『初路上 車点検編』



「検定でS字当たったんですけど」
「あははははは!予想通りだ!」
 検定の報告をすると、早瀬は大笑いした。もう面白くて仕方ないって感じで。
 予想通りってなんだよ。と憮然とした俺をシカトして、早瀬は腹を抱える。
 つか、そこまでおもしろいことじゃないだろ。
「だから言っただろ?切り返しも覚えておきなよって」
「ありがたい忠告でした」
 むすっとしながら、一応お礼は言っておく。
 ぶっちゃけ、いざ検定になったら覚えたはずの切り返しも一瞬真っ白になったけど。
「あー、おもしろ。ここまで予想を裏切らない子もすごいな」
 遠慮なく「面白い」と言い切る早瀬に、さすがにいい加減文句も言いたくなる。
「全然嬉しくない」
「そ?俺は嬉しい」
 満面の笑みで早瀬は運転席に乗った。
(何が嬉しいんだか)
 むっとしながらも助手席に座る。
 初路上なんだけど、その前に車のボンネットをあけてエンジンルームの点検やらがあるのだ。
「んじゃ、この辺で」
 早瀬は片手運転で駐車場の片隅に車を止めた。
 やはりバックはミラーしか見ない。
「はい下りて」
 午前の日差しを浴びながら、ボンネットを開ける。
 眩しいくらいの光に、中がよく見えた。
「さて、まずはここから」
 と早瀬はブレーキ液を指した。
「ちゃんと規定量が入ってるか。んで次は」
 と冷却水、バッテリー液、エンジンオイルとチェックする。
 俺はふんふんと隣で聞いていたのだが、ふと冷却水の近くにあるものを指して「これ何だ」と早瀬が聞いてきた。
「なんかくじらが吹き出してるものみたいな絵が描いてるだろ?」
 よく見ると、一本の線が、緩やかな二つの線に分かれて落ちている。
 確かにくじらが吹き上げている潮のような形だ。
「さて、何でしょう」
 くじら、頭の中では海がくじらが優雅に泳いでいる。
 くじらの出すようなものと言えば。
「……潮?」
「…………」
 真顔で三秒が流れた。
 思ったことをそのまま口に出しただけなのだが。
 早瀬はぷっ…と吹き出すとその場にしゃがみこんで、ひーひー言っている。
 つまり笑いの発作が強すぎて、笑い声すら上げられないのだろう。
 ここまで笑うことか…?と俺は再び疑問を抱く。
「こ、これね、これ」
 復活してきた早瀬は、笑いの発作を抑えつつ潮を吹いている絵をさした。
「水、水が入ってんの。ウインドウォッシャ液」
 分かる?と聞かれて、ああ…と俺は理解した。
 と同時にあまりにも恥ずかしくて、今度は俺がしゃがみこんだ。
「し、潮って…俺」
(アホか、アホか!!)
 耳の辺りが赤くなってるんじゃないだろうか。本気で恥ずかしい。もっとまともなこと言えよ、俺も。
 それを見下ろして、早瀬はまた「ははははは!」と笑い声を上げた。
「次はライト。この指示器を2つ回すと」
 車の前方のライトがついた。
「さて、これは?」
「………前の…」
「前の」
「…ライト」
「前照灯ね。んで後ろに回って」
 恥ずかしさから復活しようとしているのだが、なかなかライトの名前が出てこない。二人して後部に回ると、そこにはライトが全部ついていた。
「これは?」
 赤いランプを指され、俺は「あ」と言った。
 知ってる。すげー、知ってる。
 分かってる。これあの…。
 スカイラインで丸いやつ!中島み○きの歌に出てくるっていう!あの!!
 俺は指で○を作りながらも、なかなか出てこない名前に苦しんでいた。
 それを見て早瀬は真似をして同じように指で○を作った。
 一体何の意志疎通だ、と思われるような光景だ。
「出てこない…。あの丸いやつ…」
「尾灯ね、尾灯。丸いのはスカイラインだけだから」
「そうなんですけど…」
「又の名をテールライト」
「それ!!」
 なかなか出なかった名前を聞いて、俺は声を上げた。
 すると頭の中で「テールラぁ〜イ、ヘッドぉラぁ〜イト、愛はまだ終わらない〜♪」という歌が流れた。
 名曲だ。
「やー、今日の香坂君は寝てるね」
「午前ですから」
「うん。でもあんまり寝てると、良くない」
 正しいことを言われ、俺は小さくなった。
「…すいません」
「うん。じゃあ眠気覚まして路上行こう」
 二人切りの逃避行だ。
 そう早瀬はにこにこと言った。
 逃避行…?
 あんた何から逃げる気だよ。
 というツッコミは止めておいた。
 恥をかいた直後に人にツッコミを入れると、返されるからだ。
(それにしても、潮…)
 きっとエンジンルームを開けるたびに、俺は今日のことを思い出すのだろう。




『初路上 出発編』


「急ブレーキ、急ハンドルは勘弁して下さい」
 助手席に乗って、真面目な顔で早瀬が言った。
 相当危険な行為らしい。
 考えてみたら、そりゃそうだろう。前の車がいきなり止まったら追突するに決まっている。
 こくこくと頷き、俺はエンジンをかける。
 どくりと心臓が高鳴る。
 ここまではいつもと一緒なんだけど、今回から出ていく場所は所内じゃない。
 どきどきしながら駐車場から外へと出ていく。ゆっくりとした動きで、何台か連なって教習所を後にする。
 まずは一本の道を走るのだが、そこはみんなゆっくりだ。
「そこ曲がって」
 とさっそく指示が飛んでくる。
「止まれ」の標識の下、白線のところでぴたりと止まると、早瀬は「曲がったらアクセルね」と言った。
 こくこくと俺は頷きながらハンドルを切る。
 そして曲がり終わるとアクセルを踏むのだが。
「問題です。ここは何キロの道路でしょう?」
「へ、あ…四十?」
 道路の端に立っている標識を確認する。
 教習所内でもあの看板はあったけど、四十で走れるところなんて一瞬しかない。だから意識してなかったんだけど。
「はいアクセル踏む。後ろ詰まるから」
「え、はい」
「もっと踏む〜。ビビらない。なんかあったら俺がなんとかするから」
「信用しますよ?」
 こんなスピードで走り続けるなんて、初めてなのだ。
 速度計はまだ四十に行くか行かないかぐらいだけど、俺はかなり怯えていた。
 勘弁してくれぇ…と弱音を吐きたくなる。
 こんなのでこの先路上走って行けるんだろうか。
「今まで信用してなかったの?それショックなんだけど。次左折」
 会話をしながらも、指示はすぐに飛んでくる。
 流れの速い景色の中で、思いっきり肩に力はいって、がちがちになっているのが自分でもよく分かった。
 ちょっと操作間違うと周りを巻き込んで大事故になるのだ。前を走ってるマーチも、後ろについてるタクシーも、きっとベコってしまうことだろう。
 嫌な汗が背中に滲んでいく。
 掌もしっかり汗ばんでいて、ハンドルを持っているとかなり嫌な感触だった。

「横からハンドル取るから。楽にして。ま、香坂君の命は俺が預かってるってことで」
「……」
「何、その微妙な顔での沈黙。はい、しばらく真っ直ぐ。前ばっかり見ないで周りもちゃんと見てよ〜。今日いい天気じゃん」
「天気どころじゃないです!」
 せいぜい夜じゃない、雨じゃない。ということぐらいしか分からない。それくらい俺の視線は前だった。
「そんなにいっぱいいっぱいでどーすんの」
 早瀬はそう笑うが、初めて路上に出た人間に余裕などあるはずがない。正直な話をすると、生きた心地もしないのだ。
 交差する大きな道路が、赤信号に変わった。トラックの後ろ、車間距離を空けすぎなくらい空けて止まる。どうも圧迫感を感じる。
「ここの信号長いから。今の間にちょっとリラックスして。そーいや香坂君いくつだっけ?」
「二十一です」
 信号だからといって気を抜いてはいけないのだろうが、止まっていると状態はありがたい。少しだけでも視線を動かせる。肩の力も少し抜いたが、それでも堅い。
「結構離れてるなぁ…」
「そうなんですか?」
「うん。今彼女いなかったっけ?」
「はあ」
 なんだこの話の飛び方。突拍子もない話題の変化だ。
 よくプライベートな話もするけど、今日は特に突っ込んだ内容な気がする。
「付き合う時、何で決める?」
「へ?」
「顔とか、優しいからとか、一緒にいて楽だから、とか」
「…相性…かな」
 最終的には、付き合う時に一番重要なのは相性だろう。タイミングや、言葉の選び方。そういうもの一つ一つがぴったりくればくるほど、自然と好きになるものだと思うし。
 それにしても、なんでこんなことがここで出てくるのか。
「俺もそー思う。相性だよな。話してると楽しいとか、見てると可愛いとか、言動が面白いとか」
「はあ…」
「んで、会いたいなぁ、って思う始めるわけで」
「はあ」
「もっと一緒にいたいなぁと、欲張りが始まって、自分では抑えられなくなるわけだよ」
「そう、ですか」
 というか、なんでそんな話を俺にする。
 信号待ちでびくびくしている男の教習生に振る話題じゃないだろ。
 と思っている間にも、信号は変わってしまった。
 急いでアクセルに足を変えるが、ビビっている気持ちそのままで踏み込みが甘かったらしい。ゆったり発進する車に「アクセル踏んで」と何度目かの指示が飛んできた。
「それを、君相手に思うってのは反則?」
「……は?」
 正直耳を疑った。何言ってんだこの人、と思わず早瀬の顔を見てしまった。
 そこには少しだけ笑った。まるで苦笑してるみたいな早瀬がいた。
 冗談だって言えばいいのに、真面目過ぎて、いつもと違う。
 にやにやしてれば俺だって笑えたのに、そうじゃないから横を向いたまま、硬直してしまう。
 なんで。
 思わずそう口にすると、早瀬の手が俺に伸びてきた。正確には、ハンドルに。
「車ふらついてる」
「あ」
 運転がおろそかになったのだ。ふらりと車が右車線に入りかけてきた。
「右に指示器出して、車線変更するから」
 早瀬はハンドルを取ったまま、そう言った。言われた通りにすると緩やかに車が右へと移っていく。
「すいません」
「ん、俺が悪いんだよ。こうなるの分かってて言ったし。でも所内じゃ言えないでしょ。周りの目や耳があるし」
 早瀬は何事もなかったかのように、ハンドルから手を離した。別に何もしてないよ。という顔で。
 その冷静さに、今聞いた言葉は間近いじゃないのかと思ってしまう。
「でも言いたくてねぇ。路上に出るのものすごく楽しみにしてたわけだよ。いつ罠に落とそうか落とそうかってねぇ」
「罠」
「うん。罠」
「…これ、一体何なんですか?」
「告白。職権を逸脱してるから、君がクレームを付けたら俺は即クビ」
「なんで?」
「それは、なんでそんなことしたのかってこと?それともなんで君なのかってこと?」
 前方を睨みながら、俺は何に対して緊張しているのか、びくびくしているのか分からなくなってきた。
 何も路上に初めて出て、右も左も分からなくなりそうな人間を混乱させなくてもいいだろうに。
 この男は、なんでこんなこと言ってるんだ。
「両方、です」
「うーん。それ話すと長いよ。でも簡単に言うと気になったから言ったんだし、なんで気になったかは分かりません」
「すげー短いんですけど?」
「あはは。まぁまぁいいじゃない」
 早瀬はようやくいつものいい加減さを出してきた。
 その笑い方に少しだけほっとしてしまう。
「良くないでしょう」
「そ?なら教官変えようか。これからは俺以外に自分の命預けてみる?たとえばあの女の指導員とか?」
「ぜってぇ嫌!!!」
「そんなに嫌なのかよ!トラウマだな!」
 すぐさま怒鳴った俺に、早瀬は大笑いだった。トラウマなのかと聞かれれば、間違いなく頷く。助手席に女は乗せたくない。
「んじゃ次までに指導員の変更とか、色々考えておいてよ。俺恨まないから」
 さらりと告白して、さらりと早瀬は言う。
 なんだろう。そんなにあっさりしてていいのか?と返って俺が思ってしまうほどに。
 ギャグじゃないの。と疑うわけなのだが、それはともかく。
「次の教習、この後なんですけど」
「…マジで?」
路上に出ると、2時間連続で教習を受けることが出来る。今日は連続で取ってしまっているのだ。
「休憩10分あるから」
「短いですよ!!」
 無駄な笑顔を見せる早瀬に全力でツッコミを入れた。
 なんだこの教官と思ったことは何度もあるが。
 今日ほど真剣な思ったことはなかった。


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