ビクスドールの焼成中。泉は仕事場の中で立ったまま恭一と話をしていた。
 座ればいいのだが、恭一が人形たちをあれこれと見ているので、なかなか落ち着かないのだ。
 その中でも、修復を頼まれている人形をじっくりと眺めているようだった。
 真剣な様は職人のものだ。
 実年齢より洗練された雰囲気が漂ってくる。泉は仕事をしている時の恭一が好きだった。自分と近い人種だからだ。
 人形師という職業をしていると、なかなか同業者とは会わない。まして一日の大半を仕事場にこもっているような生活だ。
 優れた職人を見ているだけで、気分が高揚してくる。
 創作意欲を刺激されるのだ。
「これは直せますね」
 肌が色褪せてしまった人形に、恭一はそう判断した。泉と同じ意見だ。
 割と簡単な仕事になるだろう。
「持って帰ります」
「お願い」
 泉の元には人形を買い求める人だけでなく、補修を望む人も訪れる。本格的に美しく補修してくれる職人を知らないのだ。
 なので泉の元に情報を求める。
 泉自身も補修を出来るのだが、やはり補修に関しては腕のある恭一へと頼んでいた。
 補修をすると決めた人形から視線を外し、恭一は泉を見た。どうやら人形に関する興味は一段落ついたらしい。仕事場に入ってきて十五分。毎回これくらいの時間は、人形に意識をとられるようだ。
「学校どう?」
 ようやくお互いの話になった。恋人同士としては、この言葉が出てくるタイミングはきっと遅い。
 けれど二人ともその遅さを気にしている様子はなかった。
「なかなか楽しいですよ」
 恭一は希望していた大学にいつの間にか合格していた。どの大学をいつ受験していたのか、合格してから聞かされたのだ。
 その時期は泉が不安定だったせいなのだが、受験の心配もさせてくれなかった恭一に少しばかり不満はあった。
 最も、不満よりも大きかったのが自分への情けなさだが。
「経済学部だっけ?」
「そうです」
 美大を一年も通わずに退学した泉にとって経済学部なんて縁のないものだ。一体どんな講義をしているのかすら想像が付かない。
「難しそうだよね」
「世の中の流れと密接してるんで、やってると面白いですよ」
 株価やら、何やらのことだろうか。
 泉の頭には昼間に見たニュースの一部が流れる。ヘラクレスとか言うやつだ。名前くらいしか分からない。
「分からないって顔してますよ」
 恭一が泉を見て微笑む。
「さっぱりだね」
 人形との閉鎖された暮らしの中で生きているという自覚はある。時々世の中の流れや、一般的に知られている、流行関係のことに疎くなっているのだ。
 だが生活に支障がないので気にしていない。
「大学はいいんですけどね、通学が」
 恭一が憂鬱そうに呟く。
「一時間近くかかるんだっけ?」
 それは入学する前から聞いていた。一時間の通学時間は、泉にしてみれば長く感じる。その一時間があれば作業がどれだけ進められるだろう、と思わず換算してしまった。
「そうです。あの時間がどうも勿体なく感じられて」
 どうやら一時間を惜しんでいるのは恭一も同じらしい。
「ここからだともう少し近いんですけどね」
 恭一は意味ありげな視線で泉を見た。恭一の自宅と大学の間に、泉の家があるのだ。
 なのでここから通ったほうが時間の短縮になる。それだけの理由ではないらしいのだが、前々から居候させてくれ、とお願いされているのだ。
「何が言いたいのかな」
 言いたいことを分かっていながら、泉は白々しいことを言った。
「居候させて下さい」
「駄目」
 頭を下げる恭一に泉は即答した。
「どうしても、ですか」
 何度目かになるやりとりだ。そのたび恭一はすがるような目をするのだ。同情に訴えかけられると、無下にしにくいということをよく知っている。
「だってねぇ…ここに来てどーするの。大学の近くなるっていうのはいいかも知れないけど」
「好きな人と同居したいっていうのかおかしいですか?」
(あーもう…なんでそういう言い方をするのかなぁこの子は)
 そんな真っ直ぐ、好きな人と言われて嫌な気はしない。泉の意志を揺らすにはとても適切な言葉だ。
 結局、恭一が好きなのだ。好きな人に甘いのはお互い様だろう。
「変じゃないよ、変じゃないけどさ」
 泉は脳裏で二階を思い浮かべた。
 祖父と父が生前使っていたままの二階だ。祖父の和室、父の洋室、この家を造ってからさほど年月が経っていないので部屋自体は綺麗なものだ。
 だが、和室はともかく父の洋室にはダブルベッドがどーんと入ったままになっている。
(部屋のど真ん中に置いてるもんなぁ)
 そして物が少ない。まるでベッドさえあればいい、というような部屋だ。現に父は人形意外の物にはさして興味を示さなかった。
 あの部屋を恭一に見てもらう勇気は、今のところない。
 いくら父が変人だと有名で、自分が制作した人形と愛し合っていたとしても。いざ生々しい痕跡を目にすると引くかも知れない。
(でも恭一君の場合、そこまで愛していたのかって感動する可能性もあるな)
 泉が人形に心の奥底まで浸食されているのと同じように、恭一もなかなかに深く人形に心奪われている。
(でも貸すなら無難に和室だろうなぁ)
 祖父の部屋はこのまま貸したとしても問題はない。
(ただ、あの日当たりが…)
 今まで移動するのが面倒だったから一階の自室のまま泉は暮らしているのだか。二階の洋室と続きになっているバルコニーを気にしてはいた。あそこは景色がいい。その上洋室には日光が惜しみなく入ってくるのだ。
 朝と夕暮れは格別なものがある。
 そしてもう一つ気になっているのは、泉のベッドの狭さだ。シングルで男二人が抱き合うのはやはり窮屈だ。
 相手が落ちないように気を使うのは少々苦労だった。
 ダブルベッドがいいなぁとは思っているが、泉の部屋にはすでにそんなものを置くスペースがない。和室にダブルベッドは似合わないし、部屋が狭くなる。
 それに比べて、洋室はダブルベッドを置いてもゆとりがあるのだ。
(恭一君にあの部屋を?でも…)
 父の面影がちらついた。
 あの部屋で、ダブルベッドの上で最愛の人を抱き続けた父。
 それに倣うようなことをしていいのか。父はそんなこと気にもしないだろうが、子どもとしてはやはり、後ろめたいものが。
(ベッドの上であそこから朝日眺めるとか…最高だろうな)
 考えるだけでとても綺麗だ。うっとりするほどだろう。
 まして人肌が傍らにあれば、言うことはない。
 相反する気持ちが混ざり合って唸る。
「やっぱり、駄目」
 決断を下すのに躊躇いがあり、いつもと同じことを口にした。
「今、随分考えてましたよね?」
 断るまで黙っていた泉を観察していたらしい。悩んでいるのを見て、恭一が食いついてきた。
「真面目にね」
 かなり具体的なことまで思案してしまった。新しいダブルベッドのことまで意識が飛んだくらいだ。
「でもどうしても仕事のことが引っかかるんだよね。最高の仕事は最良の環境でこそのものだと思う」
 恭一が職人でなければ、ここに来てもいいとこの場で言えただろう。だが彼は職人で、だからこそ好きだった。
 そして職人は、手に馴染んだ道具、肌に染み込んだ空気でこそ最高の仕事が出来ると思っている。それは泉がそうだからだ。
「君は君の家。僕はここが一番合っている仕事場だろう?そして僕は、人の気配があるときっと落ち着かない」
 祖父と父がいたときは三人で仕事をしていたこともあるが、あれは身内だからだ。
 物心つく前から側にいた人と、数ヶ月前に出会ったばかりの人を同じには出来ない。たとえ好きでも。
 泉が自分の仕事に関してのことを言うと、恭一は黙り込む。
 決して泉の仕事を邪魔したくない。という気持ちがあるからだろう。けれど一緒に暮らしたいという希望はまだ諦められないらしい。
 その気持ちが手に取るように伝わってくる。
(暮らせないことはないと思うけどね)
 仕事中は作業場に入ってくるな。恭一は、自分の仕事の場合は自宅に帰れ。という約束を作れば暮らしていけるだろう。
 そもそも恭一の仕事は多くない。学生と両立出来る数だ。多ければ弟子や親戚の人間に回すだろう。それほど難しいものでなければ恭一でなくても、篠倉で人形に携わっている者が補修出来るはずだ。
(同居か…)
 毎日ぬくもりがあるという生活は気持ちいいだろうか、それともすぐに苦痛になるのだろうか。
 一人が気儘だとは思うのだが、寂しいのも事実だった。
 恭一にこの話を持ち出されるたびに、泉は揺れた。
 ふと、それを見透かしているような視線を感じる。
 主は恭一ではなく、作業場の椅子に座っている一体の人形。
 黒地に金と緋色で彼岸花が描かれた、チャイナ服のようなものを来た少女の人形。袖口に広がっており、膝より少し上まであるスカートの両サイドにも切り込みが入っている。その下には黒のミニスカートだった。
 服装は黒だというのに目を引くものだった。だがそれよりも強く人の意識を惹きつけるのが、その瞳だった。
 平凡な茶色の光彩と瞳孔。だがその瞳を見るとなぜか艶やかな緋色と、金色がちらついてくるのだ。
 その色彩自体は、瞳に入っていないはずだというのに。
「何?」
 物言いたげな視線に、泉が問い掛ける。
 この少女と泉は感覚が繋がっていた。なので、今泉が迷っていることは、そのままこの少女も感じていることだろう。
 表情一つ変えずに、少女は唇を開く。
「はっきりしない二人だ」
 もうくぐもることはなく、涼やかな声が凛と響いた。蜜那よりやや落ち着いた声音だ。
「まあ…そうだけど」
 悩んでもいいじゃないか。と泉は心の中で言い訳をする。すぐに決めなければいけないことでもない。
「緋旺はもう動けるんですか?」
 恭一は無口な緋旺が喋ったことに、すっかり意識をそちらに向けたらしい。
「多少。まだぎこちないけどね」
 緋旺は望まれていることを理解して、椅子から立ち上がった。
 ゆっくりとした動作だが、危なっかしいところはない。
 安定した動作に、恭一は感嘆の声を上げる。無理もないだろう、制作してから約三ヶ月しか経っていないのだ。異常に早いと思っていた蜜那でさえ、三ヶ月の頃には非常にぎこちなかった。その上喋ることが出来なかったのだ。
 だが緋旺は喋り、歩くことが出来る。後半月もあれば何の支障も違和感もなく、彼女はなめらかに動き始めるだろう。
「早いですね」
 恭一はゆったり歩いて二人に近寄ってくる緋旺に驚きを隠せないようだった。
 だが間接の動きを見ているのはさすがだ。やはりまだロボットのような違和感が時折表れる。
 それに素早い動きがまだ出来ないのだ。
「不思議な存在です」
 人ではなく人形だ。それなのに魂を宿して、こうして自ら動く。まして、他の人形たちは何十年という歳月を経て魂を宿すというのに。
 緋旺はたった三ヶ月でここまで来た。
 制作者の泉さえも、緋旺という存在はとても特別に思えた。
「本当に…不思議だよね」
 この世で最も自分に近く感じる存在だが、同時に最も遠く思える存在でもあった。
 緋旺はどうやって魂を宿して、ここにいるのだろう。
 答えのない問い掛けだ。
 だが理由はなくとも、緋旺の眼差しは泉の琴線を震わせていた。



 


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