『二段階 見極め』



 原簿を見ると、早瀬は「見極めか」と小さく呟いた。
 はんこがみっちり詰まった原簿。もう押す場所は限られている。
 やる気のなさは今日も感じられなくて、その代わり元気もなさそうだった。
 体調が悪いのだろうか。
「もう終わりだね」
 しみじみ口にされた言葉に、俺は「そうですね」と何とも言えない複雑な気持ちで返した。
 もう終わりだ。
 見極めをもらったら、後は検定を受ける。そして合格すればもうここに来ることはないだろう。
 ということは早瀬に会うこともなくなる。
 俺を好きだという人と、本意を確かめられないまま、自分の気持ちもはっきりしないまま、別れることになるだろうか。
「今日は自主経路はなし。俺が指示するから。その通りに行って」
「なしなんですか?それって、簡単じゃないですか?」
「まあね。ほら、もう必要なことは出来ているってことが前提だから」
「出来てる…」
 俺って出来てるのか?という疑問を抱いてしまう。
 そりゃある程度は安定してきたけど。でも未だに車線変更はしたくない。
 それは早瀬も分かっているだろう。
 車線変更ビビってるよね。と笑うくらい理解しているはずだ。
「出来てるよ。うん」
 車に乗り込み、早瀬は静かに指示を出してくる。
 今日も口数は少ない。高速なら分かるけど、今日は路上だっていうのにどうしたのか。
 もうすぐ終わるから、からかうのも止めておこうってことなんだろうか。
 じゃあ、あの言葉は冗談だったってことか。
 好きだかとか、付き合いたいだとか、そういうのは。
 考えてみれば、それが普通だ。
 教官と教習生で、男同士で、期間限定の付き合いなんだから。
 きっとそれが普通。
 だけど、掻き回された俺はどうなるんだろう。
気になって、人にそれとなく相談した俺の立場は?
 このまま忘れてくれってことか。それって、理不尽じゃないんだろうか。
 遊ぶだけ遊んで、はい終わりって。
 それなら初めから、本気なんて言わなきゃいいのに。
 そう考えていると、だんだん苛々してきた。
「早瀬さん、静かですね」
 苛立ちは声にも出ていて、ちょっと棘のある言い方になった。
 でも早瀬は気にしている様子もない。
 もうそんなに気を張り詰める必要もないはずなのに、じっと前を見ている。
「うーん。もう香坂君も卒業だなぁと思って。そしたら寂しくなる」
「卒業かどうかなんて分からないじゃないですか。見極めもらえなかったら、検定受けられないし」
 第一段階は、補習を受けて検定が少しだけずれたのだ。
 今回もその可能性が十分あると思って、俺はやってるんだけど。
「ああ、そうか…。その手もあったか」
 早瀬はいいこと思いついた、というような顔をして見せる。
「止めて下さい!そういうのに私情を挟むの!」
「だよねぇ…」
 早瀬は「んじゃ次も〜」と気楽に見極めをお預けにしそうで怖い。余計な事を言ってしまったようだ。
「今の香坂君だと、見極めあげないことにはいけないしね」
「そうですか?」
「うん。もう出来てるよ。だからもう卒業だなぁと」
「でも検定落ちると補習ですよね」
「受かるよ、落ち着いてやれば」
「落ち着いて」
 検定でちゃんと落ち着けるっていうのは、かなりの度胸が必要なんじゃ…?
 第一段階も途中でダレたけど、一応緊張はしたしな。
「自主練習五時間くらいしない?って聞きたいところだけど」
「五時間ってやりすぎ…。しかもお金かかるでしょう」
「うん。でもどれだけ自主練習しても、いつかは卒業しちゃうしね」
 そこは、本当に落ち込んでいるような声で言われて。ああ、冗談じゃなかったのかなと、不覚にも揺らいでしまう。
 俺より年上なのにそうして寂しいってことを全面に押し出されると、ちょっと子どもみたいだ。
 だからって「俺も好きです」とは言えなかった。
 言えば、嘘みたいな気がした。
 心からそう思っているかどうかなんて俺にも分からないのに。
「早瀬さんは、どうするんですか?」
「どうするって?」
「なんか…俺に言ってたじゃないですか」
 子どもっぽい早瀬に、少しだけ手を差し伸べるつもりでそう聞いた。
 むしろこの不安定な状況をきっぱり何かに位置づけたい。
「言ってたね」
 早瀬は何やらいつも持っている小さなボードからボールペンを取り出した。
 同じくそこに挟んでいる小さな紙。メモのようなものに何かを書き始めた。
「でもね、現実に俺がここで君に手を出すわけにはいかないんだよね。これがプライベートだったらさ、とっくに…」
 とそこで早瀬は言葉を止めた。
「…なんなんですか、とっくにって」
「でも一応教官だからさ。大人しくしなきゃいけないわけで」
 とっくに…の続きを言わないまま、早瀬は話を続ける。
 何を言うつもりだったのか。気になることは気になるが、余計なことを聞くとろくでもないことになりそうだ。
「でも大人しくしてると。君はいつだって逃げられる状態なんだよね。それが俺は不安なんだけど。でもそうするしかない」
 早瀬は書いた紙を、俺の教習手帳に挟んだ。
 一体何だろう?
「出会ったのが、教官と教習生だったからそれは仕方ない。そこは諦めてる」
「今、何はさんだんですか?」
「ん?俺の携帯の番号とアド」
「…はあ」
 黙ってさっさと何をしているのかと思えば。
「ここ卒業して、もし俺に何か言いたいことが出来たら電話かメルして欲しい。いつでもいいし、何でもいい。待ってるから」
「いつまで?」
「いつまでも。君が忘れるまで。これでも俺、思い続けたら一途なのよ」
「へぇ…」
「信じてないって顔してるけどね」
 頭から否定する気はないけど。でも出会ってから結構軽いノリだったんで、あんまりそういうタイプに見えない。
 待ってるとか…そういうのより先に行動しそうに見えた。
 だから、意外。
「行動派みたいなんですけど」
「そうだよ。だから待つのって性に合わないし、怖い。でも、それでも今はいいかと思ってる」
 怖い。そう早瀬は言う。飾ることを止めたように。
 真面目だ。どこまでも真面目で、冷静で。
 笑って流せない。
 嫌だな。こういう肝心な時に、早瀬は容赦なく自分の気持ちをぶつけてくる。
 曖昧にすることを許さないみたいだ。
「待ってる」
 少しだけ微笑みながら、早瀬は見極めの欄に○を付けた。
 A判定。これで教習が終了だ。
 与えられた時間は、消化してしまった。
 渡された結果に、俺は少しだけ不安になった。これでいいのかと。
 いいも何も、これをもらうために教習をしてたのに。
「次は検定ですね」
「うん。でも俺香坂君の検定は出来ないと思う。だからこれで教官としては最後かな」
 最後。
 早瀬は躊躇いもなくそう言った。
「検定受かれば」
「そう。合格すればね」
 早瀬は「大丈夫、合格するよ」と笑いながら言ってくれた。
 でも俺は少しだけ、合格するのが惜しいような気がした。
 楽しかったのに。早瀬に教えて貰うのは、とても楽しかったのに。
 いつの間にこの空間が心地よくなったんだろう、俺は。




『卒業検定 編』



 見極めをもらって二日後、卒業検定だった。
 夜明け前に雨が降ったらしく、朝日で道路が光っていた。
 眩しいな。そう思いながら送迎バスに乗った。
 検定の前に説明がある。
 それは修了検定と同じだ。
 接触事故を起こしそうになったら中止。理由無く右側通行をすれば中止。縦列と方向転換でポールに触れると中止。その他教官にブレーキを踏まれると中止。
 そしておもしろかったのは、交差点右折の場合、前方の信号が赤に変わってもなかなか通行出来なかった場合、後ろに車がいなければバックして元の位置に戻るのも一つの手段だと言われたことだった。
 そんなやつ、未だかつて見たことない…!
 アリと言えばアリかも知れないけど。
 そうならないことを祈りながら、検定の開始を待った。
 俺の順番は四人中三番目で、自分の順番を待合室で待った。
 二番目の人が検定の時は後ろに乗って、検定の様子を見ているんだけど、検定員はやっぱり早瀬じゃなかった。
 ぼーっと自分の順番を待ちながら、別に落ちてもいいかと思っていた。
 落ちればもう一度補習を受けるだけのことだ。そうすればもう一度早瀬と教習が出来る。 別に早瀬に会いたいってわけじゃない。
 ただ「落ちたの!?俺は受かると思ったのに」って笑う早瀬の顔は、見てみたいかと思うだけだ。
 すごく面白そうに笑ってくれそうで、その顔は見ていると楽しかった。
 そう、早瀬が笑っているのは、俺も楽しかった。むかついてること言われているはずなのに、最初はやっぱり腹が立ったはずなのに、いつの間にか楽しくなっていた。
 洗脳されてみたいで、癪だけど。
 ぼーっとそんなことを考えていたら、俺の番が来た。
 座席を合わせて、シートベルトを締めてエンジンをかける。
「リラックスして、頑張って下さい」
 三十後半に見える男の教官は、落ち着いた様子でそう言った。
 ああそういえば早瀬も、第一段階の最初の頃はそう言ってくれていた。最近は「んじゃ行こうか」と軽いノリだったけど。
 そんなことを懐かしく思いながら、走り出す。
 検定のコースはもう聞いているので、最初は教官の指示に従い、帰りは自分でコースを考える。
 考えると言っても、いつも通っているコースをいつも通りに帰るだけだ。
 自主経路の実習より簡単かも知れない。
 単純作業だ。
 俺は妙に落ち着いて運転していた。落ちてもいい。むしろ落ちてやろうか、という気持ちだったからだろうか。
 いつミスしても大丈夫。そんな意識は良くないんだけど。でもそんな気分だった。
 そしたら、全くミスせずに路上を終了してしまったのだ。
 リラックスしていたのが良かったのかも知れない。
 人生って不思議だ。
 所内に戻ってくると、方向転換か、縦列。どれかをしなければいけない。
 俺はくじびきで左向きの方向転換に決まっていた。
 方向転換なんて、今まで一度も失敗したことがない。
 タイミングをすでに覚えてしまってるのだ。
 早瀬も問題なしと言ってくれた。
 と、なるとやっぱり検定でもタイミングを外すことはなくて。
 結局、何事もなく俺の卒業検定は終わってしまった。
 あまりにもあっさりしていて、実は教習なんじゃないかって思ってしまう。
 合否が出るまで一時間ほどあったけど、頭の中では合格なんだろうなぁと思っていた。教官はブレーキ踏んでないし、方向転換も失敗してない。
 ということは、卒業か…。
 早瀬は今教習かな。帰りに何か言った方がいいかな。お世話になりました、とか?
 でもそれを言ったら、もう会わないって思われそうだ。
 だからってまた会う気があるのかって聞かれると、微妙で。
 俺の中では何も整理されてないし、固まってないし、こうしている間も早瀬に対してどうしていいのか分からない。
 分からないのに。
 寂しいかも知れない。そんなことを思ってしまった。
 教習所内に、放送がかかる。
 卒業検定を受けられた人は、第三教室に入って下さい。その案内に従って大勢がぞろぞろと移動した。
 不合格者はいませんでした。という一言にその場がざわついた。良かったという誰かの呟きが聞こえた。
 やっぱり受かった。
 ということはもうここにいる必要性はない。それどころかいることは出来ない。
 気持ちがもやもやしし始めるが、どう整理をしていいのか分からない。
 だが教団で教官の一人が運転者のマナーと心構え。そして免許を試験所までの行き方、試験の受け方などの説明をしている。
 もう俺も、教習が終わった一人として聞かなきゃいけない。
 教習所で卒業検定を合格しても、免許を交付している場所での筆記試験が落ちれば免許はもらえない。
 筆記か…筆記なぁ…。○×は得意だから、落ちないと思うけど…。
 とぼんやり思っていた。
 卒業するなんて実感ない。明日からここに来なくていいなんて、頭では分かってるんだけど。
 でも…。
 何に悩んでいるのか、自分でもはっきりしない。
 曖昧なまま、卒業証書の受け渡しが始まった。
 手に取った卒業証書は、入所式の為に取った写真が貼ってある。
 あの時は、免許とれるか不安だったのに。
 卒業していく今日は、別のことが不安になりそうだった。
 まだ何も。
 早瀬に対してのことを、何も分かってないのに。
 俺は、教習所を卒業した。


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