庭の桜が散り終わり、緑の葉が茂り始めた頃だった。
 空は高くなり、朗らかな日差しが降り注いでいた。
 過ごしやすい季節になり、仕事の休憩を取って昼寝でもしようかと思っていた。
 憂鬱なことが立て続けに起こっていた日々も、少し落ち着いてきたのでしばらくはゆっくりするつもりだったのだ。
 きりきり仕事をする気にもなれず、依頼もそう舞い込んでこなかったので好都合だった。
 こういう時に職人は便利だ。と気楽になっていた中で、その人の訪問は冷水を浴びせられたというよりも、氷を投げつけられたような感覚だった。
「荻野目と申します」
 玄関に立っていたのはパンツスーツ姿の女。女性にしては身長が高い。肩で切りそろえられた髪、切れ長の瞳は理性的で教師のような印象を受ける。
 手には黒く素っ気ない鞄。
 堅苦しい雰囲気がした。
 見知らぬ女は、名を名乗るとスーツの内ポケットから名刺を出してきた。
「こういうものです」
 その名刺には「調査員 荻野目里沙」とあった。後は電話番号とメールアドレスだ。
 随分簡略な、というより肩書きの説明にもなっていない名刺だ。しかし「調査員」という単語に納得がいった。
「魂を宿す人形を作っておられる、朝日奈泉さんは」
「僕ですよ」



 荻野目はそんなことは予測していたらしい。というより、調べていたのだろう。
 調査員という肩書きを持っているのなら、それくらい事前に知っていて当然だ。
 特殊な事柄、特に人の目、耳に晒してならないことを取り扱っているところに所属している人間。その中で、情報を扱っているのが調査員だ。
 そういう人間とは職業柄、ごくたまに接触することがある。
 今回も何かあったのだろう。
 ふいに真冬の寒さを思い出した。ああ、あれなら調査員が来てもおかしくないな、そう思っていると荻野目が口を開いた。
「お話があって参りました」
 でしょうね。と泉は苦笑する。話もないのに調査員がこんなところに来るはずがない。
「どうぞお上がり下さい。人形くらいしかいませんが」
 横に引くタイプの古い玄関からたたきを上がり、二人は廊下を歩く。
 古い和の家だ。前は随分大きかったが、祖父が小さく作り直した。無駄に大きくとも掃除ばかり大変で不用心だ、という理由だ。
 もっとも、この隣に家をもう一軒建て、重要なもの、生活の基盤はそちらの置いているため、この家はもっぱら接客用として使われていた。
 木々や花、池にもちゃんと手が加えられた庭に面している座敷に荻野目を通す。
 座布団がすでに用意されていた。
 木目の美しい、艶々とした座卓を挟んで向かい合う。
 荻野目は見た目を裏切らず、背筋を真っ直ぐ伸ばして正座をした。
 丸い眼鏡をかけ直し、薄いオレンジ色のレンズ越しに泉は苦笑する。
 派手な柄のシャツを適当に羽織り、金に近くなるまで脱色した髪をところどろこ跳ねさせて、あぐらをかいている泉とは対照的な人物のようだった。
(こっちまで緊張するなぁ)
 ぴりぴりとした空気が漂ってくる。
 暢気にだらだらと生活している泉からしてみれば肩が凝るんじゃないかと思うほど、荻野目の姿勢は正しい。
「先刻、人を襲うという人形が現れました」
 荻野目は唐突に話を始めた。世間話から始める調査員というのもいるのだが、どうやら荻野目はそういうタイプではないらしい。
「すでに人が殺されています」
 殺人事件だと言われても、泉は深刻な表情は見せなかった。
 だが荻野目がここに来た理由の察しはつく。人形が人を襲うなんてことはあるのですか?という質問に来たのだろう。
(自ら動く人形。なんて聞いたらまずうちを思い出すのは自然なことだしなぁ)
 人形は勝手に動かない。作り物であり、生き物でないのだから当然のことだ。
 だが泉はその当然を覆す人形を作ることの出来る職人だった。泉だけではない、この朝日奈の家督を受け継いだ代々の職人は皆、自らの意志で動くことの出来る人形を作っていた。
 人はそれを、魂を宿す人形だと言って驚嘆した。
 確かにそうなのだろう。人形たちは意志を持ち、自己を形成していた。作り手である職人の気持ちを受け取りながら、それに反することもあったのだ。言いなりにならず、操り人形というものに当てはまることがなかった。
 だが、人形が望んで人を殺すなど、泉には考えられないことだった。
「それは専門が違いますよ。悪霊でも宿ったんじゃないですか?人形は自ら人を殺すことはありません」
「何故、そう言い切れるのですか?」
「必要がないからです。人を殺してもメリットがない。もともとうちの人形だって始めから魂を持っているわけじゃないんです。人に可愛がられ、愛され、初めて魂を持てる。そんな人形が、愛情をくれた人間たちを殺すでしょうか。たとえどれほどの痛みと屈辱を味わっても、人を殺しはしません」
「本当に、そうですか?愛情は憎悪に変わることなどありふれたことですよ」
 荻野目は淡々と語る。
「だって人間を殺すより、自分が壊れたほうが手っ取り早いんですよ。人形たちに死という概念はありません。崩壊に対する恐れも、そう大して持ってないみたいですよ。なんとなく嫌だけどなぁ、といったレベルでしょう」
 人形に最も近く、常に接している泉にそう言われれば、荻野目も反論がないようだった。
 素人が何を言う。という言葉の前では二の句が紡げないからかも知れない。
「そうですか。実には当初、こちらもその人間を殺したという人形に何か霊的なものが宿っているのだろうと思って祓い専門の者を向かわせました。ですがその人は、何も宿っていないと。他の者も同じ結果です」
 荻野目は微かに眉を寄せ、難しそうな顔をした。難航している事件なのだろう。
「では人形自体が鬼になっているのだろうと、今度は鬼を始末する者に頼みましたが、結果は同じ。斬ることが出来ず、純粋に刀をただの物質として使い、人形を破壊したそうです」
 鬼、霊。そんなものを荻野目はさらりと言う。非現実的なことは何一つ信じない、というような顔をして。
 だがそれを聞く泉もまた、抵抗なく話を受け入れていた。
 そういう「有り得ないもの」が存在しているということは、幼い頃から知っているのだ。人形というものは、どうもそういったものに好まれる。
 霊的なものの媒体にされるのはしばしばなので、こういった調査員の手を借りることや、人形に関してのことを尋ねられることがあるのだ。
(でも、これはちょっといつも違う)
 霊的なものでも、鬼でもない。だが自立して動く人形。
 そんなものは、朝日奈の人形以外には知らない。
(だけど、人形が人を殺す?何のために。持ち主から逃れるため?だけど持ち主のために制作された人形であるなら、持ち主が嫌になれば自分から壊れると思うし、持ち主が変わったか、奪われたか。それもどちらにせよ同じだろうし)
 人を殺さなければいけない理由。それが泉には想像が付かない。
 そんなに、見ている世界、感じる世界が嫌なら人形たちはその目を閉じ、身体を崩壊させれば終わるだけの話なのだ。
(持ち主にそう命令されたから?)
 過去にそういった類の話が、あったらしい。泉が直接目にしたわけではないが、祖父の代にはそういう事件があったらしく、とても嘆いていた。
 愛玩のために作られた人形はそんなものに使うべきではない。と。
「失礼致します」
 堅く、多少ぎこちない声がして襖が開かれた。
 そこには桜色の着物を着込んだ少女らしきものが座っていた。
 長い髪は一つにくくり、小作りの顔に丸い瞳が印象的だ。薄い唇には笑みが浮かんでいて、可愛らしいのだが。
 着物の袷、裾から覗く首や手の関節には線が入っていた。
「人形…?」
 荻野目はお盆を持って恭しく部屋に入ってきた人形に、目を見開いている。
 茶運び人形、というお盆を持って前進するからくり人形なら江戸時代から存在している。歯車で動くものなのだが、今座卓の上にお茶置いている人形は、座り、立ち、茶を持ち、置き、頭を下げる。という動作をなめらかな動きでこなしていた。
 さらに言うならば襖を開ける直前に声をかけたのも、この人形だった。
 人間との大差が見られないことに、荻野目の顔が強張っている。
 事前に朝日奈の人形は魂を持つ、などという話を聞いてなければ顔色を失うほど驚いたかも知れない。
「小桃です。曾祖父が作った子ですよ。かれこれ六十年以上ここで家事一切をやってくれてます」
「本当に…人間のようですね」
 荻野目が上げた感嘆の声に、小桃はにっこりと笑った。
 それがまた荻野目を戸惑わせたようだった。
「可愛いでしょう。何度も補修を繰り返して付き合い続けると、人と同じレベルの言動をするようになります」
「それは、教え込んだわけでも、プログラムしたわけでもなく?」
「生活をともにしていると、自然と色んなことを学びますよ。最も作ってからしばらくは動きませんから、話しかけてやることや何かと世話をすることが大切ですが」
「生き物のようですね」
 荻野目は茶を手に取った。小桃はお茶にうるさい曾祖父に仕込まれているので、味は保証出来るだろう。
(僕にはちょっと分からないけど)
 茶に善し悪しというものあるのは知っているが、大抵家で小桃の入れたお茶しか飲まないので不味いお茶を知らないのだ。
 コーヒーの美味い、不味いなら分かるのだが。
「本当に、特殊な人形を作っておられるお家柄ですね」
「みたいですね」
 どういう仕組みなのか。大抵の人はそう尋ねる。たが泉の答えはいつも同じ「分かりません。人形に聞いてみないとね」だ。
「小桃。もういいよ」
 泉がそう言うと、小桃は頭を下げて静かに出ていった。
 人と変わりなく。
 その後ろ姿を見届け、荻野目はこほんと一つ咳をした。意識を切り替えたのだろう。
 鞄から何かを取り出す。
「これが、人を襲ったという人形です」
 一枚の写真が、座卓に置かれた。
 真っ直ぐ伸ばされた長い黒髪を無造作に結び、すっと目尻の通った瞳で前方を見据えている二十歳ほどの女。横顔からちらりと見えるその瞳の色は茶色というより、赤に近い色味だった。
 透き通るような白い肌には、関節に筋が入っている。
 身体のラインに沿った黒いシャツとパンツ。その格好に泉は強い違和感と、不快感を覚えた。
 似ている。真冬に失った大切なものと。
「魂ではないものが入ってますね」
 泉は激しい怒りが込み上げてくるのを感じた。茶を持とうとした指先に妙な力が入る。
 握りつぶしてしまうんじゃないか。ふとそんなことがよぎる、口に出した話題が思うことと違っているのは、自分を抑えようとする意識なのだろう。
 ぎりぎりぎり、ときしむような音を立てて、神経が緊張していく。
「人形が持つ魂ではありません。人形が持つとすればもっと生々しい表情をします。でもこの人形の瞳は無機質なままです。魂で動いているわけじゃない」
 荻野目は茶を置き、語られる言葉に頷いた。
 冷静な人を目の前にして、泉は深く息を吐く。
 暴力的な気持ちが沸き上がってくるが、この人にぶつけても何の意味もない。そう自制出来るほど思慮深くなったことに、心のどこかで苦笑してしまう。
「似ていませんか?」
 落ち着こう。そう決めた瞬間、荻野目は押さえ付けようとしていた箇所に触れた。
「…紅、ですか?」
「そうです」
 調査員なら、それくらいすぐに察しが付く。そんな考えすら吹っ飛んでいた。
「…似てますね」
 非常に不愉快かつ、認めたくないことだが。写真に写っている人形は似ているのだ。
 去年暮れに何者かによって奪われた朝日奈の宝、紅に。
 長い間存在しているため、何度も補修を繰り返している人形だ。去年も数年に一度の補修の年で、何代もに渡って付き合いのある職人の所に預けた。人形の補修に関しては腕が良く、丁寧に仕上げてくれると所だった。朝日奈でも補修は出来るのだが、作るのは他に追随を許さないが、補修に関してはそこが肩を並べた。
 まして朝日奈の人間というのは作るのはこの上なく好きなのだが、補修するというのはあまり得手でないらしく。泉なども「この部分新しいのと変えない?」と提案するほどだった。
 人形たちにはその性分は不評だった。愛着のある自分の身体、出来るだけ長く使いたいのだ。
 紅もそう思うらしく、手足などを交換されるくらいなら別のところで補修を受ける。というわけでしばらくそこで預かってもらっていてたのだが。
 その職人の元から紅は奪われた。
 強盗だ。紅に携わっていた職人は殺された。
 泉にしてみれば祖父ほどの年の人で、自分の祖父と同じくらい慕っていた人だけに、衝撃は大きかった。紅の喪失と共に、悲痛なまでの喪失だった。
 葬式に参列すると、その家の人々は紅が奪われたことを何度も謝ってくれたのだが、中には「紅を奪うためにあの人は殺された。あんな人形があったから」という者もいた。
 大切な人が奪われた悲しみと、やるせなさをぶつける先がないのだろう。だか泉はそれを聞き流せるような状態ではなかった。
 焼香を上げるとすぐさま帰り、それからあの家とはなるべく連絡を取っていない。
 後継者が誰になったのかすら、聞いていないままだ。
 弟子は多く、腕の良い孫もいたので補修の仕事を続けるのは間違いないだろうが。
 泉がまたあの家と付き合っていくかは、後継者の腕による。
 奪われた紅は、警察に届け出たが未だに何の発見もない。
 ただ不可解なのは職人を殺した人間もまた、見つかっていないということだ。
 凶器が分からないらしい。刃物ではなく、まるで強い力で身体のあちこちの骨を無理矢理折ったようだというのだ。
(嫌な予感がしてきた…)
 まさかあの人も、人形が殺したんじゃないか。ということなのか。
「…出来の悪い模造だ」
 紅を思い出しながら、泉は吐き捨てる。
 あの人形は、彼女はもっと美しかった。瞳には知性が紅色の唇には微笑が、白い肌には生気が満ちていた。
 眼差しを向けるだけで、柔和な色彩が零れ落ちた。  艶やかな黒髪も、なめらかに肩から流れ落ちていたのだ。
 そこにいるだけで、華になる存在だった。
 こんな人形とは、比べものにならない。
 不快さを隠そうともしない泉に、荻野目はもう一枚写真を出した。
「実は前にも人を殺す人形がいまして」
 出された写真には二十前ほどの女性が移っていた。アンティークと思われる木製の椅子に座っている。鮮やかな赤の着物、振り袖だろう、を着ているがその片方の腕あたりには膨らみがなく、だらりと肘掛けにかけられていた。
 長い黒髪は左側の一房が赤い紐で結われている。
 その隣には三十前と思われる男が立っていた。どこかで見たことのある顔だ。
 しかし男などよりも、その女性、人形に目がいく。
 泉も一瞬見間違うほど、生々しい人形なのだ。
「いい出来ですね。誰の作品ですか?」
 作品、というにはあまり人の手がかけられている気配がない。不思議だった。これほど精密に作られている、綺麗な人形だというのに作品という響きが似合わない。
「竹本信宏です」
「あー、あの人形作家さんですか。それにしては…」
 こんな風に生きているような人形を作るタイプには思えなかった。
(どっちかっていうと…子どもや、幻想的な人形を作る人だったような気がするんだけどなぁ…。ちょっと現実にはいない、神話とかに出てきそうな)
 作風が変わったのだろうか。それにしても、彼の腕がこれほど飛躍的に上がったというのは奇跡的な気がした。
「鬼ですよ」
 荻野目はさらりとその人形を指した。
「狩る人に始末してもらいました。残ったのはグラスアイのみでした」
 そしてまた数枚の写真をしてきた。
 そこに写っていたのは、様々な形をした破片が散らばっている光景だった。よく見ると、指のようなものがある。人形の一部らしい。
 他の写真には、人形の内部を撮影したと思われるものがあった。
 肩と腕を繋ぐ関節の具合や、破壊された後と思われるいびつな切断面。
 胴体の内側には、何やら文字がみっしり書かれていた。
 何語なのかもはっきりとは分からない。
 そしてばらばらになったものを集めて、なんとか人形の形を作った全体図を見て、泉は吐き気を覚えた。
「こちらはこうして破壊した後も破片などが残っているのですが、鬼の場合は残りません。竹本信宏の人形は、跡形もなく消えました」
 荻野目が淡々と語る言葉も耳に入らず、泉は耐え切れずに座卓を叩いた。
 頭の奥からまぐまのようなものが吹き出しては、理性を飲み込もうとしていた。
「紅を、彼女を殺したか」
 ここにはいない誰には向かい、絞り出すように泉は呟いた。
 激情に声が震えていた。



 


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