『急ハンドル、急ブレーキ編』
「今日は所内だから」 路上連続八時間が終了して、ようやく所内に戻ってきた。 難しいと噂の縦列の練習だということは分かっていたが、それより何より、人を轢く危険がかっなり低くなったのが嬉しかった。 視界の端をふらふらしている自転車に恐怖を抱くこともないのだ。 正直なところ、路上で運転している時は自転車が一番怖い。 「縦列って難しいってよく言うけど、コツ掴めば簡単だから」 原簿を片手に、早瀬は気の抜けたことを言う。 こちらも路上でなくなると緊張感が減るらしい。 無理もないだろう、ど素人の隣に乗って路上に出るなんて並大抵の精神力じゃない。 俺だったら絶対嫌だ。 やる気があまり感じられない早瀬だが、内心はびくびくしていたのかも知れない。 ……そんなこと感じたことはないけど。 「縦列の前に、助手席乗って」 「え?」 「ちょっとした実験」 悪戯を思いついたような、楽しげな顔で早瀬が助手席を指す。 実験って?と思いながらも俺は助手席に乗り込んだ。 久しぶりの感覚だ。 シートベルトをして、早瀬が準備するのを眺める。 早瀬もしっかりシートベルトをしている。いつもしてたっけ? ほいほい、と慣れたてつきで座席を合わせる。 緊張なんて当たり前だけど感じられない。 俺もいつかはこんな風に車に乗り込めるだろうか。 「急ハンドルと急ブレーキが危ないってことは知ってるよね」 「はい」 「で、どう危険なのかってことなんだけど」 外周をゆっくり回る。路上に出てから所内に戻るとどうしてもゆったりとしたスピードに違和感がある。ちょっと前まで俺もこんなスピードで走ってたのになぁ。 「それを今から体感してもらいます」 「え」 「まずは急ハンドルなんだけど」 「ちょ、マジですか?」 「マジマジ。教習だからこれ。俺が遊んでるわけじゃないから」 あ、そうなんだ。 一瞬でも「早瀬さん遊ばないで下さい!」と言いそうになった自分に少しだけ反省する。いくらなんでも、遊びでんなことはしないか。 「あのカーブを四十で曲がるから」 前方にある、ややきつめのカーブ。それを早瀬は言っているらしい。 確かにあそこは少し曲がりにくい。 所内にいるときには「出しすぎると曲がりにくいよ」と注意を受けたところだ。 出しすぎると言っても、所内なので二十もなかった気がするが。 「シートベルトちゃんとしてる?身体支えてなよ?」 早瀬はにやにやしながら俺をチェックする。 ちゃんとシートベルトもしてる。ついでに座席の空いたスペースに手を付いた。どれくらいの力がかかるのか分からないが、足は踏ん張った。 だがしかし。 「ほいと」 気が抜けるような早瀬のかけ声とともに車は傾いた。 ぐわんと右側に倒されるかのような圧力がかかる。それに逆らおうとついていた手に力を入れるのだが、手首に負荷がかかって、崩れそうになる。 うっわ、と焦った声を出すくらい、威力はあった。 たった四十キロと思いがちだが、身体には結構な横重力がかかったことに内心驚いた。 「どう?」 「これ、思ったよりきついですね」 「そうでしょう。急ハンドルって乗っている人間にも力がかかるし、ハンドルも固定される。スピードが出れば出るほどどうしても自由がきかなくなるわけだ」 急ハンドルをした後、ゆっくりと車はゆるぎなく走る。 何事もなかったかのようだ。 うーん、カーブを曲がる時の速度について考えさせられる。 今の俺には、とてもじゃないが早い速度でカーブを曲がる根性はないのだが。 「で、次が急ブレーキ」 これはホントに覚悟しなよ。と早瀬はにやりと笑う。 どうやらこの男はこういう人を驚かせることが好きらしい。 さっきより負荷がかかるのだろう。そう思って身体に力を入れて、奥歯を噛む。 シートベルトを片手で握りしめ、もう一方の手は舞えと同じように空いたスペースについた。 早瀬はふと手を伸ばして、ハザードを付ける。きっと周囲への合図なのだろう。 長い直線の真ん中まで、スピードを上げて進入して。 思いっきり、景気良くブレーキを踏んでくれた。 「っ!!」 背後から背中を強く押される感覚。 前のめりになった身体に、更に重石が置かれたようだった。 衝撃に舌を噛みそうになる。 「結構きついでしょ」 硬直する俺に、早瀬が面白そうに声をかけてくる。 車は停止したままだが、俺の心臓はばくばくと抗議してくる。「なんてことしてんだよ!」と言うように忙しない。 「きっ…つい」 「うん。顔強張ってる」 あはは、と早瀬は軽く笑う。 慣れているのだろう。 「急ブレーキは危ないねぇ」 子どもに言い聞かせるように、早瀬は言った。まるで俺の心臓をいたわるみたいに、目を細めて。 優しい顔が近付いてきて、俺は目を見開く。 ここは所内だろ!?他の教官が見てるかも知れないのに、あんた何する気だよ! 驚いている間に、早瀬はにっこりと微笑んで、それから前を向いて車を発進させた。 何もしなかった。そのことにかなりほっとする。 これ以上、心臓を急がせないでくれ。 「ドキドキした?」 「心臓に悪いです」 「面白くない?女の子とか面白いって言う子いるんだけど。もう一回やってあげよか?」 「全然!もう勘弁して下さい!」 あんな重力は何度も体験したくない。 慌てて断ると、早瀬は機嫌良く「えー」と不満の声を上げる。 「ジェットコースターとか乗らない?」 「乗りません。ちっちゃい頃に身長制限で引っかかったのがトラウマで」 「あははは!可愛いな!」 大っぴらに可愛いと言われて、むっとする。昔は身長低かったんだよ!今はそれなりに育ったけどな! 俺より身長の高い早瀬に笑われると、腹が立つ。 「昔から、可愛かったのか」 「は?」 「ん?だってさっき可愛かったけど?」 「………早瀬さん」 何言ってんだこの馬鹿野郎…。 しかも所内で人目があるのにも、よくぬけぬけと。 「いいじゃん、教習中だけど、所内だから俺も香坂君もリラックスしてるわけだし」 「所内は他の目があると思うんですけど」 「今は窓閉めてるよ」 「それでもですねぇ」 「急ブレーキの後に、君が慌てていても、誰もおかしいって思わない」 確信犯らしい。 こういうところまでちゃんと考えて、早瀬はやってるのか。冷静なんだな。 「さすがにキスは出来ないけど」 「……早瀬さん」 「あはは、ごめんごめん。そんな目で見ることないでしょ」 相当冷たい目をしていたらしい。 早瀬は少し苦笑いになった。だが反省している様子はない。 いつか、その手が伸びてくるんじゃないだろうか。 そんなことを思うと、少しだけ居心地が悪くなる。 その時、どうすればいいのか。分からない。 『自主経路 編』 「今から俺が指示していくから、そっちに向かって走って下さい」 本日の実習内容は「自主経路」だった。 その文字の通りのことをやるんだろうと思っていた俺は、ちょっと拍子抜けした。 「いつもと同じじゃないですか」 「ところが、だ」 車に乗って、エンジンをかけながら早瀬の説明を聞く。 助手席で早瀬はにやりと笑った。楽しげな様子で、こっちは不安になる。 また、何するんだか…。 「帰りは自分で帰って」 「ああ、それが自主経路ですか?」 「そうそう。どこから帰れって言われるかは、お楽しみ」 自分で道筋を決めて走る。というのが自主経路だ。 それまではずっと教官が指示を出していた。 教習生はそれにただ大人しく従っているのだが、自分で考えるとなると運転だけに集中出来なくなるので、やや心配だ。 運転のふらつきなんかはなくなってきたけど、未だに周囲に目配りするのが足りてないと早瀬に言われている。 「さて、じゃあ路上行こうか」 「了解です」 サイドを下ろして、所内から出ていく。 ぞろぞろ教習者が続いていくが、途中で別れていった。 「方向感覚とかどう?いい方?」 「正直なところ、方向音痴です」 「そうなの?」 「はい。ちなみに地図もあんまり…」 「そりゃ困ったね」 困ったと言うわりに、早瀬は嬉しそうに笑った。 そこで心配してくれるのならいいのに、楽しそうだからまた性格がよくない。 車の運転するのに、向いてないんだよ…。 内心呟く。方向音痴で、地図が読めない、その上とっさに判断が微妙。 「おまえ免許取るの?」と曇った顔で周囲に言われるのも、自分のことながら無理はないなぁというところだ。 「次の角曲がってね」 「えっと、次ですか?」 「そう。次」 いつもと同じ道を走っていたのだが、突然違う角で左折を指示される。 どーこ行くのー?と頭の中がひやりとした。 全く知らない道ではない。だがしかし、車で走るのは初めてという道をたらたらと走り、何度か曲がることを指示された。 「さーて、どこで止まってもらおうかなぁ」 車の通りの少ない、というかほとんどない道にさしかかると、早瀬がにこにこと上機嫌で言った。 「んじゃ、あそこらへんで駐車して」 言われた通り、左に寄せて車を止める。 ハザードを付けたところで、早瀬は助手席のポケットから地図を出してきた。 この周辺が細かく書かれている地図だ。 「さて問題です、ここどこでしょう」 どこなんですか?と聞き返したいくらい、頭の中は真っ白だった。 走ってきた道筋を忘れたわけではないが、地図を読みとるのが苦手なために、道筋を平面上で辿るという行為に苦労するのだ。 冷静に考えれば分かるはずだ。そんな難しいところに止めるはずがない。 だがしかし、手渡された地図の上で視線が彷徨う。 教習所から道をたどるのだが、いつもの道は分かるのに、途中慣れないところで曲がった角はどこなのか、たらたらと走った道はどれなのか、橋は二つ渡ったのか、あのちっちゃい道路は橋だったのか。 どうなんだ一体!?と自分の記憶をがくがく振って問いただしたい気持ちだった。 大体…運転中は走ることでいっぱいいっぱいだって…。 人を轢かないように努力するのに全神経を使っている有様だ。 ここはどこ、私はだぁれ、とまではいかないが。 とうとう道をたどるのを諦め、車内から周囲を見渡す。 団地があって、並木道があって、なんか学校のようなものが隣に…。と助手席を見ると早瀬がじーっとこっちを見ていた。 さーて、いつ答えを言うのかな。と期待の眼差しだ。 間違ったら大笑いしそうで、プレッシャーを感じる。 目をそらし、溜息をついた。 たぶん、この隣にそびえ立つ大きな建物は某大学の付属の建物だ。ということは、これはこの辺なんだろう。 恐る恐る地図の上に人差し指を置いた。 「この辺…ですか?」 上目で尋ねると、早瀬は「正解」と頷いた。 どっと身体の力が抜ける。とりあえず、笑われることはなくなった。 「三分かかったねぇ。ラーメン出来てるよ」 「地図読めないんですよ…」 「そんなに難しい?次は、こっからどう帰る?」 帰りの経路を考えるため、再び地図とにらめっこだ。だがこれは簡単なもので、出来るだけいつも通っている分かりやすい道を通ればいい。 「ここをこういって」 「ふんふん」 「んで、こう帰ります」 「分かりました。んじゃその経路で帰って下さい」 早瀬に地図を渡す。肩から抜けた力が再び無駄に入ってしまう。事故らないで帰れるだろうか…。 「どうでもいいんですけど、早瀬さん人の顔見すぎです」 緊張する自分を宥めるようにして、軽口を叩く。 「だってやることないし」 俺が現在地を探す間、早瀬さんはずっと俺を見ていた気がする。妙に視線を感じた。 確かに教官はただ答えを待つだけでやること無いけど、それにしても見すぎ。 「香坂君が真剣に考えるみたいだからさ、キスしようかと思った」 「はぁ!?」 「やー、真面目な顔して地図じーっと見てるから。驚くだろうなぁって」 「今の一言だけで十分驚きましたよ!」 あんた何言ってんですか!?と言うと早瀬は「別に」とはぐらかした。 その笑い方に含みがある気がする。 「さて、無事に帰りましょうか」 「手出さないで下さいね!?本当に!怖いんですけど!?」 「大丈夫。手も口も出さないよ」 だから迷わないで帰ってね。 早瀬にさらりと言われて、色んな不安が押し寄せてきた。 next |