卒業の足音というものが近くに迫ってきていた。
 進路が決定していない者にとってはそれどころではないのだが、恭一はすでに合格を手にしているため入学式まで自由な時間が増えていた。
 学校は週に二度ほどあるだけ。他は自由出席になっている。
 その二度に出席も、午前で終わることが多い。
 合格者はすでに春休み状態なのだ。
 卒業式の予行についての説明という、ただ聞くだけの授業が終わり恭一は友達と駅に向かってきた。
 このまま電車に乗って、泉の所に行くつもりだ。
 すでに昨夜メールを送っている。
 登校日が少なくなるのに比例して、恭一が泉の家に行く回数が増えた。
 今では自宅より泉の家にいる時間のほうが長いのではないかと思われるほどだ。
 新しい人形を作ったとは言え、蜜那を失った傷は癒えていない。
 ふとした瞬間、泉は目を伏せて切なげに唇を噛んだ。
 誰かを捜して、だが探そうとしたことを悔やむかのように、走る痛みに耐えるかのように、口を閉ざすのだ。
 喪失は泉を離してはくれない。
 そしてそれでも新しい人形を作るという罪悪感が、傷口から血を流させる。
 泉に何が出来るのか、恭一にも分からない。けれど側にいたいのだ。
 一番近くで見ていたい。泉にとって今手に出来る幸せが何なのか、考えたいのだ。
「卒業旅行どうする?」
 泉のことを考えていた意識を、友達の声が現実に戻す。
「行くのか」
 ぼんやりとしながら、恭一は真顔で聞いた。
 すると友達は呆れた顔で「おまえな」と眉を寄せる。
「行くって話したろ?」
「そうだっけ?」
「そうだよ!」
 そんな話をいつしたのだろう。
 最近だろうか。それとも一ヶ月くらい前だろうか。
 どちらにしても、頭の中はそれどころじゃなかったのだが。
「この季節ならスキーじゃないかって、この前言っただろ?」
 左側にいた、もう一人の友達がさらりと言う。
 少し脱色した茶色の髪を鬱陶しそうに後ろへと流した。そろそろ切りたい長さになっているようだ。
「スキーか」
「恭一はスキー出来たっけ?」
「何度かやったことはある」
「上手い?」
 恭一が旅行のことを忘れていたことに呆れた方の友達が、興味ありげに聞いてきた。
「コケない」
 ものすごく初歩的なことを口にしてみた。
 だが実際のところ、コケなければスキーはそれでいいんじゃないかと思う。
 それにしてもスキーか。どこに行くのだろう。
 何泊するのかも気になる。
 あまり長期だと、泉に会えなくなるのが少々気になるところだ。
 今はしっかりと食事も睡眠も取っているだろうが。
 会いたいという気持ちは、理性だけでは抑えられないところがある。
 今は仕事してるのか、もしくは休憩か。何をしているだろう。
 そう思っていると、前で歩いていた同じ学校の女子が騒ぐ声が耳に入った。
 普段そんなものは完全に聴覚から排除されているのに、何故かそのときだけは自然と入ってきたのだ。
「あの人、何してる人かな」
「誰か待ってるんじゃない?」
「誰だろ。彼女かな」
「あのコート着こなすってすごくない?バンドとかやってそう」
 服装に関しての感想に、恭一はその二人が見ているだろう方向に目をやった。
 そこには明るい茶色の髪をした男が立っていた。
 黒ファーが派手についた、同じく黒のロングコート。両手をポケットに突っ込んで何やら辺りを見渡している。
 薄いモスグリーンの丸眼鏡に、じゃらとついたリングのピアスが左に三つ。
 見知った姿に、恭一はしばし目を疑った。
 どうしてこんなところに泉がいるのか。
 しかも周囲の目をちらちらと集めている。
 今日はいつもに比べれば大人しい感じではあるのだが、ファー付き黒コートが似合う男が滅多にいないという点で目立つのだろう。
「悪い。俺用事思い出した」
 友達にそう宣言すると、恭一は泉に駆け寄った。
 おい、と制止をかける友達の声は完全に無視だ。
「泉さん」
 声を掛けると、泉は恭一に気が付いたらしい。
 口元がほころんだ。
「おかえり」
 笑顔でそう迎えてくれる。
 格好が独特なのでその顔立ちに目をいくことまで間があるのだが、泉は柔和な容貌をしている。それが微笑むと、とても優しい印象になるのだ。
「待ってたんですか?」
「今日は学校終わったらそのままうちに来るって聞いてたから。きっとこの時間くらいに電車乗るだろうなって思って」
「目立ったでしょう」
 駅前なんて人通りの多いところに立っているなんて。きっと通りすがりにちらりと見た人がいるはずだ。
 さっきの女子高生のように。
 服装の次に人の気を惹きつけるところは、何をしている人なのか分からないところだ。
 その不思議さが、服装と混ざるとよりいっそう「この人は何だろう」という疑問になる。
 人形師という職業がそう転がっているはずもないので他の人には分からないのだろう。
 恭一としても、こんな服装を好む人形師がいるなんて泉に会うまで想像もしていなかったが。
「いつものことだから」
 見られるのは慣れているようで、泉は小さく笑った。
 確かにそれもそうだろう。
 これよりもっと奇抜な服を着ることだってある。
「車ですか?」
「うん。近くに止めてる」
「この辺よく駐禁が来ますよ」
「そうなんだ。ところでさ、恭一君」
 泉はにっこりと笑った。
「旅行しない?」
「え」
 先ほどもその話をしていたのだ。
 卒業旅行という、高校三年生としては一度は話題にする話なのだが。
 まさか泉の口から出てくるとは思わなかった。
「一泊二日だけど」
「なんで突然」
 旅行がしたいのなら、二日前にも会っているのでその時にでもちらりと話してくれれば良かったのに。
 そうすれば今頃、何処にどうやって、いつ行くのかくらいの計画は立っていたはずだ。
「君に頼みたいことがあって。一緒に来て欲しいんだ」
「今すぐ?」
 泉がここまで来たということは、今すぐなのだろう。
 案の定、泉は「うーん」と言いながらも頷いた。
「早いほうがいいかな。だから来たわけだし」
 急ぎでなければ自宅で恭一を待っていただろう。
「このまま君の家に行って、服と道具を持ってきてもらっていいかな?」
 道具。その言葉に恭一は少しだけ気持ちが冴えるのを感じた。
 高校生から、一人の職人としての顔になろうとしていた。
「仕事ですか」
「長年暮らしてきた人形の補修だよ。腕の破損が酷くて、すぐにでも直して欲しいらしいんだ。少しの衝撃でぼろぼろになるんじゃないかって心配してたから、結構すごい状態かも知れない」
 そこまで酷いのならば、補修するよりも新しく部位を入れ替えることになるのでは。
 恭一はそう思ったが、そんなことは泉もとっくに思っているだろう。
 だが補修出来るのでれば、早く恭一に直して欲しいのだろう。
「分かりました。帰りましょう」
「ん、行こう」
 自宅に帰るのに、泉が一緒というのは初めてだった。少し妙な感じだ。
 泉はすでに旅行の荷物が出来ていたらしい、足下に黒の鞄があった。
 今日は丸眼鏡以外は全て黒だ。
 制服姿の恭一と、並んで歩くとさらに目立つ。
 一体どんな関係の二人なんだ?という目で擦れ違う人がちらりと見てきた。
 ここにいる誰も、正確な関係は言い当てられないだろう。
 仕事仲間であり、秘密の共有者であり、恋人だなどとは。



 少しばかり広い一軒家。という以外大して特徴もない家の玄関を開ける。
 泉の家のように日本家屋と庭が繋がっている。ということもない。
 中にはいると、作業場というスペースがあるのが、特殊と言えば特殊なのだが外見では分からない。
「お邪魔します」
 泉はそう中に向かって声をかけているが、恭一が思うに誰もいないはずだ。
 家族は仕事と学校に行っているはずなので。
「すぐに用意しますから」
 恭一は真っ直ぐ自分の部屋に向かった。マフラーを外し、コートを脱ぐ。着替えもさっさと済ましてしまいたいところだ。
「すっきりした部屋だね」
 恭一の部屋に入ると、泉は辺りを見渡してそう言った。
 確かにあまり物は多くないのだが、男の部屋なんてそんなものじゃないだろうか。
 泉の部屋も恭一の部屋とさして変わりがない雰囲気だったと思うのだが。
「あんまりごちゃごちゃしてるの駄目なんですよ」
 泉が隣にいるのも気にせず、恭一は服を着替える。
 全裸になるわけでもない。むしろ全裸になったからといって、今更気にする間柄でもない。
「映画好き?」
 本棚の一角を占めているDVDの数を見たのだろう。
 泉の声を背後で聞きながら、着替え終わった恭一はクローゼットから鞄を取り出して衣類を詰め込み始める。
「わりと」
「あ、これ面白かったなぁ」
「見たいのあったら借りて行って下さい」
「また今度ね」
 今から旅行だというのに、DVDはいらないだろう。
 泉は小さく笑ったようだった。
 なんだか、この部屋に泉がいるというのが不思議だった。
 泉の部屋に恭一がいるのならもう馴染んでしまっているのだが。
 家族と同居している手前、なかなか呼べないし、来づらいということもあるのだろう。
「出来ました。次は道具ですね」
「早っ」
「男が一泊するくらいじゃ、物はそんなにいりませんよ」
 まだDVDを眺めている泉は、恭一よりかは物が入りそうだ。
 アクセサリーからして数がいるだろう。
 次は作業場に行く。
 泉の家ほどの大きさはない。ここでは主に恭一と祖父が作業をしていたし、生前の祖父はもっぱらここから徒歩一、二分で行ける別の作業場にいた。
 そこでは仕事だけでなく、弟子に人形を教えていた。
 懐かしいことだ。
 あれからすでに一年以上が経過した。
 それでも現状は、大差がない。
 祖父を殺した人形は未だに分からず、そしてその動きも把握出来ていない。
 蜜那が崩壊した後、紅の模造は現れていない。今までに比べると間隔が空いていた。このまま模造が現れなければいい。だが模造が出てこないというのに模造を作っていた人間を発見出来るだろうか。
 気持ちと、理性は上手く噛み合ってくれない。苛立ちは日々募る一方だった。
 それは泉も似たようなものだろう。
 作業場に入った時、ぱたぱたと足音がした。泉ではない。恭一について来て興味深く作業場を眺めているからだ。
「お兄ちゃん!今日帰って来ないんじゃなかったの?」
 妹の声だ。
 中学生の妹が何故この時間、家にいるのだろうか。
「おまえ学校は?」
「今日は創立記念日で休みなんだよ」
 と言いながら、妹はひょこりと作業場に顔を見せた。
 肩まで真っ直ぐ伸びた髪。白いセーターとジーンズ姿だ。
 そういえば中学はこの頃に創立記念日だったか、と恭一は自分も卒業した中学を思い出した。
「今から出掛けるから」
 と恭一が妹を見ると、目を見開いて硬直していた。その視線の先にはにっこりと微笑んでいる泉がいた。
「こんにちは。お邪魔しています」
 丁寧な挨拶に、妹は戸惑いながらも「いえ…」と大人しく返している。こんな服装をする友達、お兄ちゃんにいたんだ…という驚きがそこには見えた。
 誰なのか教えれば、さらにこの顔は驚くだろうな。そう思うと恭一は少し愉快だった。
「朝日奈泉さんだ」
 予想通り、そう説明すると妹は「は」と間抜けな声を出して、それから目を丸くした。非常に驚いている。中学生という、まだ子どもの領域にいるからかも知れないがそのリアクションは大きく、泉もくすりと笑いを零した。
「朝日奈さん!?人形師の!?」
 我に返った妹が食いつくように泉に聞いた。妹も葬式には参列しただろうが、あの時の泉は黒髪にスーツという、この姿からは想像も出来ないほど地味な姿だったのだ。
 覚えていたとしても、同一人物だとはすぐに分からなかったようだ。
「その朝日奈泉です。いつもお世話になってます」
 そんなことは妹に言う必要はないと思うのだが。と内心呟きながら、恭一は手に馴染んだ道具を手に取る。このヤスリも随分使い込んでいるので、そろそろ変えたほうがいいかも知れない。
「い、いえ。こちらこそ!いつも兄がお世話になってます!」
 慌てて頭を下げる妹は、普段すまして大人ぶっている顔とは随分違う。
 篠倉にとって、やはり朝日奈の職人は特別なのだ。
 妹も人形を作ったり、補修している。子どもの頃から祖父が教え込んでいるのだ。恭一には届かないながらも妹なりに励んでいる。祖父が亡くなってからは少し遠のいているので、このまま止めてしまうのかもしれないが。
「いつもご迷惑をおかけしてます!」
 恭一がよく泉のところに行っているから、そのことに関して言っているのだろう。
 元々妹は恭一が泉のところに行くのをよく思っていない。
 お兄ちゃんだけ朝日奈さんと仲良くなってずるい!と抗議されたことが何回もある。
 その朝日奈さんを目の前にして、妹の顔が少し赤くなっている。
 まさか、同じ好みじゃないだろうな。と恭一は不安がちらりとよぎった。
 妹と泉を取り合うなんて、冗談じゃない。
「いいえ。いつも助かってます。妹さんは今は何年生?」
「淑実です。今年で中学三年になります」
 必死になって泉に答えている。その様子が面白いのか、泉がくすりと笑った。
「可愛いね」
 女をこうやって口説くのだろうか。
 間近でやられると、確かに心が揺れそうな優しい声で泉は告げた。それが妹とはいえ自分以外の人間に向けられるのが、恭一には面白くない。
「泉さん」
「ん?」
「からかわないで下さい」
 棘を含んだ声で窘めると、泉は恭一の機嫌が悪くなったのに気が付いたのだろう。目で笑う。可愛いね、と言うように。
 兄妹揃って遊ばれているかのようだ。
「からかってないよ?本当に可愛いじゃない」
「本気に取られますよ」
「お兄ちゃん!」
 中学生相手に本気で口説くなんてことはしないだろうが、淑実の方はそうとは理解していないかも知れない。
 もし泉を好きになってしまったら、一番困るのは恭一だ。
 ここでちゃんと自粛してもらいたいものだ。
「それにしても似てるね」
 泉はころりと話題を変えた。
 恭一がこれ以上不機嫌になっても困ると思ったのかも知れない。
「目の感じがよく似てる」
「そうですか?気が強そうでしょう。こいつ凶暴ですよ。俺と同じで空手もしてるし」
「お兄ちゃん!」
 なんでそんなこと言うの!と噛み付いてきそうな勢いで妹が睨んでくる。
「用意出来ました。行きましょうか」
 これ以上妹と泉を会わせていてもいいことはないだろう。
 そう思って恭一は素早く用意した鞄を持って、作業場から出ようとした。
 すると妹の名残惜しそうな視線と目があった。
 本当に、冗談じゃない。
「いいなぁ」
「何がですか」
 恭一の気も知らず、泉は暢気な声を出した。
「兄妹がいるって」
「大変ですよ。俺なんか二人も面倒見てきたし」
「だから面倒見がいいんだね。二人ということは妹さんの他にももう一人?」
「高校生の弟がいますよ。二人とも人形は作ったり直したりしますけど、俺よりずっと下手くそですよ」
「君より上手い人なんていないでしょ」
 当たり前のように言われ、恭一は傾きかけた機嫌が浮き上がってくるのを感じた。
 単純過ぎる。でもその手軽な気持ちが、泉に対しては嫌ではなかった。




 


TOP