『遅刻 編』
教習所までは送り迎えのバスが何本か出ている。 結構色んなところを回っているので、家から徒歩三分のところで止まってくれていた。 いつも時間ぴったり。なワケなのだが。 「…嘘だろ…」 今目の前を通っていたものがあまりにも見慣れたものだったので、立ち止まってしまった。 ここを真っ直ぐ行って、路地を曲がればバスを待つ位置だったわけだが、そこに辿り着く前にバスが通過したのだ。 どれだけ意志表示をしようとも向こうから俺は見えない。何故なら狭い道にいるからだ。 一瞬にして横を通過してしまう道などに気を止める運転手などいないだろう。 「……あ…あほかぁぁぁぁ!!」 近所迷惑も顧みず、俺は声を上げた。 時計を見ると時間まで後三分はある。 時間より遅く着くことがあります。というバス案内の注意書きを思い出す。遅く来るほうが全然マシじゃないか! 早く来たら、置いて行かれるんだから! 「…ど、どうするよ…」 目の前がほの暗くなっていく中、選択肢を頭の中で列挙する。 ・ 技能予約のキャンセル料金千円を払って、今日は家で不貞寝する。 ・ 間に合わないかも知れないがチャリで教習所まで疾走する。 「ぐあー……」 じっとしている間にも時間は過ぎていく。結論は五秒で出た。 とりあえず行ってみよう。きっと早瀬が待っているはずだから。 不貞寝することにものすごく魅力を感じるわけだが、俺も一応社会人だ。 間に合わなかったら、それでも謝るくらいは出来るはずだ。 家に走って帰ってチャリを出す。ここから教習所まで十八分ほどかかると思うけど、技能が始まるまでは十七分。気合い入れてぎりぎりってトコだ。 「どちくしょう……」 ぜってぇしんどいだろうな…と憂鬱になりながら走り始めてすぐ、ペダルがやけに軽いことに気が付いた。 軽いというか、空回りしてる…? 下りてみると、チェーンがだらりと伸びていた。 は……外れた!? 「ありえねぇ!!」 叫ばずにはいられなかった。 犬の散歩をしていたおばさんが振り返るが、んなもん気にしない。 なんだ今日は仏滅か!?三隣亡か!?三件先の坊主も亡くなるような、そんなとんでもなく不吉な日だってのか!? チャリに蹴りを入れたくなったが、入れてもチェーンは戻らない。 手が汚れるのを覚悟でしゃがみこみ、チェーンをはめる。 以前にも一度チェーンが外れているので、入れるコツを掴んでいたのが幸いだった。 自転車専門店に持ってたほうがいいだろうなぁ…。 ここで二分ほどロス。再び乗った時には、もう完全に間に合わないと思った。 だが最後の最後まで頑張るっていうか、もう自棄になっていて「意地でも間に合ってやらぁゴルァ!」と何かに喧嘩を売っているような気持ちだった。 ここだけの話、これから教習だっていうのに信号も無視した。 車と人には十分注意して、誰もいないことを確認した上でのことだ。 目撃者がいないなら大丈夫!という姑息な考えもちょっとよぎっていたわけだが。 安全運転を心がけます。と笑顔でほざいた男はここにはいない。 ぜぇはぁいいながら教習所が見えた時、時計を確認して今日の俺はヒーローだと無駄に思った。 技能開始まで、後二分だったのだ。 ガッツポーズをして誰かに誉めて欲しかった。 実際そんなことをしたら恥ずかしいだけだろうけど。 チャリを駐輪場に止め、というか半ば捨て、配車権を取り駐車場に走った。 いつまで走ればいいんだよ!というツッコミすら出てこない。 教習開始のチャイムを聞きながら、息を切らして車に向かうと早瀬が手招きをしていた。 「どしたの。時間に遅れるなんて珍しい」 「ば…バス」 早瀬に説明したくてもダッシュを続けてしまったため息切れでろくに喋れない。 それどころかこの場にしゃがみ込みたかった。 「逃したの?」 「目の前…通って…」 原簿を渡しながら肩で息をする。呼吸が整うのは当分無理そうだ。 「目の前!あはは!いくらなんでも目の前はないでしょ!!」 「だって…時間、まだ…!」 「あー、たまにやたら早い時があるらしいね。そりゃお気の毒さま」 「うー……」 早瀬は全く気の毒そうにも思ってない顔で笑っている。 もう動きたくない気分だったけど、すでに発進し始めた車がある中でじっと立っているのは邪魔になりそうだった。 「で、どうやって来たの?」 「チャリで」 「香坂君の家って近かったっけ?」 住所を告げると、早瀬はまた笑い声を上げた。 「お疲れさん!いい運動になっただろ?」 いい運動どころか…。という気分だ。 「も、今日は…使い物になりません…」 「それでも教習やるから。ほらほら助手席乗って、しかばねになってないで」 「ぶつけても、今日は許して下さい…」 「何言ってんの。ぶつけて怒ったことなんかないでしょうが」 早瀬は心外だ。という顔をするが、そもそも俺は教習車をぶつけたことなんかない。タイヤがかすった、くらいのものだ。 「し…しんどぃ」 ギブ、ギブ…と呟きながら助手席のドアをあける。出来れば今日はずっと助手席で見学しておきたい。 「さー、きりきりやろっか」 だが早瀬はへばっている俺を眺めながら笑顔でそう言った。 きりきりって何だ。 俺はもうぎりぎりだ。 シートに沈みながら、ぐったりと息を吐いた。 『無線 編』 「香坂君。次無線ね」 や 教習が終了する前に、今日の教習と次の教習について一言があるんだけど。 あっさりと言われたことを俺は反芻した。 「無線」 「そう。一人で乗る」 「本気ですか…?」 「こんなところでギャグ出してどうすんの」 半信半疑で尋ねる俺に瀬は笑うが、こっちとしては笑えない話だ。 無線っていうのは一人で運転する教習だ。教官からは無線で指示が来るらしいけど、それにしたって隣でブレーキを踏んでくれる人はいない。 自分の身は自分で守らなければいけないのだ。 日常では当たり前のことだけど、教習中はこれが当たり前のことじゃなくなる。 「復習項目ついてますけど!?」 上手くいかなかった項目は、復習項目として次回の教習の時にもやる。 俺の場合S字とクランクが課題の「狭路」という項目に復習がついていた。 やはりぎりぎりで通り続けているらしいのだ。ゆとりを持てとは言われるけど、どうしたらいいもんか。 「大丈夫だって」 「本当ですか!?」 「なんでそんなに必死なの。大丈夫だよ、S字だってクランクだって乗り上げたことないんだから」 「だからって、信号の左折上手くないって言ったじゃないですか!」 「上手くないけど、車壊すくらいじゃないでしょうが」 「壊すかも知れないでしょ!?」 いいから隣乗ってくれよ!無線を見送って教官と一緒に教習やる人だっているんだ。 今の俺は一人で車乗っても、かなりびびってるはずだ。 自立した運転を。なんて段階じゃないんだから。 そんな項目を頑張れっていうほうがおかしいだろ。 でも早瀬は「壊さない壊さない」と軽く宥めてくる。 「それとも何、俺がいないと怖くて運転出来ない?」 「そうです」 「…意外とストレートに認めるねぇ」 驚いたような目で早瀬が俺を見た。 んなことを隠しても仕方ない。教官なしの運転を楽しめるような技量も度胸もついてないんだから。 「恐がりだなぁ。うさぎっぽいよ」 「寂しくても死にませんけど、事故ったら死にます」 「二十キロくらいしか出せない所内でどうやって死ぬの。いいから無線をやってみなさい」 それして俺のありがたみを知るがいい。 と言い残して早瀬はにやにや笑いながら助手席のドアを開けて出ていった。 あんた、それを思い知らせたいだけじゃないのか? 残された俺は「くっそー…」と不安を抱えて荒々しく原簿でドアを叩いた。 というわけで無線だ。 三人ほど一斉にやるわけだが、指示を出すのは一人の教官。 それは早瀬じゃなかった。厳しそうなおっさんに説明を受けて、一人で車へ。 普通の教習者と無線車では外見からして違う。 無線車は車の上の部分に三角錐のようなものが付けられている。 これで電波を受けているのだろうか。 運転席に座ると「エンジンかけて」と無線で指示があった。 ノイズが入りまくった、かなり質の悪い音だ。 エンジンをかけて、外周をぐるぐる何回が回る。信号やS字なども積極的にやるように、と開始前に言われている。なのでいい加減S字もやるかぁ、と信号機のあるところまで進入した。 当たらないといいけど…と思いながら前を見ていると、信号が赤になったので止まろうとした。 止まろうとしたのだが。 「んがっ」 しかし踏んだのはアクセル。 急にぐっと車が前に飛び出し、急いでブレーキを踏んだ。がくりと車が不自然に上下したのが俺にもちゃんと感じられた。 「……は、早瀬さんの馬鹿…」 だからこんなやつ一人で乗せるなって言っただろ!? 叫びたいのは山々だが、こんなところで叫べば周囲の注目を浴びること間違いなしだ。 しか完全に八つ当たり。 ばくばくと脈打つ心臓を落ち着かせることも出来ず、青になった信号の前で無常観を味わいながらゆっくり慎重に、これでもかと思うくらい遅いスピードで左折した。 その後はびくびくしながら運転をしていた。挙動不審に違いなかっただろう。 「どうだった無線?」 次の教習で早瀬はにこにことやってきた。 どうもこうも。ぼろぼろですよ。 あの信号でアクセルを踏んだ後はもう慎重過ぎるくらい慎重に運転して、かなり疲れた。 特に信号には緊張してしてしまった。 「赤信号でアクセル踏みました」 「あははマジで!?今までそんなのなかったのに?」 「そうですよ!今まで一度もそんなことなかったのに!早瀬さんがいないからです!」 豪快に笑っている早瀬に、やけくそになりながら言い返した。 「俺がいないと信号もまともに止まれないのかよー」 「止まれません!だからずっと隣に乗って下さい!」 懇願するとさらに早瀬はげらげら笑った。 「告られたよ!」 「死にそうになったんですから。受け取って下さいよ?」 所内の赤信号でアクセル踏んだからといって死ぬ確率は0だ。 だけど俺は「死にそう…」と呟いたほど、ショックだったわけだ。 心臓も止まりそうになった。 なので、隣に乗ってて欲しいのは本気だったのだが、早瀬は急に笑いを止めた。 「うん。いいよ」 笑って流してくれるもんだと思っていた。 なんでだよー、とか言われるもんだと。 だが顔は笑っているが、妙に声は真面目だ。 あれ、と違和感を憶えたが。次の瞬間には早瀬は「んじゃ助手席乗って〜」といつもの調子になっていた。 next |