空がコーラルの柔らかな色に染まってきていた。
 光の色は次第に金を帯び、日が沈むことを教えていた。
 移動に随分時間をかけた。それだけ遠方であったということなのだが。
 豊かな日本を感じさせる庭を眺めながら、二人は廊下を歩いていた。
 お手伝いらしき中年の女性が案内をしてくれていた。
 年代を感じさせる日本家屋が泉の家を思わせる。
 しかし所々にある障子に小さな穴が開いていたり、泉の家より生活感と溢れている。
 どこかから子どもの笑い声が聞こえてくるので、その子どもが遊んで開けたのかも知れない。
 女性はある障子の前で立ち止まり「お越しです」と声を掛けた。
 内側からの返事はない。だが女性は障子に手を掛けた。
「失礼します」
 そう一声かけてから開けると座敷には、一人の男が座っていた。
 年老いた老人だ。背は丸まり、髪は僅かにしか残っていない。
 床の間には掛け軸、そして畳の上には二つの座布団。
 整えられた空間が、恭一の意識に緊張を加える。
「お久しぶりです」
 泉が微笑を浮かべて、頭を下げた。
 ファー付きの黒ロングコートは腕にかけている。着ているのはごくシンプルな黒のハイネックセーターだ。丸眼鏡も水色がほんの少しだけ入ったものになっている。
 至極地味な格好だ。
 仕事で人に会うというので、見た目に配慮したらしい。
 老人は二人を見上げて、人の良さそうな笑顔を見せた。
 好々爺という雰囲気だ。
「お元気そうだ。隣の人は?」
「篠倉恭一です。人形の補修をしております」
 恭一も丁寧に頭を下げた。篠倉という名前が通用するかどうかは、その人がどれだけ朝日奈の人形に興味を持っているかによる。
 どうやら老人は知っていたらしい「ああ、あの」と声をもらした。
「随分お若い」
「腕は確かですよ」
 驚く老人に泉が誇らしげに言った。
 若い、というのは泉自身にもよく向けられる言葉だろう。まるで自身のことのように告げてくれたことが、恭一の心を躍らせる。
「そうですか。君が連れて来るんだから、きっとそうなんだろう」
 どうぞ。と座ることを勧められ、二人は座布団の上に正座をした。
 障子は案内してくれた女性によって閉められ、彼女はそのまま廊下を歩いて去っていく。
「もう何年前になるだろう。君に会ったのは」
「あの頃は祖父もまだ生きていましたので、十年近く前になります」
「もうそんなになりますか」
 泉が穏やかな声音で語ると、老人は目を細めた。
 懐かしんでいるようだ。
 恭一の知らない、記憶という空気が部屋に流れた。
 高校生の段階で泉が高いレベルの人形を制作していたことは、篠倉の周囲では有名だ。
 おそらく十年前、すでに一体の人形をしっかり作り込める技量があっただろう。
「小夜ちゃんは?」
「今ひ孫と遊んでおりますよ」
 小夜というのは、今回二人がここまで来た理由である人形の名前らしい。
 泉が作ったものではなく、泉からして三代前の職人が作った人形らしい。その時点でかなりの年月が過ぎている。
 魂が宿っているようで、子どもと遊んでいるという話が老人の口から出てもおかしなことではない。
「元気に笑っていますね」
 近くで聞こえてくる、子どものきゃきゃという楽しげな笑い声に、泉が微笑を浮かべた。
 老人もまた嬉しそうに微笑む。目と口元に深い皺が寄ったが、それがいっそう柔和な印象になる。
「子どもははなから決めつけない。屈託のない無垢な心で小夜と向かい合ってくれる」
 人形は動かない、話などしない。そういう知識がないため、子どもは人形と話をする。一緒に遊ぶ。恐れを知らない様は清々しいほどだ。
「お呼び頂いてもよろしいですか?」
 控えめに、泉は申し訳なさそうに言った。
 このまま遊ばせて上げたいのだけれど。という顔だ。
 子どもが好きなのだろうか。聞いたことはないが、この様子では嫌いではないようだ。
「そうだね。では」
 と老人がゆっくり立ち上がろうとした。だが背を折り、ごほごほと咳をする。体調が悪いのか、それは濁った響きに聞こえた。
「大丈夫ですか」
 泉が腰を浮かせた時、がらりと奥に続いていた襖が開いた。
 そして子どもが飛び出してくる。
「だいじょうぶぅ?」
 四歳ほどの小さな子どもが、老人に横からぎゅっと抱き付いた。男の子のようだ、短く切った髪に、大きな瞳、半ズボンからは小さな擦り傷のある膝小僧。元気いっぱいはしゃいでいたのは、この子だろう。
「大丈夫だよ」
 よしよしと老人は優しい手つきで子どもの頭を撫でた。
 皺だらけのかさかさしているように見える手を、子どもは嬉しそうに受けとめている。
 祖父の手を思い出して、恭一は懐かしくなった。
 昔は、ああして撫でてもらった。恭一が高校生になっても、祖父は頭を撫でてくれるので照れくさかった。止めてくれ、と言ってもなかなか聞いてくれなかったのだ。
「お客さま?」
 子どもは老人にしがみつきながら、二人を見た。興味津々という視線に、二人揃って口元を緩めた。子どもの無邪気な好奇心に溢れた目というのは、微笑ましい。
「そうだよ。小夜を直してくれるんだ」
「ほんとう?ぼくが壊したところなおしてくれる?」
「ああ。直してくれるよ。さあ、小夜、おいで」
 老人は開け放しになったままの襖に向かって声をかけた。
 すると襖の影から、ちらりと黒髪がのぞく。
 そして静かに人形が出てきた。
 子どもより少しだけ大きな人形だ。目は切れ長で、黒髪は肩でおかっぱに切り揃えられている。
 着ているのは赤色の着物で、元々は市松人形であったのではないかと思われた。
 だが市松人形よりかは、目が開いており、口元は艶やかである。肌の質感も陶器に近い。無表情だが少し苦笑しているかのようにも見える。
「朝日奈さんだよ。お会いしたことがあるだろう?もう一人の方は篠倉さんだ。おまえを直して下さる方だよ」
 小夜は摺り足で二人の前に歩いてくる。
 観察しているとあまり足全体は動いていないが、足首を支点とした歩行は着物であるならごく自然に足取りに見える。
「お久しぶり、小夜ちゃん」
 泉はにっこりと小夜に笑いかける。人形を前にすると泉は嬉しそうな顔をすることが多い。
「泉さん」
 小夜の声は見た目と同じくらい年をした少女と似た声だ。高く、鈴のような響きである。
「篠倉恭一です」
 会釈しながら名乗る。
 すると小夜も律儀に頭を下げてくれた。やはりそれはぎこちない動きなのだが、礼儀の正しさに少し驚いた。
「篠倉さん…おじいちゃまは?」
 祖父のことを聞かれ、恭一は驚いた。どうやら祖父を知っているらしい。
「二年前の年の瀬に、お亡くなりになったんだよ」
 驚いている恭一の隣で、泉が説明した。
「そうなの…」
 小夜は寂しげな声を出した。表情も目を伏せ、切なげに見える。これほど表情豊かな人形というのは珍しい。
 魂がしっかり入っているということだろう。
「祖父のことを御存知で」
「何十年か前に、身体を直して頂いたことが御座います。大変お世話になりました。恭一さんは、お孫さんですか?」
「そうです」
 しっかりした言葉遣い。恭一はずっと年上と話をしている気分だった。実際小夜も年齢というものを数えれば、ここにいる誰よりも年上なのだろうが。
「どこが壊れたの?」
 泉は小首を傾げながら小夜を見た。
 ぱっと見たところ損傷がなく、足取りもしっかりしている。
「右腕で御座います」
「ぼくを助けてくれたんだよ」
「この子が縁側から足を滑らせて落ちてしまった時、小夜がとっさに下敷きになってくれたんですよ。その時右腕を敷いてあった石のにぶつけたらしい」
 祖父は子どもの頭を撫でながら、心配そうに言った。直るのだろうか、という不安が見えた。
「ちょっと見せて」
 泉が小夜を手招きした。
 素直に従う人形の右裾をそっと上にめくる。
 二の腕には大きな亀裂が入り、小さな破片が幾つかなくなっている。強くぽんと叩けば、完全に割れてしまうだろう。
 それにしても、何十年、下手をすると百年近く昔に作られた人形であるのも関わらずその肌の美しいこと。
 恭一にとっては驚異だ。
 感嘆の吐息を零しながらも、冷静に部位を判断する。
 これでは今どれだけ補修しても気休めにしかならないだろう。
「補修出来ないことはありませんが、時間がかかりますね。長くお預かりすることになりますし」
 それに預かったからといって完全に元に戻せるかと聞かれれば、難しいところだった。
「それは…」
 老人の顔が曇る。
「寂しいんでしょう?僕を呼ぶくらい小夜ちゃんとは離れたくないようですし」
 泉が老人にくすりと笑いかけた。
 まるで子どもに言っているような口調だが、それが嫌味ではなく小さなからかいにしか聞こえないのは滲み出る雰囲気からだろう。
 老人もまた苦笑した。
「お見通しか」
「ここの方はみんな小夜ちゃんを大切にして下さっているから」
 どうやら朝日奈とこの家とはなかなか交流があったようだ。
 人形を渡せば、それで職人は買い手との縁が切れるわけではない。
「小夜、どっかいっちゃうの?」
 祖父の寂しさがひ孫にも伝わったのか。腕の中で見上げる大きな瞳は揺れている。
「行かないよ」
 その不安を消すように、泉がそっと伝える。
 老人と子ども、二人ともがこれほど離れがたいというのに小夜を持って帰る気にはならない。かと言ってこのままにしておけるはずもなく。
「この分だけ付け替えたほうがいいですね」
「そうだね。腕はもう新しい物に変えましょう」
 恭一、泉ともに同じ結論が出された。
 そして泉はコートのポケットからデジダルカメラを取り出す。腕の状態を記録して、それと同じものを作って来ようということだろう。
 何枚か撮ると、今度は実際に小夜の腕に触って感触を確かめている。
 他の人がそうして触れていても曖昧に「こんな感じだ」というくらいしか記憶出来ないのだが、泉は掌からどこをどうやって作ればいいか、染色すればいいか、褪せさせられればいいのかを判断していく。感じたことを忘れない内に、携帯に何かを打ち込み始めた。
「付け替えて、大丈夫なんですか…?小夜の特別な人形なんだが」
「最初は少し違和感があるかも知れませんがすぐに慣れますよ」
 ね。と泉が同意を求めると小夜は「はい」と大人しく返事をした。
「何も、今度が初めてというわけではありませんので」
「三代前の子だから、何回か身体のあちこち取り替えたでしょう」
「随分色々がたがたになってしまいましたので」
「それでもずっとここにいるんだから、きっとみんな小夜ちゃんが大好きなんだよ」
 泉は我が事のように目元をほころばせた。
「可愛がって頂いております」
 良かった。と泉は自分の手で作った子のように嬉しそうだ。
 朝日奈の人形が大切にしてもらっているから喜ばしいのか。人形というものが大切にされているから喜ばしいのか。どちらもありそうなことだ。
「さ、じいじはまだお話があるから。小夜はあっちで遊んでおいで」
 祖父は子どもを立たせて、とんと腰の辺りを優しく押した。行っておいでという合図だろう。
「見付かっちゃいけないよ」
「はぁい」
 子どもはたたたっと走り出す。だが小夜がゆっくりとしか歩かないので、少し行ったところで振り返って待っている。
 お手伝いらしき中年の女性は、小夜の存在を知らないのかも知れない。
 見付かってはいけないよ。という老人の言葉がそれを物語っていた。
 小夜は物静かな足取りで部屋を出ていくと、襖をしっかりと閉めていった。
「朝日奈さん、一つ頼みがあるんだ」
 二人がいなくなると、老人は表情を険しくした。
 柔和な印象がしばしひそめられた。
「私はもう長くない。身体のあちらこちらをやられてしまってね。もう保たないんだ」
 こほりとまた濁った咳をする。それが風邪や喉の調子が悪いだけではないことは、なんとはなしに察せられた。
 泉は目を伏せたものの、さして驚きはしなかった。恭一も同じだ。
 ある程度の年になってしまうと、やはり病は否応なくのし掛かってくる。
 実の祖父がそうであったように。
「そこで、私が死んだら小夜を貴方にもらって欲しい」
「僕に、ですか?」
 泉は伏せた目を上げて、瞬きをした。
「ですが、小夜ちゃんは代々ここで受け継がれてきた子でしょう?」
「息子も孫も、小夜に興味などないのだよ。昔、自分たちが遊んでもらっていたことすら忘れよった。あれは近所の子どもだったと、人形が動くはずがないと」
 大人になったのだ。
 常識が、世間の暗黙の了解が、彼らの中に入り込んで、彼らを染めたのだ。
 自分の目で見てきたことよりも誰かが言うことを信じてしまった。繰り返される「常識」に自分の目を改竄してしまった。
 生きて行くにはその方が良い。そう思う人もいるだろう。恭一もまたそれを責めることはしない。
 しかし老人にとって、小夜を可愛がり、かけがえがないと思っている人にとって、その様子は腹立たしいというよりむしろ空しいものに見えたのではないだろうか。
「けれど、今はひ孫であるあの子が小夜ちゃんと遊んでます。あの子が小夜ちゃんを大切にしてくれるかも知れません」
 泉もまた老人と同じように、切なげだった。小さな希望を口にするが、老人は首を振った。
「あの子もいずれ同じことを言うだろう。あの子の母親が、気の強い女でな。あの子が人形と遊んだ、と話をすると人形が動くはずがない。気味が悪いだけだから捨てるように、と私に言ってくる」
「それは…困りましたね」
 今は小夜は遊んでいる子どもだが、いつ母親の言うことを自分の目より強く信じるようになるか分からない。
 そして言われたまま、小夜を捨てる日が来るのか。
「そのくせ、自分は仕事があると言って子どもをここに預けに来る。気味が悪い人形のいる家にな」
 身勝手な母親だ。と老人はぼそりと重く呟いた。
 他のことでも悩まされていることがありそうだ。
 だか老人はそれ以上何も言わず、黙り込んだ。
「それで、僕に」
「頼まれてくれませんか。小夜はこのままでは捨てられる。魂のある子だ、そんなことになれば苦しいだろう」
 不憫で仕方ないのだ。と懇願する老人に泉は頷いた。
「僕は一向に構いません。同じように境遇の子はうちにも多くおります」
 泉の家、地下にある部屋には人形部屋がある。そこには魂を持った人形たちが眠っている。人形たちは滅多に起きてくることはない。持ち主がもういないので、起きたところでさして喜びがあるわけでもないからだそうだ。
 聞いたところによると、そのまま静かに魂を失う人形もいるという。まるで老衰のように。
「少しでも長く、可愛がって上げて下さい。あれほど幸せそうな人形というのはなかなかおりません。よほど大切にしていらっしゃるのですね」
 それは長生きして下さい。と言っているようなものだった。
 長くは保たない。そうは言うが、小夜のためにも一日でも長く共にいて欲しい。
 泉の声音は穏和だ。
「私らが、あの子に大切してもらってきたんですよ。私らはみんな子どもの頃、小夜に育てられたようなものだった」
 老人は目を細めて、遠くを見つめた。
 きっとひ孫が笑い声を上げて走っているように、老人もまた無邪気に小夜と遊んでいた頃があるのだろう。
 変わらない小夜。変わってしまった自分。周囲。その違いを思い、恭一は何とも言えない気持ちだった。



 


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