『相性 編』



 教習生は実習が始まるまで、教習者の隣で教官を待っている。
 いつもなら早瀬がたらたらとやってきては「おはよー」と片手を上げるんだけど、今日やってきたのは女の人だった。
 一瞬同じ教習生かと思ったけど、名札がついているので教官なんだろう。
 女性の教官を今まで見たことがなかったので、驚いた。
 ぱっと見たところきっちりしてそうな人だ。
 長い髪を一つにくくって、さっぱりとした服装をしている。早瀬とは随分違った雰囲気だ。
 これが普通の教官なんじゃないのか。
「おねがいします」
「はい。お願いします」
 無表情で挨拶。早瀬はやる気はあんま感じられないけど、話してる時は優しげっていうか、笑っていることが多いから、ちょっと緊張する。
 空気がぴりぴりしてた。
(厳しそう…)
 しっかりしてるのはいいんだけど、厳しいのは…。
 俺が甘いのかも知れないけど。
 運転席に座って座席を合わせたけど、隣で教官は黙ったまま次の指示を出してくれない。
 いつもなら「エンジンかけて〜」って一言があるのに。
「もうエンジンかけていいですか?」  焦れて尋ねると、教官は「は?」と眉を寄せた。
 あまりにも不愉快という顔を全面に出されて、ムカツくより先に驚いてしまう。
「まだルームミラー合わせてないでしょ?」
 これには俺が「は?」って気持ちだった。
 確かに手で触ってはない。でもすでに合っていたから何もしなかったんだけど、いちいち触って合わせろっていうのか?
 しかも「は?」って何?
 ぷちり、と頭の奥で忍耐が切れそうになった。
 待ってくれ、今は仕事で客と接してるわけじゃない。教官と教習生のはずだ。なのに「は?」はないだろ。
 むっとしながらも黙ってミラーを合わせてエンジンをかけた。
 マズイ。そうは思っていたんだ。この時点で。
 嫌な予感というのは、大概当たるもので。
 その後は教習は散々だった。
 いちいち走行中に説明してくれて、相づちが遅れると「聞いてる?」と突っ込まれる。しかも言い方が冷たい。
 聞き取りにくくて、間違ったところで曲がると隣で溜息付かれる有様だった。
「違う」って言うならまだマシなのに。溜息だけだ。
 そこまで呆れられることか?
 と本気で思った俺は間違いなんだろうか。
 途中で車放り出して帰ってやろうかと思った。
 それでも五十分の教習に耐えた時分を誉めてやりたいと思う。
 ものすごく早瀬のやる気のない指示が懐かしかった。


 有り難いことに、次の教習は早瀬だった。
 気怠げな姿を遠目に見ただけで、胸を撫で下ろす。
 神々しく見えたくらいだから、前の教官がどれだけ嫌だったのか思い出したくもない。
「おはよー」
「おはようございます」
 手をふらふらと軽く振ってやってくる姿に後光が差している。
 50分もみっちり同じ車内にいるのだ、やっぱり冷たい人よりやる気はなくても一緒にいて苦痛じゃない人がいい。
 安心しながら、挨拶をする。口元が緩んでしまうが、嬉しいんだから仕方ない。
 もうあの教官は絶対嫌だ。
「どしたの、ご機嫌?」
 笑顔な俺が気になったのか、早瀬は驚いたような顔をしていた。
「せんせーで良かったなぁと」
 先生と呼ぶ声まで踊っている。
「何、前回絞られたの?」
「かなり。ぼろぼろにされました」
 そっか、と早瀬は穏やかに笑う。
 なんか含みを感じて、もしかするとあの教官は厳しくて有名なんじゃないか。と考えてしまう。
「んじゃ今日は優しくしてあげよう」
「お願いします。きつくされると泣くんで」
「マジで?前回そんなにきつかったの?」
 本気で弱音を吐くと、早瀬は意外そうな顔をした。
「そりゃーもう……ずっと先生に隣乗って欲しいですよ」
 早瀬は瞬きをして、それからにっこり笑った。
「そりゃ良かった」
「先生はやる気なさそうだけど、ちゃんとしてるし」
「やる気ないってのは余計。見せてないだけだって。それよりその先生っていうのはあんま俺に似合わないんだよねぇ」
「似合いませんね」
 本人に面と向かって言うのはどうかと思うけど、俺は前々から「先生」という響きが早瀬には似合わないと思っていたのだ。
 威厳が全くない。
 友達の兄ちゃんと言っても問題ないような雰囲気なのだ。
「うん。香坂君、心の底から言ってるね」
「だって先生って感じじゃないし」
「自覚しているからいいけどさ。だからさん付けでいいよ」
 早瀬さん。と口に乗せると「うん」と頷いてから早瀬は助手席のドアを開けた。
「どーぞ。今日は停車をやるからねぇ」
 ま、気楽に。といつもの台詞を聞きながら、俺は助手席に乗り込んだ。
 やる気の感じられない声が、今日は穏やかに聞こえて気持ちが落ち着いていくようだった。




『S字クランク編』


 所内の段階で、最も難しいと噂されるのが、S字、クランク(直角に曲がるS字)だ。
 非常に狭く、また急な曲がりになっている道をスムーズに通行して車両感覚を掴むというものなのだが。
「横幅が3.5ね。結構あるわけですよ」
 と早瀬は説明しながら軽く運転してお手本を見せてくれる。
 だが狭路の場合、この運転見本はあまり参考にならないことが多い。
 だって見てても感覚分からないし!ここでハンドル切るとか、覚えててもどれだけ、どう切るかとか見てるだけでちゃんと理解出来るもんじゃないし!
 つか3.5メートル自体、どんなもんよ!?という気持ちだ。
 というのもすでに前回S字とクランクに挑戦してるんだけど「かつかつだね」というお言葉を頂いている。
 かつかつ。通れただけでも自分ではよく出来たもんだと思うんだけど。
「だから前みたいにぎりぎりのところ通らなくてもね。余裕をもってやってると、危険がさらに回避出来るわけ」
「はあ」
「空いているスペースを有効に使う」
「はあ」
「わざわざ難しいようにやらなくてもいいから」
「そうですよね」
「なんか今日の香坂君さえないねー。苦手?」
 曖昧な相づちしかしていないことに気が付いた早瀬が、ちらりとこちららを見てくる。
 S字でもちゃんと前を見ない男だ。
「かなり」
「ぶつからないんだけどねぇ」
 早瀬は当たり前だがさらりと狭路を通過して、所内の左側にある停車位置にまで車を動かした。
 そこで俺と運転交代だ。
 毎回ここで交代するんだけど、エンジンをかける瞬間はやっぱりじわりと嬉しさが込み上げてくる。
 やっと走り出せる。そう喜んでいるみたいだ。
 運転は好きかも知れない。全然上手くないけど。
 まずは外周を何周かして、それからS字に入った。
 曲がれるか、当たるんじゃないのか?
 そんなことを思っているので気分はもうかつかつだ。
 余計なことを考えなきゃいいんだろうけど、でも考えてしまう悲しいサガ。
 当たらないようにとゆっくり入り口に車を動かす。まるべく車体を入り口に添わせるのも忘れない。
 でも添わせ過ぎると、ちゃんと入れないのが、また問題なわけだ。
「そっから切って〜、速度はゆっくり。んで、なるべく右側にもっていってー、左に戻すの早い、切りすぎ」
 さすがに早瀬も忙しない指示に、笑いを混ぜたりはしない。
 ただ語尾が微妙に長く、真剣さは感じられないが。
「当たらないけど、当たらないけどさぁ」
 S字を無事に通過して、次はクランクに入るのだが、隣で早瀬は「微妙」という顔をしていた。
当たらないけど、当たりそう。なのだろう。
「もっと余裕をもって生きてもいいんじゃない?香坂君ってそんなにかつかつな生活?」
「結構」
 バイト生活にゆとりなんてものがあるはずがない。
 教習所に通い始めたおかげで収入も減ることだし。
 実家住まいなので、生活が貧困なわけじゃないけど肩身は狭かったりする。
「マジで?結構ゆったりしてそうな顔してるけど」
「顔に出ないんですよ」
「へー。苦労性?」
 クランクに入っているというのに、早瀬は「若いのにねぇ」と無駄話に気を取られているようだった。
 この人は、毎回毎回プライベートの話ばかりしたがる人だ。
 だが俺は苦労性も生活苦も気にしている場合ではない、少なくとも今だけは運転に集中してもいいはずだ。
 車から出たら、生活のほうがはるかに重大かつ深刻だとしても!
「ヒモとかになればいいのに。金持ちに可愛がってもらって」
「よりにもよってヒモですか!?」
 突然何言い出すんだこの男。
「嫌?」
「てか、誰も養ってくんないし」
「そう?俺に金あったら養ってあげるのに」
 あはは、と笑いながら、早瀬はようやく「そこはまだ切らない」とクランクの指示を出した。
 もうすでに終わりかけているというのに、今更だ。
 というか、俺は今とんでもないことを聞いた気がする。
「早瀬さんのヒモって。養うなら今流行りのメイドさんとかがいいんじゃないですか?」
「ああいうあからさまなのって、俺の趣味じゃないんだよ」
 メイドという単語に、早瀬はあんまりいい印象がないらしい。
「じゃあどんなのですか?」
「秘密」
 意味深に笑いながら、早瀬はぎりぎり通過したクランクの出口で腕を組んだ。
「どうしても余裕を持って通らないんだね、君」
「はあ」
 どうやら次も狭路の練習をさせられそうな雰囲気だった。



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