというのに、それは紅を彷彿とさせる。
 泉はかっと頭の芯が焼ける感覚に襲われた。
 眩暈にも似た衝動だった。
 気が付けば、スーツケースのロックを外していた。
「起きろ、蜜那」
 冷淡な声音だった。遙か高みから絶対的支配のように命じる。
 おそらく今の顔は無表情だろう。恭一が強張るのが掴まれた腕から感じ取れた。
 普段とは明らかに違う様に戸惑えばいい。出来れば拒絶してくれればいい。そうすれば恭一にこんなことを見せることもなくなる。
 人形が人を殺すなんて、空しすぎることも。そして紅を奪われ、狂いそうになりながら模造に対して憎悪を剥き出しにしているこの姿も。
 なるべく早くこの件からは離れて欲しいのだ。
 優しかった、自分の祖父と同じように感じていた恭一の祖父が殺された衝撃をもう味わいたくない。
 恭一の腕は素晴らしい。これからもっと上達していくだろう。泉が出会った中で最も高度で繊細な技術を持つ職人になるだろう。そして、きっと人形に対して情熱を注いでくれる。
 そんな人を失いたくない。
 泉の人形を好きだと言ってくれる人を、こんなことに巻き込んで失いたくない。
 もう今日限りにして欲しい。
 そう願いながら、泉は弾丸のように飛び出した蜜那の姿を目に映した。
 夜の中、その甘い蜜色の髪は目立つ。
 そしてちらりとこちらを見た琥珀の瞳に、意識が二重にぶれた。
 自分以外の何かが内側に広がっていく。
 神経を浸食していくそれに、泉はすんなりと思考を添わせた。



 蜜那は主を一度見た後、すたんとアスファルトの上に足を付け人形を睨み付けた。
 そこには恭一が初めて見た時とは違い、感情というものが浮かんでいる。
 成長をしているらしい。
 短期間で急激に人間味を帯びる蜜那に恭一は驚嘆を覚えた。
 蜜那は他の人形と違い、よほど特別な人形なのたろう。
 上半身は着物のようだが、やはり袖はふわりと広がり姫袖になっている。
 帯は蝶のように結ばれ、その下の着物の袖は膝上までしかなく、左右にスリットが入っている。
 その下には黒いフリルのスカート。やはり膝上で、一見和服なのか洋服なのか判断しかねる。
 耳から上の部分だけ後頭部で蝶のような形で一つでくくり、他は肩に付く程度の長さで下ろされていた。
 対峙した人形はすらりと背が高いのに比べ、蜜那はまだ少女のように小柄だ。その体格差は蜜那が不利であるかのように見える。
 だがそんな差など気にも止めず、蜜那は鋭い眼差しを向けたまま地を蹴った。
 それは走り出すというより、飛び出すという表現のほうが合っていた。瞬時に人形の真ん前に立った蜜那はしなやかな足で人形の腰、重心がもっともかかってい部分に蹴りを入れた。
 すらりとかわされると、身体を捻るようにしてくるりと回し蹴りに変化させる。
 元々最初の一打がかわされることを前提としていたようで、動きの緩急が一度目と二度目で明らかに違う。
 身体を捻る際に軽く曲げていた膝をおると同時に腰を引き、ためを作る。このためが回転して蹴りを放つ際に破壊力を増す要因になる。
 相手の胴体の中心、みぞおちなどをピンポイントで衝撃を与える際に効果的なやり方だ。だが恭一にはこのやり方は、ためる分相手にその予備動作を察知されやすい、という点も知っていた。
 なので空手の組み手では腰を中心にもっていき、予備動作の少なくすむやり方を好んでいる。
 蜜那の繰り出した蹴りは人形のみぞおちを狙うが、腹をかすめただけで避けられてしまう。
 立ち位置を修正する隙をつき、人形は蜜那の懐に入ろうと姿勢を屈めぐいっと一歩前に踏み出した。
 回転の加えられた拳が蜜那の胴体に向けられるが、冷めたような目で蜜那は僅かに身体を横にスライドさせる。
 拳は蜜那に左脇腹をかすめる。蜜那はその手首を右手で掴み、くるりと反対を向いた。人形に背を向けると左脇を締め、人形の二の腕を脇の下で抱え込んだ。
 そして関節とは逆の方向へ腕を折った。
 鈍い音がして、ぶらりと人形の腕が垂れ下がる。
 だが人形の表情は一つも変わらない。痛覚がないのだから当然のことだろう。
 腕が離されてないことを悟ると無表情で蜜那のうなじを鷲掴みにしようとする。だが後頭部で人形がしている動作が見えているかのように、蜜那は首を掴まれるより一瞬早く人形を背負い投げた。
 一本背追いというやつだ。
 人形は綺麗に背中から地に落ちた。
 空手もやれば柔道もやっている。そんな雰囲気になってきた蜜那に恭一は唸る。
 無駄のない、実に綺麗な一連の動作だ。
「いい動きをしますね」
 組み手をしたら負けるだろうか。と恭一は自分の力量を計りながら泉に声をかけた。
 だが泉は蜜那と人形を凝視したまま、微動だにしない。
 自分が戦っているような、真剣さとぴりぴりとした緊張感を持っていた。蜜那がやっていることは自分がしていることと同じように感じているのだろうか。
 まるでここで気を抜けば、蜜那も意識を緩めてしまう。そんな危機感を抱いているように見えた。
 恭一は威圧感すら感じられる泉の姿勢に、口を閉ざした。
 どんな言葉も雑音にしかならないだろう。
 蜜那は倒れ込んだ人形を踏みつけようとしたが、人形は仰向けに倒れた姿勢から全身をバネのようにしならせて地に手を着け足を上へと伸ばした。
 丁度蜜那のあごを蹴るようにして。
 蜜那はすっと身体を後方に下げ、その足をかろうじて避ける。
 すると人形は一端逆立ちをするように体勢になるとバク転を何度か繰り返し、蜜那と距離を置いた。
 右手は完全に使い物にならないようで、左手のみでそれをやってのける。
 人形はだらりと下がったままの腕を見下ろすと、左手でそれを掴んだ。無造作に関節を捻る。どうやら使えなくなったものは外すようだ。
 その間を蜜那が逃すはずもなく、攻撃をしかけようとすると人形はバキッ、と何かが折れる音を立てて腕をもぎ取った。
 無理矢理二の腕でねじりきった腕の表面は無惨な姿をさらす。力任せに枝を折ったかのようだ。
 そして不要になった腕を投げた。
 どうでもいいように。
 だがその投げられた腕の先は。
「泉さん!!」
 人形からして斜め後ろ立っている泉に、吸い寄せられるように飛んでいった。
 こちらに目を向けていないので、わざとではないだろう。だが人間のものではない力で投げられた腕は猛スピードで泉の顔面に向かっていく。
 正面からやってくるそれに泉が気が付かないはずはない。
 だが襲ってくる腕に泉は瞬きすらしなかった。表情に何の変化もない。
 まるでそんなものは見えていないのかようだ。
 完全に意識が抜けている。
「泉さん!」
 叫びながら恭一は泉を突き飛ばそうとした。手を引いて避けられるような速さではなかった。
 するとようやく泉が「あ」と我に返ったようだった。口をぽかんと開け目を丸くしている。
 だがもう遅い。
 二人はそのまま重なるようにしてアスファルトに倒れ込んだ。



 


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