『自主経路2 編』



「自主経路第二段です」
 早瀬は原簿を受け取ったら、笑顔でそう言った。
 やる気のない人だが、笑顔を浮かべると割と優しい雰囲気になる。
 でも俺にとってはあんまりいい印象のない顔だけど。
 この表情でろくなこと言わないからな、この人。
(自主経路か…)
 前回の自主経路。ある所で停車して、ここから教習所まで自力で帰る、というものだったのだが。
 帰れた。迷うことなく帰った。
 だが途中で一回車線変更が危険だった。
 ちゃんと変更出来たんだけど、でもちょっとタイミングずれていたら、間違いなくトラックと当たっている。
 嫌な汗を背中にかくくらいデンジャラスだった。
 早瀬はいつもなら手か口を出すのだが、自主経路なだけあって黙ったままだった。
 ただ「……うーん」と唸ってはいたけど。
 言いたいんだろうな、注意したいんだろうな。という気持ちだけよく伝わってくる。
 いつもうるさいくらい喋っている分、黙られると居心地が悪かった。
 何かもやもやとしたものを抱えたまま、前回は終わったんだけど。
 今回もそうなんだろうか。
 ちょっと気が重い。
「んじゃ、ここまで行って」
「遠いですね」
 前回の二倍ほど距離の離れた、とある一点を指定される。
 それでも、行ったことのある道だから迷うことはたぶんないけど。
「まぁまぁ、前にも行ったから大丈夫でしょう」
 早瀬は気楽に言ってくれる。
「はあ」
「では、行きましょうか」
 今日も早瀬は黙っているんだろうか。
 そう心配になりながら、運転席に座って教習を開始したんだけど。
「自主経路、時々迷って帰れない子がいるんだよねぇ」
 早瀬は気怠そうにそう言い出した。
「教習で行ってるところばっかりなのに?」
「そう。この前行ったはずなのに、見たこともないところで曲がって、ずんずん進んでいくから、自分で道作ってんのかと思ったら、迷いました…って言い出すんだよ」
「それは…すごいですね」
 方向音痴で、地図を読むのが得意じゃない僕でも、指定された場所までは迷わずに行ける。というか、どこで迷えばいいのか…。
 知らない角で曲がるのが怖い。という人なら、道を迷うことはないんじゃないかと思うんだけど。
 今日はあまり車の通りも多くない。車線変更の時だけどきどきしながら走っていた。
 早瀬も喋っているし。前より随分リラックス出来てる。
 良かったと内心胸を撫で下ろしていた。
「半泣きで、ここどこですか、って言われても、俺がどこだよ!って聞きたいんだけどね」
「分からなかったんですか?」
「まさか。この辺は全部頭に入ってるよ。教官ですから」
「真面目に仕事してるんですね」
「なに、その意外そうな顔。失礼だねぇ、俺はいつだって真面目に仕事してるよ」
「人に突然キスしたいとか言い出すのに?」
 笑いながら言ったけど、実際はちょっとどきどきしていた。
 軽口で言っていいことなのか、分からなかったから。
 だったら言わなきゃいいんだけど、文句の一つも言わせて欲しい出来事だ。
「それは仕方ない。真面目だから」
「真面目にあんなこと言うんですか」
「言うよ。本気だったら言うでしょ」
 当たり前のように早瀬は言う。信号待ちでブレーキを文ながら、ちらりと横目で早瀬を確認すると涼しい顔だ。
 人にこんなこと言ってるくせに平然としてて、一体なんなんだこいつは。
 動揺してるのは俺だけで、複雑な気持ちだ。
(冗談にしては、何度も言いすぎだし。最近、このネタで早瀬さん自身が笑わなくなってきてるし)
 まるで、本気なんだって囁かれてる気分だった。
 逃げたい。少しずつ、怖くなってきた。
 だけど気になるっていうのもある。なんでこんなことになっているのか。
 こんなことになってしまった原因の、この男は何なのか。
 どうして、こんなこと言うのか。
「キスしたい?」
「へ?」
「俺のこと見てるから」
 横目で見ていたのは分かったらしい。こっちを向いたら、にやりと笑ってくる。
 意地の悪い笑い方。
 それなのに憎めないのはどうしてだろう。
「したくない」
「なんで」
「路上でキスするなんて、出来ませんよ」
 青信号で車は走り出す。弱々しい加速だと後ろが迷惑だからって、少し強めに踏むようにって言われている。ま、加減しなゃいけないんだけど。
「問題はそこか」
「俺、電車の中でキスするカップルの横に立っててすげー気まずい思いしたんですから」
 わざわざ顔を背けなきゃ視界に入ってしまうような距離だった。
 それまでも仲良さげに寄り添ったり、囁いていたんだけど。
 電車の中でいきなりキスはないだろ。近くには俺以外の乗客もいたのに。
 本人たちは自分たち以外見えないようで、全然気にしてる様子がなかった。
 若さ故というか、見たところ年は同じくらいなのに意識のギャップを感じた。
「間近でキスを見たわけだ」
「場所考えろよ!って言いたくなりました。移動しようにも、結構混んでるし」
「でも羨ましくない?それくらいお互いに夢中って」
 年上なのに、早瀬は気にしないようだ。むしろ微笑ましいというように笑っている。
「俺は嫌です。恥じらいってもんがないと」
「恥じらい!!香坂君が言うとすげーエロいね!」
「エロくない!あんたどういう思考してるんですか!」
「え?そりゃ。男ですから」
「俺も男ですけど、恥じらうってことだけでエロいとか思いませんよ!」
「オープンな感じより、恥じらってる方が好きなんだよね俺。なんかさ〜」
 早瀬はそこで言葉を切って、口元に品のよろしくない笑みを浮かべた。
 怖い。とてつもなく怖い。
 もしかすると、俺はとんでもないものを隣に乗せているのかも知れない。
「ま、その発言からして香坂君の趣味は、大人しい感じの子かな」
 がらりと笑い方を変えて、早瀬は穏やかに笑う。なんだその、何かを誤魔化したかのような話題は。
「大人しい子が好きってわけじゃないですよ。ただ人前でキスとか、そういうのは勘弁して欲しいだけで」
「じゃ人目がなかったらいいの」
「…まぁ、いいんじゃないですか?」
 路上でやるな、とは言わない。
 人の視線がなければ、別に何をしてても二人のことだし。
「うむ。なるほど。ところでさ」
「はい」
「俺、幻が見えたんだけど」
「は?」
 幻?何のことだ?と思わず首を傾げてしまう。
「なんかさ、目的地じゃないかなぁってところがさ、いい感じのスピードで俺の隣を流れていった気がするんだ。気のせいかな」
「ああ!!」
 前はちゃんと見ていたが、横を気にするタイミングを完全に逃していたらしい。
 早瀬の話に気を取られ過ぎだ。
「やー、幻だったね。一瞬だったよ。爽やかなまでに」
「す、すいません」
「いえいえ、いつ「着きました」って言ってくれるのかなぁと思ってたんだけど」
 目的地についたら、教官に「着きました」と報告する。
 するとそこで自主経路成功となるわけだが。
 実にあっさり、俺は無視したわけだ。
 そして今はどれくらい通り過ぎたのかもよく分かってない。
 しかもどんどん車は進んでいる。
「話に気を取られて」
「ああ、キスね」
「…連呼しないで下さい…」
「いいじゃないキス。俺は好きだけどね。気持ちいいから」
「気持ちいいんですか?」
 過去に人とキスしたことはあるが、そんなに気持ちいいと思ったことはない。柔らかな唇とかの感触は、嫌ではないけど。
「気持ちよくなったことない?」
 早瀬はにやりと悪人顔で笑った。含みのあるその表情に、ハンドルを握っている手に力が入る。
 なんか、狙われているような感じなんだけど。
 車内で、教習中で、人目もばしばしにある。だから大丈夫だろう、そう思うのになんだか怖い。
 肉食獣に睨まれているってこんな感じなんだろうか。
 でも俺は男なのに!
 それが不快感を伴わない怖さだから、またどうしていいか分からない。
 落ち着かない気持ちに、口を閉ざしていると、早瀬は「次の信号曲がって〜」とのんきに指示を出してくれた。
 あ、元の空気に戻った。そうほっとした瞬間
「教えて上げたいね」
 そう小さな呟きが聞こえてきた。
 何を。と問い掛ける勇気は、なかった。




『高速 編』



「今日は高速です」
 早瀬はいつもより早く来て、そして少しだけいつもと様子が違っていた。
 なんだか真面目な顔をしている。やる気が感じられないのが普段なのだが。
 やはり、早瀬もこれが怖いんだろう。
 俺は「高速教習中」と書かれた三角コーンを後部座席に積んでいる車を振り返る。
 他の車と変わりない教習車なのだが、その役割は大きく他と異なっている。
 そう、これは高速教習用の車なのだ。
 少しハンドル操作を間違えると、即座に死亡する高速だ。
 玉突き事故が恐ろしい、あのスピードを体験しなければいけない日が来てしまった。
「まずは車の点検して下さい」
 早瀬は「うんざり」という顔でそう言った。
 教習生もびくびくしているのだが、教官なんてもっとびくびくしているだろう。
 なんせ、ブレーキなんて踏めない。
 踏んだらそこでクラッシュだ。
 ハンドル操作を間違えても、すぐ立て直せるかどうか分からないのだ。
 スピードは魔物。というところだろうか。
「高速ってことは、そろそろ香坂君も教習終わるね」
 車のボンネットを開けて点検していると、早瀬が少し離れた場所でしみじみ言った。
「そうですね」
 第一段階では復習項目を付けられたが。第二段階ではつけられることもなくすんなりといっている。
 二段階のほうが時間数は多いのに、早く終わってしまうような気分だった。
「寂しくなるね」
「そうですか?」
「香坂君はせいせいする?」
「うーん、どうだろ」
 日常のようにここに通い続けた日々が、ぷつりと終わるのだ。
 卒業すれば当たり前のことなんだろうけど。
 でも今はまだ教習のことで頭がいっぱいなので、終わった後のことなんて考えられない。 そもそも。
「高速の前にそんなこと聞かれても」
「だろうね」
 恐怖に心臓が縮まっているというのに、感慨に浸る余裕なんてあるはずがない。
 点検を終えて、ボンネットを閉める。
 運転席に座ると早瀬は助手席に溜息まじりに乗り込んできた。
「香坂君が俺の命握ってるんだよ」
「今日は、そういうことになりますね」
「うん。俺を生かすも殺すも君次第」
 大袈裟な台詞に聞こえるが、今日は間違ってない。
「早瀬さん殺したら、俺も死にますね」
「心中か。それはまた、いい響きだ」
「どこが!?」
 心中に魅力を感じる人なんて、聞いたことがない。しかも早瀬のように、失礼な言い方だが、気怠そうに生きている人に言われると俺じゃなくても驚くだろう。
「好きな人と死ねるわけだから、ある意味理想的」
「…不吉なこと言わないで下さい…」
 今はどんな不吉なことを言われても、現実になってしまいそうで怖いのだ。
 早瀬はからからと笑って、そして「出発」といつもより落ち着いた声で言った。


 怖いと人は笑えるんだと思う。
 高速に入って、車が八十キロを越えた頃から俺の口元は少し緩んでいた。
 楽しいわけじゃない。むしろ全く楽しくない。心の中では早く帰りたいと願っている。
 ただ、身体がそうしてしまうのだ。
「あー、ちょっとハンドル間違ったら、死ぬぞ☆」と思っている気持ちが表れているのかも知れない。
 前をトラックが走っている。
 それと着かず、離れずという速度なので、実際はそんなスピードだと思えないんだけど、悲しいことに今日は風がきつかった。
 窓に当たる風の音。そしてハンドルもとられる。
 まるで車内は嵐の中にいるようだ。
 微妙に揺れるハンドルに、気を抜くと車ごと持って行かれそうになる。
 早瀬は高速に入ってからほぼ無言で。じっと前を睨んでいる。
 どうやら妙なことを言って、俺が動揺しないようにしてくれているのだろう。
 だが静か過ぎる車内というのは慣れてないので、緊張は増している。
 冗談を言ってからかわれるのも困る。だけど沈黙も困るのだ。
 我が儘かも知れないが。
「速度見て」
 突然早瀬に言われ、俺は速度計を見た。九十を越えている。
 少しだけアクセルを緩めた。隣の車線ではそれでも車が通り過ぎていく。一体あの車は何キロで走ってるんだろう。
「今日は、無口ですね」
 ぴりぴりした空気が耐えられなくなって、そう声を掛けた。
 すると早瀬は少しだけ笑った。
「だってここで余計なこと言ったら香坂君、ハンドル操作間違えそうだろ。俺は好きな人と一緒に死ぬより、一緒に長生きしたいタイプなんで」
「…あ、そうですか」
 気が抜けた。
 マジなのか、冗談なのか、分からない台詞だ。
「もちろん香坂君とね」
「はいはい」
「聞き流してるし」
「で、どこで高速から出るんですか?」
「まだ先だよ。もう少し」
「妙なこと言わないで下さいね。ハンドルミスったら二人とも死ぬんですから」
「妙なことじゃないよ。本気、本音」
 そう言うのに、なんだか重みのない言い方だ。
 だから俺も聞き流してしまう。
 その言葉の深さとか、分からないまま卒業するのかな。
 頭の片隅で思った。


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