「今日は泊まってゆかれますか?部屋なら用意させますが」 「近くに宿を取りましたので」 老人の言葉を、泉は微笑で辞退した。 移動時間が長いため、日帰りで帰れないだろうとすでに宿泊予定も立てていたらしい。 「そうですか。今日は遠くからご足労頂いて申し訳ない」 老人が頭を下げる。そしてまたごほりと咳をした。 小夜と離れがたいという理由だけでなく、もしかすると泉の家まで移動するのも辛いような状態なのかも知れない。 「いえ。では後日、腕を作り次第伺いますので」 泉も頭を下げたので、恭一は静かに倣った。 そして「失礼します」という声とともに腰を上げる。 恭一がここに来てやった仕事は一つもない。 補修不可能ということで仕事は泉がやることになり、後はただ黙って座っていた。 何やら申し訳ないほど役に立ってないな。と思いながら襖を開けた。 そして部屋から出た途端、ごく近くから声をかけられた。 「少し、よろしいですか」 落ち着いた口調だが、その声は幼い。 心臓がびくりと驚いて縮んだが、視線を下ろして納得した。 小夜は襖にぴったり背を付け、二人を待っていたらしい。 これでは視界に全く入って来ない。 「あの子は?」 「母親に連れられて帰りました」 小夜は玄関まで案内してくれるようで「こちらへ」と言って二人の前を歩き始めた。 身長差というより、歩き方の違いだろう。 ゆったりとした歩調に、二人は随分気を使って歩いた。 空は茜色に染まり、夕日が照らしてくる。 よく磨き、艶のある廊下に反射して少し眩しい。 「失礼とは思いましたが、お話を聞いておりました」 「…僕のところに来るのは、気が向きませんか」 泉は苦笑する。無理もないか、と小さく呟いたのが恭一の耳には届いた。 持ち主の手を離れ、いくら顔を知っている人形師だとは言え、共に暮らしていたわけでもない人の元に渡るのだ。 自分の意志があるものなら、気にくわないのも無理はないだろう。 「申し訳御座いません」 小夜は小さく、だがそれでもきっぱりと告げた。 「ですがこのままだと捨てられてしまうかも知れません」 泉が説得するように言う言葉に、恭一は続けるようにして口を開いた。 「それは、大きな損失です」 小夜のような特別な人形が無惨に捨てられるなど、許せない。 恭一が真剣な声でそう言うと、小夜はゆったりと振り返った。そして恭一に微かに微笑みかけた。 小さな桃色の唇がほんの少し緩むだけで、何ともいえず柔らかな印象になる。 「損失で御座いますか」 「はい」 「ありがとうございます。そのお気持ちが嬉しゅう御座います」 人の気持ちをさらりと汲み上げる。 それは自然なようであるが、とても難しい。この人形は人ですら困難であることをいとも容易くやってのけた。 年の功というわけだろうか。恭一は僅かに驚いた。 「このままでは、きっと捨てられるでしょう。そこでお願いが御座います」 小夜は廊下の突き当たり、そこを曲がれば玄関に続くという場所で立ち止まった。 そして二人を振り返り、その場に座り、額を廊下に付けた。土下座だ。 「私も主人と共に逝く覚悟で御座います。そしてこの身体を納棺して頂けませんか」 納棺。それは遺体を入れるところだ。 つまり小夜は主人が死ねば、同じ棺桶に入って焼かれたいというのだろう。 確かに棺桶には生前大切にしていたものを入れるのだが、小夜は人形といえども魂がある。 主人が亡くなった時点で魂もともに消すとしても、人形という身体は遺体に近いものがあるだろう。つまり、主人と遺体を並べてくれということか。 戸惑う恭一の隣で、泉は冷静に見えた。 「ともに、ですか」 「はい。私は何代もともに過ごして参りました。ですが御存知の通り、この先私の役目は御座いません。居場所もまた同じこと。ならば慈しんでくれた主人と共に消えてしまいたいのです」 魂も、身体も。 激しい思いだ。 人は置いて逝かれることを恐れる。それは人形も同じだろうが、自らの命もまたその人に添えてしまうほどの激情があるとは。 恭一は魂を持つ人形には何度か接している。しかし持ち主と共にいる魂を持った人形たちというものにあまり会ったことがない。 だからこれほどに深く、強い繋がりを見たことがなかった。 しかし泉は、納得したように「そうですか…」と口にした。 そして小夜の前で膝を折った。 語り聞かせるかのようだ。 「僕の祖父、父が亡くなった時も人形たちは共に魂を消したよ。人形たちは、自分の命を自分の意志で決める。それが誇りでもある」 「その通りで御座います。本来なら朝日奈の方にお頼みすることでは御座いません。ですが今、この家で信用出来る者はひ孫だけ。その子は幼くてはどうしようも」 四歳ほどにしか見えない子どもでは、小夜を老人の棺に入れるという行為を行えるとは思えない。 大人たちにどれほど主張しても、受け入れてもらえない可能性のほうが高いのだ。 それならば、泉が頼み込んだほうがまだ確率が上がると考えたのだろう。 長い間暮らしてきたこの家で、信用出来るのが主人とひ孫のみ。その主人が亡くなった後、助けを求める先はどこにもない。それが小夜の現状だ。 代々の子どもたちの面倒を見てきたというのに。 「分かりました。必ず貴方を棺にお入れします」 「申し訳御座いません」 小夜は深く、頭を下げた。 どうしても叶えたいのだ。という気持ちが伝わってくる。 それほど、主人の近くにいるということが小夜にとっては大切なのだろう。 「いえ、寂しいとは思いますが。同時にこれだけ深い繋がりを築いていることが嬉しくもあります。人形師の端くれとして」 泉は端くれどころか、中心にいて欲しい。恭一は内心そう思った。 「少しでも長く、側にいて上げて下さい」 泉はそっとおかっぱ頭を撫でる。 装飾を好まない指は、慈しむように黒髪を梳く。 「有り難う御座います」 声は少しばかり震えた。 喜んでいるのか、切ないのか。 両方であるような気がした。 主人と共に逝けるという安堵。そして暮らしてきた時間が止まってしまう切なさ。どちらが大きいのなど、恭一には分からなかった。 だがこれもまた、人形たちが迎えてきた、迎えていく結末なのかも知れない。 風呂上がりの泉が、ベッドに腰掛ける。 すぐ隣に座った人の横顔に恭一は心拍数が少しだけ上がったのを感じた。 濡れた前髪、睫毛の先にも水滴がついている。ボディソープのにおいに、思わず手を伸ばしたくなった。だがその眼差しが陰っているのを見ると、おそらくそんな気分ではないのだろうなと察しが付く。 「人形の置かれている立場っていうのは、これが現状だね」 物憂げな表情は、やはり人形のことを考えていたらしい。 老人の元からホテルに移動しても、泉はどこかぼんやりとしていた。 意識がここにないような見えたので、恭一はそっとしておいた。考え事をしているときの職人には、触れてはいけないような雰囲気がある。 「魂が宿って嬉しいのは持ち主だけ。家族や周囲の人はそれが受け入れられない。そして結局は捨てられるか、寺などに引き取られる」 「悪霊が宿っていると思われるんですね」 よく聞く話だ。 恭一のところにも持ち込まれてくる。 家で起こった不幸なことが、全てその人形にせいにさせられていることも珍しくない。 「そう。受け入れてくれても、何代にも渡って続くわけじゃない。昔は神様のように奉っていたんだけどね」 「現代では難しいですね」 各家庭で神様という存在を奉る。という時代ではなくなってしまっているのだ。 不可解な物は恐れるが、それを崇めるのではなく、排除する方向になってしまった。 「人形にとっても、住み難い世の中になったってことかな」 だが一方で、愛玩用の人形は未だ普及している。 魂を宿す、特別な人形。心がある人形にとっては住み難い世の中かも知れないが。人形全体を見れば、やはりまだまだ世の中では需要があるのだろう。 「それで、本当に人形を棺に?」 小夜の頼みを、泉は真摯に受け入れた。 それもまた、一つの形だろうというように。 「入れるよ。葬式の時は呼んでもらうように頼んでおかないとなぁ」 人形を作った人と、客。だけでは呼んでもらえるかどうか不安なのだろう。 「…人形って、最後まで人と一緒なんですね」 生まれた時は、枕元に厄除けとして置かれ、その後は愛玩用。人と同じ形をして、人と同じように亡くなっていくようだった。 今日会った老人と小夜では、まるで家族か夫婦のようだ。 「それは個々によって違うけどね。でも人と共に終わる子は多い。うちも祖父が亡くなった時は大変だった」 「多く亡くなったんですか?」 「祖父は多くの人形を作った人だったしね。魂のある子はそれを失い、ない子も身体の一部が破損したり、生気を失ったりして」 色々大変だったなぁ…と泉は遠い目をした。 祖父の葬儀だけでなく、人形の葬儀までしなければならなかったのだろう。 何体壊れたのか正確な数字を泉は言わないが、泉の家にいる人形の数を思うと、十体くらいは軽く亡くなっていそうだ。 「父は数体だったけど、存在感のある子ばかりだったなぁ」 「独特な人形が多い方でしたね。最愛の人は?」 最愛の人。それは泉の父が特別愛し、生涯を共にした魂ある人形だ。 非常に美しい姿をしているが、家族以外の目に触れたのは完成した直後の一度きりという、想像力を掻き立てられる存在だ。 「彼女は父を看取って、葬式の時同じ炎に焼かれたよ」 「魂を持ったまま?」 「葬式の準備は僕だけだと不安だからって手伝ってもらって、それから父を棺に入れ、そのまま一緒に」 壮絶な最期であったと、言えるのではないだろうか。 感覚がないとはいえ、魂を持ったまま炎の中に我が身を投げるというのは。 人と一緒に亡くなりたいという気持ちは分からないでもないが、その方法がすさまじい。 「愛情…ですか」 「人にも色々な形があるように、人形にだって色々な愛情の形があるよ」 泉は濡れた髪が目にかかってるのを、鬱陶しそうに払った。 人間と人形。形の違いはとても些末なことである。 そう言っているようだった。 前々から朝日奈の人形に接していると、人間との違いについて考えさせられるのだが。泉の側にいるようになって、更に深く考え込むようになった。 命と魂の違いはあるのか。 意識の、思考の、異なるところはどこなのか。 魂を持つを人形を知るたびに、それが曖昧になり、しばらくすると分からなくなる。 「そういえば、恭一君卒業式いつ?」 悩み始めた恭一に、泉がからりと明るい表情で尋ねた。 「今月末です」 「へぇ」 「来るんですか?」 卒業式に泉が来ても、嫌ではない。嫌ではないのだが、保護者席に座っている泉を想像すると非常に不安なことがある。 「来て欲しい?ものすごく目立つと思うよ?」 「かなり浮きますね」 年齢だけでも、若いということで多少浮くというのに。きっと泉はいつもの姿で来るのだろう。今日のコートだけでも浮いていたというのに。 あれで保護者席に座られれば、きっと周囲は落ち着かないだろう。 そして恭一も気になって落ち着かないはずだ。 「恭一君ってこういうことあんまり言ってくれないよね」 柔和な容貌が、僅かに不機嫌さを滲ませた気がした。 拗ねているのかも知れない。 そう思うと恭一の口元が緩んでしまう。 「大学も気が付いたら合格してたし」 「心配かけるのは、ちょっと気が引けたんで」 気が引けたどころか、恭一が受験をしていた時期、泉の精神状態は不安定そのものだったのだ。 蜜那を失い、失意のどん底にいた泉に受験のことなど話す気にはならなかった。その後も新しい人形の制作や、またそのことに関する葛藤をしているのが隣にいて分かっていたのだ。 恭一自身も、泉のことで心配していたのであまり受験に集中出来なかったというのもあるが。 「いつ勉強してた?結構うちに来てたから、まだ先なんだと思ってた」 「家ではずっとやってましたよ」 勉強に時間を取られるのが嫌だった。 泉を少しでも支えたいと思っていたのだ。むしろ勉強など邪魔だった。 だが受験に失敗しても、泉を落ち込ませる気がして、家に帰れば大半の時間を勉強に注ぎ込んだのだ。 受験期の恭一は、泉の傍らにいるか、勉強をしているか、どちらかだった。 「ふぅん…。大学って君の家から少し遠いよね」 「そうですね。通うのが面倒です」 自宅から大学に通うのは、電車で時間がかかる。 そこで、だ。 恭一は少し呼吸を整えた。いい機会だ、ここでねだっておこう。 「泉さん」 「ん?」 「俺、大学合格祝いが欲しいんですけど」 「そうそう。僕も考えてたんだよ。何がいい?」 期待のこもった眼差しで正面から見られ、恭一は妙に緊張した。 正念場、という言葉が思い浮かぶ。 「泉さんの家に居候させて下さい」 「は?」 「二階は丸々空いてるんですよね?どこでもいいですから」 「だ、駄目だよ!」 泉は予想していたより、強く拒否した。というか動揺している。 どもるくらい戸惑うとは思っていなかったので、恭一まで落ち着きを失ってしまう。 「なんでですか?今だって結構泉さんの家で暮らしてるし!大学だってそっちのほうが近いんですよ」 「仕事はどうするの!」 「今だって作業場貸してもらってるじゃないですか!」 「でもちゃんと細かくて丁寧な作業が必要な場合は自宅でやってるだろ!?」 お互い何故か大きな声で言い合っていた。喧嘩をしているわけではないのだが、わたわたと慌ただしい。 どうしてこんなに喧嘩腰のような話になっているのか、端と気が付いたらしい泉がわざとらしく、大きく呼吸をした。 「職人にとっては道具や作業場っていうのは馴染んでるほうがいいんだよ」 「道具だって持って来られるのは、全部持って来ます」 「持って来られないのは?」 「慣れるように努力します」 恭一が持っていて、泉が持っていないなんて道具はない。 問題は、慣れだ。 それが最も重要だということは恭一にも分かってはいるのだが、泉と暮らすという希望を前にすると霞んでしまう。 「…大体、どこの部屋使うんだ…」 泉は自宅の間取りを思い出して、呟いた。 憂鬱そうだ。 恭一は二階に上がったことはないのだが、何か知られたくないものでもあるのだろうか。 「生前のままにしてあるからなぁ…」 二階は泉の祖父と父が使っていた部屋が二つあるらしい。 泉は一階と地下のみで十分生活が出来るので、二階は手つかず、そのまま放置していると、以前聞いたことがある。 「そのままにしておいたほうがいいですか?」 亡くなった人の面影を残す部屋を触られたくない。 そう言われれば、恭一がすがる場所はなくなってしまう。 だが泉は緩く首を振った。 「いや、別に片づけてもいいよ。面倒だから放置してあるだけだし。てか、そうじゃなくて…」 別のところに引っかかりがあるらしい。 泉は難しい顔をして、濡れたままの髪をくしゃと掻き乱した。 「同居って…」 「嫌ですか?」 「嫌じゃないけど…」 「じゃあ、何ですか?」 ここまではっきりしない態度の泉というのは珍しい。 のんびりとした性格をしている人だが、物事の判断は速い。駄目なものは駄目とにべもなく言い切るのだ。 だから言いよどむということは、微かでも望みがあるのだろう。 そう思って、恭一は食いつく。 「やっぱり止めよう」 お願いをするように、泉は恭一を見た。 こちらがお願いをしているのに、これでは立場が違う。 そんなに困らせるようなことを言っているのだろうか。 「作業場って特別な空間だろ?自分の一部みたいな。一体化しているような感じで。そこから出たら、最上の仕事が出来るかどうか分からないよ?」 泉の近くにいると、それは感じることだった。 仕事をしている時、作業場の空気は泉と同化している。泉の一挙一動で空気ががらりと変わってしまうのだ。 それを、恭一も持っているというのだろうか。 自覚はないが、作業に没頭している時の自分など分からないので否定も出来ない。 「それに、今の僕も作業場にずっと君がいて仕事に集中できるかってなると、自信がない」 「…そうですか…」 そう出られると、恭一は黙るしかない。 泉の仕事の妨げになることは、したくない。 「だから、プレゼントはまた別のもの」 「でも諦められないんですけど」 正直な恭一にも泉は苦笑した。 作業場にいても、邪魔にならない方法はないのだろうか。 それこそ、泉の空気に溶けるような方法は。 今後考える課題になりそうだ。 「じゃあ」 「僕はプレゼントにはならないから」 「…酷くないですか?」 言おうとしたことを先に拒否され、恭一は憮然とした顔をする。 この場合、自身をプレゼントしてくれてもいい場面だと思うのだが。 「今くらい俺のものになってくれてもいいんじゃないんですか?」 「却下。何のためのツインだよ。汚したくないんだよ。掃除する人が気の毒だ」 「そんなこと無視すればいいのに…」 「駄目駄目。大人しく寝なさい」 「俺は生殺しですか」 せっかく泉が隣で寝ているというのに、指をくわえていろというのは殺生な話だ。 これなら部屋を二つ取ったほうが良かった気がする。 「隣で抜いてても、知らない顔しといてあげる」 「鬼ですか」 次 |