作業場で電話が鳴った。
 泉は大抵作業場に籠もっている。そして作業場にいる時は誰にもどんな音にも邪魔されたくないのだ。
 そのため自宅には直接、電話を引いていない。
 もし勧誘の電話が作業中に鳴ったとすれば、ありとあらゆる暴言を吐き、気分を害した上でまだ作業を再開させることになる。
 そのため自宅ではなく接客用の家に電話を引いていた。そこには小桃という祖父が作った家事をこなしてくれる人形がいる。その小桃が一度電話を取り、泉に必要だと思うものだけ、自宅の方へと繋げてくれる。
 一階と作業場、二つの子機がここにはあった。
 電話が鳴るたびにリモコンのようだと思いながら、泉は通話のボタンを押した。
「もしもし」
『荻野目様から、お電話を頂いてます』
 少女の声音で小桃がそう教えてくれた。
 魂を持ってから長い年月が流れているので、その声は人間のものと変わりがない。
「繋いで」
『分かりました』
 耳を澄ましていると、回線が切り替わる小さな雑音がした。
「もしもし。お電話を変わりました朝日奈泉です」
 礼儀正しくそう名乗ると、電話の向こう側から声がする。
『お久しぶりです。荻野目です』
 淡々とした口調は約半年ぶりに聞く荻野目の声だった。
 前に聞いたのは去年、あの時は傍らに蜜那がいた。子犬のように寄り添って。
 緋旺が喋り出す前なら、思い出すだけで呼吸が止まりそうだった。けれど今はじくりと痛みを感じる程度で抑えられる。
『あれが、現れました』
 冷静な荻野目の声に、激情が込み上げる。荻野目の電話なのだから、内容は模造人形に関することだと察しているはずなのに、耳にすると強い怒気が一気に暴れ始める。
 脊髄反射のようだった。
 心だけでなく身体まで、あの存在が疎ましくて、憎くて仕方がない。
 何故存在する。何故動き出す。何故、こうして表に現れるのだ。
 泉を苛立たせるためにやっているかのようだ。
 唇を噛んで罵声を飲み込む。ここで声を荒らげても仕方がない。
 荻野目は事務的に、模造が現れた場所、時刻などを教えてきた。大まかな予測のようなものだが、大抵似たような場所、時刻に出現してきた。
 情報を聞き終わると、溜息を吐いた。
 蜜那がいれば、分かりました、と一言告げるだけで済んだ。けれど今は、その依頼を受けるわけにはいかないのだ。
 緋旺はまだ万全ではない。戦える状態ではないのだ。日常生活ならともかく、戦闘となると激しい動きと速さが必要になる。
 それがまだ備わっていないものだ。
「そうですか…申し訳ありませんが今回は別の方にお願いしてもよろしいでしょうか」
 現時点で緋旺を戦わせるわけにはいかなかった。
 まだ身体が整っていない状態で模造と対峙すれば、こちらが壊される可能性が高い。
 模造を破壊したい気持ちはある。それは緋旺も同じだろう。だがそれよりも強い気持ちがある。
 失いたくないという思いだ。
 それに模造の人形は緋旺以外の者でも破壊出来る。
 一番初めに出現した模造を破壊したのは泉ではなく、鬼などを狩る仕事についている人たちだったそうだ。
 今回は、その人たちにお願いしたほうが無難だろう。
 だが断った途端、刺さるような視線を感じた。
 緋旺が怒っているのだ。
『何か、不都合なことでも?』
 依頼を断るのは今が初めてで、荻野目は気に掛かったらしい。あれほど模造に関して憤りを見せていたのに、どういう心境の変化なのかと思ったのだろう。
「少し…後一ヶ月ほど経てば」
 安定する、と言おうとした。だがそれよりも早く、傍らから手が伸びてきた。
 細く美しいそれは、泉が作りだしたものだ。
 冷たい肌が受話器を奪った。
「問題ありません」
 冷たいまでの声で、緋旺は荻野目に告げた。
「今回の件もお受けいたします」
『ですが』
 いきなり知らない声が出たことに、戸惑った声が微かに聞こえる。
 受話器を奪い返そうかと思ったが、緋旺に対して力で敵わない。それに、全身から強い拒絶を感じた。
 行動を妨げることは誰一人として許さない。そう緋旺が無言で伝えてきた。
「泉は今、動揺しております。ですが仕事のほうに支障はありません」
 とても丁寧な言葉遣いで緋旺が答える。
 今までの人形はどれも身体が動く段階を経て喋り始める。身体がまだ綺麗に動かないというのにこれほど流暢に喋るのは緋旺が初めてだった。それが今回は難になってしまった。
『もう一度ご連絡させて頂きます』
 どうも事態が混乱しているようだと思ったらしい、荻野目は電話を改めることにしたようだ。
 当然の判断だろう。
「必要ありません。片付いた時にはこちらから連絡させて頂きます」
 だが緋旺は荻野目の提案を断った。
 この仕事は自分の物であると、荻野目ではなく泉に主張したかったのだろう。
 緋旺は通話ボタンを押して、受話器を泉に差し出した。
「私はもう十分に戦える」
 未だ表情を上手く現すことの出来ないというのに、何の躊躇いもなく緋旺は断言した。
 矜持の高さと強さを突き付けられ、泉は溜息をつく。
「まだ、だよ」
「みくびるな」
 冷静な判断に、緋旺が厳しい一言を浴びせた。
 作り手と、作られた存在ではある。
 だがこの二人の間に主従などという観念はなかった。
 対等であり、同じ。繋がった意識は互いの感情をある程度察知させる。
 緋旺が苛立っていることを泉は感じ取っていた。それと同じように、泉の不安を緋旺は感じているだろう。だから冷たく言い放つのだ。その不安は無用なものだと。
「俺の目からしても、無理があると思うけど」
 それまで黙っていた恭一が、静かに口を挟んだ。
 とても客観的な視線からの意見だった。
「まだぎこちない」
 歩くときに間接が危ういことは端から見ていて明らかだった。滑らかさが欠けている。
 機械であったなら、油を差しているところだろう。
 だが緋旺に必要なのは油などではなく、歳月だ。
「それでも対抗出来る」
 そんなものは問題ではない。という目に、恭一は苦笑していた。
「出会って数ヶ月で、君を失えと…?」
 戦うことを考えれば考えるほど、蜜那を失ったことを思い出す。粉々になった可愛いあの子のことを。
 それが泉の表情を陰らせる。
「貴方の心配も不安も分かっている。けれどそれ以上に私は怒りを抱いている。あれは私が潰すべきものだ」
 そう、緋旺はあれを破壊することに矜持を持っている。義務でもあった。
 存在していることが許せない。あれは自らの手で壊すべきものであると。
 それは泉の気持ちよりも強いかも知れない。同じ人形であるからこそ。
「他の誰にも触れさせない」
 緋旺は瞳の奥にある緋色で、泉を正面から見つめた。
 この熱があれを灰にすることを望んでいる。
 言葉にしなくとも、泉にはそれが理解出来た。
「君の気持ちは分かる。けど戦うのなら万全な状態にしたい。今回だけは別の人に頼んで」
 抑えてくれ。
 そう懇願するが、緋旺は形の良い唇で「出来ない」とはっきり告げた。
「私たちは何より矜持を大切にする。誇りが貴方たちのいう命のようなもの。それを崩せば、私は私ではいられなくなる」
 貴方の言うことは、命を捨てろと言っていることと同じだ。
 どこまでも強く、曲がることなく緋旺は言った。一つの譲歩も受け入れない。
 いざとなれば、自分を作った泉から逃れてでも動き出すだろう。
 それだけの意志があった。
 止めても無駄だ。どんなことをしても、どんなことになってもあれを壊す。態度で示され泉は手に持っていた受話器を見下ろした。
 もう緋旺と目を合わせていることが痛いかのようだ。
「君たちは我が儘で…残酷だ…」
 美しいだけではない。愛らしいだけではない。
 その矜持のためであれば、自分たちを捨てることを厭わないのだ。
 与えられた愛情の分だけ育ち、同等の思いを返そうとする。けれどそれよりも強く、誇りを重視していまうのだ。
 まるで本能のように。
「本当に残酷かどうか、見せてあげる」
 緋旺は目をそらす泉にそうはっきりと言った。
 繋がっているその瞳で、見ろと。



 泉の部屋、狭いベッドの上で肌を寄せ合っていた。情事の後の気怠さに包まれながら、泉は吐息を零す。まだ甘さが残っているような気がした。
 絡んでくる腕をほどこうともせず、身を委ねる。
 人肌はいつも気持ちがいい。
「いいんですか?断らなくて」
 恭一は緋旺について、尋ねてきた。気に掛かっているのだろう。
「…見ていて分かるように、あの子はまだ素早い動きは出来ないんだ」
 抱き合うようにして腕に収まりながら、泉は緋旺の動きを思い出していた。
 静かに生活する分にはもう十分だが、戦闘になると不利だ。
 今までの模造は、完成された蜜那ほどではないがそれなりの速さと力を持っていた。
 力はともかく、今の緋旺ではスピードが追いつけないだろう。
「相手の攻撃を待って、その隙をつくように攻めることになるだろう。基本的に受け身体勢になってしまう」
 向かっていくほどの速さがないのなら、向かってくる敵の隙をついて反撃する方法になってしまう。
 だが受け身というのは相手がどう出てくるのか分からない分、不安要素も多い。
「難しいですね。俺は守るより攻める方が得意だから、そう思うのかも知れませんが」
 空手を幼い頃からやっている恭一は悩んでいるようだった。
 どう考えても、緋旺が動くのは賢明ではない。
 怒りにまかせて動き、良い結果を得られることなどない。そんなことくらい緋旺も分かっているはずなのに。
「酷いよね…」
 泉は蜜那を失った直後の自分を思い出して、つい恨み言を口にした。
 生きていること自体が空しく思えたあの日々。それが再び訪れるかも知れないと思うだけで、あの存在を失うかも知れないというだけで、息が苦しくなる。
 胸が押し潰されそうだ。
 瞳を繋げ、艶やかな魂をこんなにも近く感じられるようになったというのに。
「一息すらつかせずに、こんなことになるなんて」
 泉はまだ安息を味わっていない。
 流暢に話し、滑らかに動き、そして表情を露わにした時に初めて、瞳を繋げた人形は完成されるのだ。だが未だ不完全な緋旺のままで、戦いが訪れた。
 そしてそのまま、破壊されるかも知れないのだ。
「怖いですか?」
 恭一が泉の髪を撫でた。脱色して少しぱさついたくせ毛を優しく、梳いてくれる。
 こうして慰められると少しだけ気持ちが落ち着く。随分年下の男に心ごと寄りかかっている。
「聞くまでもないだろ?」
 苦笑しながら、泉は呟いた。怖い。今すぐ緋旺を隠してしまいたくなるほど。
 けれどそうすれば、彼女の矜持を崩すことになる。
 それは作り手として、あの人形に心奪われた一人の人間として、出来ないことだった。
「緋旺は勝てると、そう断言してましたね」
「そうだけど。僕には分からない。彼女の能力をまだ把握できてないから」
 どれほどの力と速さ、そして柔軟性があるかということは、実戦してみなければ分からない。そのため蜜那も色々と自分で試していた。
 アクロバティックな動きを披露していたのも、そのためだ。
 どの程度激しい運動が出来るのか、間接はどこまで曲がるのか、力の加減はどうするのか。人形は自分で試して、自分で理解する。
 泉はそれを補助しているだけに過ぎない。
「無理にでも止めたほうがいいですか」
 恭一の声が沈む。心配しているのは、泉だけではない。
 この男もまた、人形に惹かれる人間だ。まして被旺はその中でも特別な存在。
 蜜那でそうであったように、緋旺が壊れるというのは受け入れたくないことだろう。
 その上失えば泉が酷く精神の安定を欠くことも知っている。もう二度とあんな現実を見たくないというのは、同じ気持ちだろう。
「でも、それじゃ緋旺のプライドがね」
 厄介な存在だ。
 大切にするだけでは、彼女は満足しない。望むことを阻めば、その瞬間にでも彼女は自分自身を棄てるだろう。
 望むことを出来ない己など、魂を持つ価値もない。そう決断してしまうのだ。
 意識の一部を共有しているだけに、思っていることを痛いほど感じ取っていた。
「それに…これは希望的推測なんだけど、倒せる可能性はある」
 泉は次第に薄れていく情事の甘さと引き替えに、感情を抜かして冷静になっていく自分を感じていた。
 恐怖を振り払い、ただひたすら推測だけを展開させる。
「あのままで、ですか?」
「そう。今まで蜜那は手を抜いてやっていたから。現在の緋旺の能力でも、本気を出せばどうにかなるかも知れない」
 身体が慣れれば慣れるだけ、蜜那は猫がおもちゃにじゃつくようにして、模造と戦っていた。
 それを知らなかったらしい恭一は泉の髪から手を離して、目を見開いた。
「そうなんですか?」
 意外だったようだ。
 驚いている恭一に、泉は微笑んだ。あの子も素晴らしい子だった、そう誇るように。
「喋れるようになってからはそうだよ。倒すより自分の能力がどこまであるのかさぐってるようなものだったよ」
 模造なんて相手にならなかった。
 泉はそう呟き、苦みを噛んだ。
 あの仕組みにさえ気が付いていれば、蜜那を失うことなどなかった。
 真っ向から戦えば、歯牙にもかけないような敵だったのに。
 悔やんでも仕方がない。分かり切っているというのに、泉は時々どうしようもない後悔に苛まれる。
 おそらく、吹っ切ることなど出来ないだろう。
「緋旺も…それくらいの能力はあるでしょうか…」
 恭一の疑問に、泉は目を閉じた。
 焼き付くような鮮烈な緋。そして差し込んでくる金。
「あの子は、蜜那以上のものがある」
 もしかすると、紅を超えられるかも知れない。
 そんな淡い期待が生まれてきた。
 破壊することに関して、紅以上の者はないと思ってきた。今まで紅以上の人形を見てこなかった。
 だが緋旺を作り上げた時の高揚と、自分以外の意志を感じた時に震えた神経が「最も優れた者を生み出した」と囁いた。
 自分が制作した人形でも正当な評価が出来ていた。愛情で目を曇らせることはなかった。
 それだというのに、泉はその時、緋旺を最上だと感じたのだ。
 あの感覚は間違っていたのか、それとも。
「もしかすると…ね」
 淡い期待だ。けれど確固とした確信にも、似ていた。



 


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