ホテルのチェックアウトをしている時、泉の携帯電話が鳴った。 どうやら昨日会った老人からのようだ。 荷物を車に積みながら、泉の電話が終わるのを待っていたが、どうも様子が妙だった。 顔は次第に真剣になり、口調も堅く、難しいものになっていく。あまり良い話ではないようだ。 小夜の腕が壊れてしまったのか、もしくは老人の容態が良くないのか。 それくらいしか想像が付かなかった。 ここに来るときも恭一と泉が交代で運転していたのだが、出発はどちらが運転するのだろう。もし恭一なら運転席に座って待っているところなのだが。 泉が携帯電話を閉じると、一つ溜息をついた。 憂鬱そうだ。 「どうしたんですか?」 「小夜ちゃんが売られそうになってる」 「売られる?」 「そう。今止めてるみたいなんだけどね」 「売るって、誰が」 あの老人はとてもではないが小夜を誰かに売り渡すようには見えなかった。 どれだけ金を積まれても、首を縦に振るとは思えないような人だったのだが。 「あの男の子の母親だって人が、今がもめてるって」 「人形を捨てろって言ってた人ですか」 「そう。このまま、あの家に行ってもいいかな」 「構いませんが」 「あの人が亡くなっても、次の所有者は僕だからね。それを教えに行かないと」 泉は微笑を浮かべるが。目は笑っていない。 真剣な眼差しは穏和な雰囲気に、僅かな鋭さを混ぜた。 人形に関しては、泉はどこまでも優しく、真摯で、そして厳しい人なのだ。 見ていると、背筋が伸びる気持ちだった。 助手席のドアを開けて、泉を恭しく迎える。 「道覚えてる?」 「大丈夫です。迷いそうなら聞きます」 頭の中で、昨日走った道の記憶が蘇っている。 最高の人形師を車に乗せて、走行する。いつもより少しだけ意識が冴えた。 時折こうして刺激を与えて、恭一の気持ちを冴えさせてくれる。だから泉の側は心地よい。 溺れていくばかりだ。 そう思いながら、恭一は運転席のドアを開けた。 老人の屋敷は昨日と違って、廊下を歩いている時から話し声が聞こえてきた。 お手伝いらしき女性は、少し気の毒そうな顔で二人を迎え入れてくれたのだが、その表情がここまで来ると理解出来た。 ヒステリックな声が雑音として耳に入ってくる。 気分のあまり良いものではなかった。 「お客様がいらっしゃいました」 女性が障子の向こうに声をかけると、ぴたりと話が止まった。 そして開けられた障子の向こうには、背を丸めた老人と、ジャケット姿の女性がいた。見たところ三十半ばくらいだろう。はっきりとした顔立ちに化粧をしっかり施しているのでぱっと見は派手に見える。 不服そうに歪められた唇が、少し子どもっぽい。 睨み付けるような目でこちらを見る姿勢は、威嚇しているようだ。 泉は恭一の隣で苦笑している。 ここまで敵意丸出しにされると、返って冷めてしまうのだ。 老人は丸まった背をさらに丸めて頭を下げた。 「お呼びして申し訳ない」 「いえ」 本当に申し訳なさそうにしている老人に、泉は会釈をして座敷の中に入った。 老人と女が対面しているので、その横側に二人で座る。 お手伝いの女性が座布団を手渡してくれ、それを敷く。 女性は障子を閉め、失礼しますと言い残してこの場を去った。 立っている時は老人の影になって見えなかったが、老人のすぐ隣に小夜が座っている。 この状況を静観しているようだ。 「話というのも」 「人形を諦めて頂けませんか」 老人が言い出した言葉を遮るように、女が喋る。 遮られた老人は気まずそうな目をするが、泉はやはり諦めを滲ませながら微笑を浮かべる。 仕方のない人だな。と言っているようだ。 「それは何故でしょう」 外見からすると、女より泉のほうが若いだろう。だがその言葉の落ち着きようは、明らかに泉の方が上だった。 「この人形を欲しいと仰る人がいるんです」 「僕も欲しいのですが」 「買って下さるんです、その人は」 貴方と違って。という皮肉が込められているようだった。 見下しているような言い方をされたが、泉は表情一つ変えない。 女の思っていることなど、気に止めるものではないようだ。 だが、老人は金という言葉に顔をしかめた。 「金の問題じゃない。私は小夜を金で売り渡すつもりはない」 「お義父さん。せっかくお金を出してまで大切にしてくれる人がいるのよ?あんな古ぼけた人形だっていうのに」 何を言ってるの。と女は老人に、信じられないという目で言った。 不満でどうしようもないという様だ。 老人がさらに不愉快そうな顔をすると、今度は溜息をついて泉を見た。 眼差しがつり上がる。 「この人形は喋ったり、動き出すそうですよ」 脅しのつもりだったのだろう。 だが泉には何の効果もない。 朝日奈の人形が喋る、動くなど、泉にとっては自然ですらあることだ。 「知ってますよ。その人形を作ったのは、三代前のうちの職人ですから」 にっこりと誇らしげに泉が告げると、女は眉を寄せた。 「うちの人形では、珍しいことでもありませんから」 予想していなかった反応なのだろう。 女は僅かに沈黙した。 悩んでいるような顔を見せるが、なかなか次の言葉が出て来ない。 まさか、今さっきの発言が切り札のようなものだったというわけではないだろうな。 恭一はずっと黙りながら、呆れ果てていた。 「多くいる人形の一つになるより、たった一つの人形として可愛がられたほうがいいでしょう?」 お義父さん、と女は強請るように言った。 そういう方向に持っていくのか。と恭一まで苦笑した。 「上手いことを言うな。金が欲しいだけだろう」 老人は身内の恥に耐えかねたのか、女に対して厳しい言葉を浴びせた。 女はそんなことには何も感じないのか、平然としている。 「朝日奈さん。今すぐ小夜を持って行ってくれ。このままじゃいつ金に返られるか分かったものじゃない」 「お義父さん!」 「僕は構いませんが」 補修といえども、小夜を長時間手放すことを嫌がった老人だ。 それが、今から泉に渡すと言っている。 安全ではあるだろうが、寂しさはあるだろうに。 「それがこの子のためだ」 小夜のためであるのなら。そう老人は言った。 我が子のために。と言っているように聞こえる。この老人にとって、今は小夜とひ孫がかけがえのない存在なのだろう。 自分自身の思いよりも。 「何言ってるのお義父さん!あの人形に百万出してもいいって人がいるのよ!?壊れてぼろぼろだって言うのに!」 女はそれがすごいことであるかのように言った。 だがそれは他の三人の失笑を買う。 たかが百万。 これだけの年代を生き抜き魂を持っている朝日奈の人形が、破損部分があるからといって百万で売り買いされるのか。 破損は補修が出来る。だが魂は補修など出来ない。無理矢理定着させることも出来ない。その点からしても、百万で取引が妥当だとは思えなかった。 小夜のサイズなら、出来たばかりのものでもそれ以上の値段はするだろう。 「おまえは物の価値が分かっていない」 老人は嘆くように呟いた。 だが女はそれに怒りで顔を赤らめた。 「それはお義父さんでしょう!?あんな人形に一体どんな価値があるって言うのよ!」 「金じゃ計れんよ」 「夢を見るのも大概にして!」 吐き捨てるような女に、泉はやれやれとばかりに溜息をついた。 「夢うんぬんは否定しませんが。あの人形には金にならない価値がありますよ」 「へぇ」 泉の冷静な言葉に、女は心底馬鹿にしたような声で返事をする。 癇に障る女だ。 「あの手の人形は、可愛がるとその人に良いものを運ぶ。その代わり、捨てたりすると呪いますね」 「何言ってるの」 女は鼻で嗤った。 冗談としか受け取っていないのだ。 「喋べる人形は福も呪いも呼びますよ。大好きな持ち主から無理矢理引き剥がすと、貴方を呪うかも知れませんね」 泉は淡々と感情なく語った。 脅しているようにも感じられない口調が、妙に真実味を感じさせる。 女はそれでも泉の言葉を聞くつもりはないようだ。 馬鹿馬鹿しいと一蹴していた。 呪いや幽霊の類を信じない人物のようだ。 そうでもなければ、喋ると知っている人形が置いてある家に、我が子を預けるとは思えない。 さて、どうするのか。 恭一が事の次第を見ていると、襖がからりと開けられた。 「おじーちゃん。小夜がおわかれってほんとう?」 子どもが泣きそうになりながら、老人へとしがみつく。 母親がいるというのに、そちらには目も向けない。 「小夜どっか行っちゃうの?」 老人の傍らに置いてあった小夜に手を伸ばしながら、子どもはぐずる。 「小夜が言ったのかい?」 宥めるように子どもの髪をすきながら、祖父が穏やかな声音で尋ねた。 「うん。いつもより元気ないね」 子どもは小夜に顔に触れながら、そう言う。 小夜は黙り、表情一つ変えない。女がいる限りただの人形に徹するつもりだ。 「何言ってるのかしら、この子」 母親は苦笑を浮かべる。誰もかれもおかしなことを言って。という顔だ。 「小夜すてられるの?もうかくれんぼできないの?」 「人形とかくれんぼなんて出来ないでしょう?」 微かに苛立ちを滲ませ、母親は腰を上げた。 祖父から子どもを引き剥がすためだろう。 「できるよ!昨日は小夜がおにだったんだよ?でもぼくすぐに見付っちゃった」 「ちょっと、しっかりしてよ。あなたまで何言い出すの」 老人や祖父だけでなく、我が子まで小夜が生きているかのようなことを言いだし、母親は苛立ちを戸惑いに変えた。 勘違いや、ただの脅しではないかも知れない。そんな不安がちらりとよぎったのだろう。 「小夜は人形でしょう?動いたりするわけないの」 いつも言ってるでしょう?と母親は祖父から子どもを抱き上げた。 「ただの人形は動きませんが、うちの人形は特殊でね。長年可愛がると魂が宿るんですよ」 泉は当然のごとき語る。 事実なのだから、わざとらしく重みを持たせる必要はない。 だが女は不快そうに眉を寄せて、泉を見下ろした。 「付き合ってられないわ。そんな話」 「そうですか」 くすりと、泉が笑みを零した。 耳を貸さない女が、さもおかしいというように。 その態度がさらに女の眉間にしわを寄せさせた。 「この話はまた今度、改めてしますので」 女は祖父にそう言い放つと、子どもを抱いたままその場を後にしようとした。 子どもは「いやぁ」と腕の中でもがこうとするが「大人しくしなさい!」という母親の厳しい声音に、ひくりと顔を強張らせて黙った。 随分高圧的だ。 泉が肩をすくめていると、小夜の唇が開いた。 「呪われたいの」 突然聞こえてきた少女の声に、襖に手を掛けていた女が振り返る。 驚愕がそこには張り付いていた。 「今、何て…」 顔色を失いながら、女は泉や恭一、祖父を見回した。 だが、誰一人答える人間はいない。 泉などきょとんとした顔を作っている。 「はい?何か?」 「今、誰か何か言ったでしょう?」 「言った?」 泉に尋ねられ、恭一は「いいえ」と答える。 老人もまた首を振った。 「言ったじゃない。冗談は止めてよ」 女の口元に、ひきつった笑みが浮かんだ。 我が耳を疑わないところは、見事かも知れない。 「小夜だよ。女の子の声だったもん」 混乱する母親の腕の中て、子どもが無邪気に言った。 当たり前のように言った台詞に、母親の顔に初めて恐怖らしきものが見えた。 「もういい加減にしてよ!」 状況に耐えられなくなったのか、荒々しく襖を開けたかと思うと足音を立てて出ていく。 襖を閉めることも忘れてしまっているらしい。 残された三人は、背中が見えなくなると誰ともなくふっと息を吐いた。 「相当怯えてましたね」 泉は作り物ではない、柔らかな笑顔を見せた。 「あれで諦めてくれるといいんだが…」 老人は傍らの小夜を撫でながら、疲れ切ったように呟く。 「ああ見えて肝の小さい女だからな」 「そのようですね」 小夜が喋ると、一気に態度が変わった。 それまで泉や老人の言うことなどただの作り話だと思って、全く相手にしていなかったというのに。 「だがひ孫の顔も見れなくなったな」 小さな、寂しげに笑みが老人の口元に浮かぶ。 それに気が付いたのか、小夜がようやく顔を上げた。 ぱちぱちと瞬きをしたかと思うと、申し訳なさそうな表情で撫でてくれている手に触れた。 「おまえを売られるより、幾分かましだ」 気にするな、と言うように老人は小夜を抱き上げた。 子どもよりずっと軽い身体だろう。それを壊れ物として丁寧に抱いていた。 「強欲なおなごで御座いますね」 小夜は女のことを冷たく言い放った。 自分のことを勝手に支配しようとしたのだ、いい気はしないだろう。 「小夜も退屈になるな」 「これからはお世話致します」 小夜はすましたような言う。 すると老人は弾けたように笑い出した。 「それは毎日のことだろう」 今までも、これからも、そうなのだろう。 老人の笑い声に、泉と恭一もまた笑みを零した。 |