『教官紹介 編』



 家からバスで十分ほどのところにある教習所。県内でもトップの合格者率だと言われている。
 だが中に入ってみれば、わりと緩い。という話もよく耳に入ってくる。
 緩いのに、合格率がトップってどういうことだ?教え方が上手いってこと?と不思議に思わないこともなかったけど、そこの卒業生の「誰でも受かる。大丈夫」という根拠があるんだかどうなんだか、の言葉に背を押されて入所した。
 教習原簿(教習生のデータが書かれたもの。名前住所年齢、学科技能あたりも明記されている)を眺めながら、三十手前くらいの男が「ふぅん」と微妙な声で頷いた。
 髪は少し脱色しているらしい。首からはクロス、手首にもブレスがある。ピアスがあればもっと軽い感じのにーちゃんに見えただろう。
 だがさすがにそこまでチャラチャラしていない。
 教官というより、美容師や映像関係をやっていそうな雰囲気だ。会社勤めっぽくない。
 教習所の教官が会社勤めになるかって聞かれると困るところだけど。
「香坂汐登。汐と登るでキヨトって読むんだ」
 原簿に書かれた名前に、教官が面白そうに呟いた。
「そうです」
 よく珍しいと言われる読み方だ。しおと、と読まれることもたまにあって、すげー間抜けだと思う。
「早瀬です。よろしくお願いします」
 教官は原簿から顔を上げて名乗りながら、あまりやる気のない声でそう言った。
 お願いします。と軽く頭を下げたはいいが、この人がそれから免許取るまでずっと付き合っていく人かと思うと、ちょっと不安だ。
 ベテランのおっさんや、じーちゃんが付くもんだと思ってたのに。
 俺と十くらいしか変わらないにーちゃんが付くとは。
 それでも十年の差は大きいんだろうけど、このやる気の感じられない様子を見ると、安心は出来そうもない。
「んじゃあ助手席乗って」
 早瀬は運転席にまわって、ドアを開ける。
 原簿をチェンジレバーと助手席の間に立てて入れた。
 助手席に座ると、シートベルトして、と指示された。でも早瀬はシートベルトをする気配がない。
 しかもそのままエンジンをかける。
(いいのかよ?)
 一番初めくらい真面目にやっている様を見せてもいいんじゃないのか?
「まぁ、初めは気楽に」
 片手はチェンジレバー、片手はハンドルという感じで所内をくるくる何度か回る。
 わりと狭い方に入る教習所だと聞いていたので、すぐにコースは覚えられる。
 と言っても外周しか回っていないので覚えるも何も、ただの円だ。
 非常にゆっくりしたスピードで一番外の車線を走りながら「学生?」と早瀬はこちらを向いた。
「いえ、学生はもう終わったんですけど」
「あ、そうなの?今何してんの?」
「バイトなんですけど」
「ふぅん、仕事今日は休み?」
「そうなんですけど」
 なんですけどね!と俺は前方を指さした。
 早瀬はほぼ顔をこちらに向けているため、全然前を見てない。
 勘弁してくれよ、いきなり教官に事故られんのなんか勘弁だぞ!?と心の中で叫んだのだが、早瀬はチェンジレバーに置いていた手を軽く振った。
 そもそも、この車はオートマなのでチェンジレバーに手を置いている必要性がない。
「大丈夫だって、所内は俺の家みたいなもんだから、家つか部屋?事故んないって」
 そんなこと俺は知らないっての!!
 教官曰く「俺の部屋」を周り終わると、動揺した気持ちのまま今度は運転席に座らせれた。
 とうとう自力で走るわけだ。
 運転席に座るとまずやることが座席をあわせることなのだが、椅子の下にあるレバーを手で探る。
 この辺、だと思う…んだけど?
 はたはたと手探りでもそれらしい感触にたどり着けない。
 ありゃ、これ?この丸いの座席高くするやつだし、あー、これ?この金属の引っかけみたいなやつか?
 それを試しに上に上げたら、座席が前にスライドした。
 思わず関心してしまう。前の時間は模擬の車で作りや走らせ方、ハンドルの持ち方などを勉強したのだが、そこでもなかなか探せず教官に「ここ」って教えてもらったくらいだ。
 ミラーをあわせて、シートベルトして、そしたら「エンジンかけて」と指示があった。  恐る恐るエンジンをかけるとセルが回る。車自体が震える感覚に、心臓が少しだけ早くなった。
 車を動かすんだ。
 次はチェンジレバー、それからサイドを下ろす。
 前方を見ると、晴れ渡った空だ。助手席でもいい天気だと思ったけど、運転席から見る光景は特別だった。
 たぶん気分が違うってだけのことなんだろうけど。
 初めて運転席というものに座って、緊張と新鮮さで心臓がうるさくなっている。
「香坂さん、香坂さん?んー」
「はい」
 なんか疑問形で聞かれて返事をするけど、早瀬は難しい顔をしている。
 何か探っているみたいだ。
「香坂君で、いいか、君。そっちのほうがしっくりくるし」
「は?はあ…」
 いちいち呼び方考えてんのかこの人。んなもんどーでもいいのに。
 教習はやる気が感じられないのに、いちいち人の呼び方は考えるらしい。
 変な人だ。
「香坂君」
 真面目な顔になると、早瀬も教官らしい印象になる。気のせいかも知れないけど。
(思ったよりしっかりしてんのかな)
 教官捕まえて、しっかりしてるも何もないんだけど。
「はい」
「クリープ現象って知ってる?」
「あ、はい。オートマで、ブレーキ踏まないと前に進むっていう」
 学科という、教科書を使って交通法や、車について勉強する時間がある。実習と違って学科は予約も順番もないので、空いている時間にその時行われている学科を受けるというシステムだ。
 クリープ現象についてはもう勉強していた。
「うん、あれね。ほっとくと結構前に進むんだよね。危ないから」
「はい」
「うん。危ないからね」
 だからね、と早瀬は前を指した。
「ブレーキ踏んでね」
「あわわ」
「事故るから」
 慌てて踏むと、車がぴたりと止まる。当たり前だがそんなことにも少し関心してしまった。
 ちゃんとブレーキが効く。ゴーカートだって効くけど。
  「これがクリープ現象。結構前進んでるでしょ」
「はあ」
 見てみると、確かに前に進んでいる。もっとゆっくりじわじわ進むものかと思ったんだけど。
「んじゃ走ってこっか。とりあえず前見て、当たってもいいから、これ俺の車じゃないし」
 と、しっかりシートベルトをしながら早瀬が笑う。
 俺の車じゃないし。というところだけやけに軽快だ。
 自分の車だった絶対乗せないけど、という意味が含まれていそうだ。
「ま、楽しんで。車って面白いから。後、肩の力抜いてね。身体硬直してるよ」
「緊張してるんで…」
「大丈夫大丈夫、所内で死んだ人いないから」
 生死のレベルなんですか?
 もっとこう…怪我した人はいないから。って言うなら分かるんだけど。
 死んだ人いないって、全然安心出来る言葉じゃない。
 暢気に構えている教官の隣で、免許取れるのかよ。と心の中で呟いた。




『雨の日 編』


 よりによって技能の日に雨が降った。
 しかもまだ2時間目っていうのに、雨の中かよ。
 憂鬱な気分で空を見上げた。
 天気予報では、今日は一日雨らしい。
 雨の日は前が見づらいんだろうなぁ…。
 前回もふらふらして、ろくにスピードも出せなかった。早瀬は隣で「アクセル踏んで、怖くないって」って繰り返し言ってたけど、身体は硬直したままでなかなか上手くいかなかった。
 自慢じゃないけど、俺は恐がりのほうだ。
 ジェットコースターを楽しむ人間の神経が信じられない。
「おはよー」
 教習者が止まっている、広場のようなところで待っていると、早瀬は透明なビニール傘でやってきた。
 今日もやはりチョーカーがある。鎖のブレスレットもあるので、どうやら常備しているようだ。
 服装が落ち着いているので、まだいい加減な雰囲気は薄いが。
「おはようございます」
「雨降ったねぇ」
「そうですね。来るの止めようかと思いました」
 早瀬に原簿を渡しながらそう弱音を吐くと「なんでよ」と軽く笑われた。
 教習のたびに原簿を渡して、はんこをもらわなければいけないのだ。
「雨の日だって車乗るでしょ。嫌がらないで、助手席乗って」
 開始する時はまだ教官が今日やるところを回ってくれる。
 助手席に乗ると、早瀬はエンジンをかけた。手慣れた動作。俺もいつかこれくらい自然に動かせるかな。
 片手運転で穏やかな雨の中を早瀬が走る。この前より視界が多少悪くて、やっぱり雨はやだなぁと憂鬱な気分になった。
「そんなに雨嫌?すげー凹んでる顔してるけど」
 早瀬はやっぱり顔ごとこっちを見る。前見てくれよ、と言いたいのだがきっと「大丈夫だって」と軽く流されることだろう。
 なんせ「俺の部屋」だ。
「だってまだ全然乗ってないのに、雨ですよ?」
 車を動かす感覚も全く掴めていないのに、雨で視界が悪いなんて。
 ついてない。
「晴れの日とそんなにかわんないって」
 車は外周を周り、前回とは違う角を曲がった。緩やかなS字をやるらしい。
(雨な上にS字かよ!)
 随分緩やかな曲がり方のS字なのだが、それでも外周より曲がり方は急だ。
 うーわー…と内心沈んでしまう。
「スピード出してないなら平気平気。で、ここの曲がり方なんだけど」
 早瀬はここでようやく片手を止めて両手でハンドルを回して曲がるのだが、明らかにハンドルさばきに力がない。
 無駄な力が入ってない。というより、手抜きに近いような…。教官にしてみればこんなところ全然余裕なんだろうけど。
 こんなやり方を見せられても、真似出来るはずがないんだけど。
「曲がる時は、次の角を見てるわけね。じゃないとぶつかったりするから。視線の送り方の練習」
 と一応今日は真面目な始まり方だった。
 停車場所で運転席に交代すると、途端に早瀬はだるー、とばかりに姿勢を崩して助手席に座る。
 身長は俺より高くて、一八〇近くあるんじゃないかって思うんだけど、その長い足を前に出すようして姿勢を崩していた。
 しっかりしろよ!と言いたくなるのは、俺が教習にビビってるからだろうか。
 それとも、一般的な思いなのか。
「んじゃ座席合わせてエンジンかけて」
 早瀬は俺が思っていることなんて分かるはずもなく、あくびでもしそうな様子でそう言った。
「はい」
 大丈夫なのかよ、別の教官にしてもらったほうがちゃんと運転上達すんじゃねぇの。
 不安なんだけど。と思いながら座席を合わせた。
「香坂君、彼女いんの?」
「は、なんですか突然」
 教習と全く関係ない、プライベートな話題を振られて俺は動揺してしまった。
 別に聞かれてまずいことでもないけど。
「彼女にドライブしたい〜とか言われたクチかと」
「最近そんなこと言う女いませんよ」
 発想がおっさんじゃないか。
 見たところ十くらいしか離れてないと思ったんだけど、実際はもっと離れてたりするんだろかうか。
 結婚しててもおかしくないような人なんだけどな。
 教習はやる気ないけど、顔はいいし。
「そう?最近の若者なんて分かんないからねぇ。俺おっさんだし」
「まだ若いじゃないですか」
 見た目から思ったことを言うと、早瀬はひらひらと手を振った。
「中身がね。おっさん」
「あー…」
 分かる気がする。その怠いって感じとか、やる気の感じられないところとか。おっさんっぽいかも。
 そう思いながらエンジンをかける。
「否定してくんないの?」
「へ?あ、はい」
「そういうトコ素直に返事しなくていいよ!」
 傷付くなぁ、と笑いながら早瀬は前を指さした。
 だって否定するも何も、まさに俺がそう思ってたんだし。
 やる気はなくても、ノリはいいらしい。
「外周回って、それからさっきのトコ曲がって緩いS字ね」
 指示された通りに回って、S字に入るとブレーキを利かせるように言われた。ゆっくりと進めってことだろう。
 手探りの感覚でハンドルを切ると「切りすぎ」「もっと切って」と細かく言われた。
 初めて教官らしい指示だ。
 そしてその通りにやると、綺麗に車がS字を通り抜けていく。
 なるほど。ちゃんと教えるのも上手いわけか。
 当たらないように、当たらないようにって前を真剣に見せると「どこ見てる?」と突然聞かれた。
「え」
 突然尋ねられ横の早瀬を見ると、目があった。そしてにっこりと笑われる。
 やる気のなさそうな人だが、そうして笑うと人が良さそうだ。ちょっと軽いけど。
「俺見てても曲がれないよ?」
「あ」
 慌ててハンドルを切ってると「次のカープを見る。視線は前に前に」と指摘された。確かに俺の目線は手前に行きがちだ。
 車は歩行より速く進むから、当然だけど、その分前を見なきゃいけない。カーブならなおさら先を見て、どれくらいの角度で曲がらなきゃいけないのかを計算するんだ。
 でもそんなの、乗り始めたばっかのやつがちゃんと動けるはずもない。
「香坂君、ちょっと童顔だよね。高校生みたい」
 早瀬はまたプライベートな話題を振ってくる。
 しかも制服って、学生じゃないって言ったばっかなのに。
「…そうですか?」
 曲がるのに意識を集中している俺は、いい加減な返事しかしない。
「うん。高校ん時学生服何だった?学ラン?」
「ブレザーですけど」
 なんでそこまで聞くんだろう。
 なんか車に関係、あるわけないか。
「香坂君」
「はい」
 名前を呼ばれて思わず横を向くと、早瀬はにやり笑った。
「どこ見てんの」
「え」
 こつん、と車の前輪が路肩に触れた。
 かなりゆっくりなスピード、それこそ猫が歩いているような速さだから乗り上げることはなかった。
「名前呼ばれたからってこっち見ちゃ駄目だよ〜。運転してる時は前見ないと」
 にやにやと悪戯が成功した子どものように早瀬が笑う。
 教官のくせに、教習生でからかうか!?
「呼ばないで下さい!」
「これくらいで気を散らしたら駄目だよ。というわけでやり直しね」
 バックバック、と早瀬は面白そうに言った。
 誰のせいでやり直しなんだ…。途中まで上手くいってたのに、くそぅ。
 こんな教官で、本当に大丈夫なんだろうか…。



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