アカイイト 1 頭上からパンが転がってきた。 こてんとぶつかってきたそれを手に取るとクリームパンだった。 それが振ってきた元を見上げると赤いフレームの眼鏡があった。 きょろとした目で俺を見てくる男。脱色した髪が窓際の光に当たって、金色近くまで薄まっている。 「あ、ごめんな」 関西独特のイントネーションが耳に届いた。 しかしここでは珍しくもないものだ。関西の大学に通っているのだから、当然地元の人間が比率的には高い。 なので俺の周囲からは常に関西弁が主に聞こえてくる。 「ここええ?」 窓際から二番目の席に座っており、一番端に鞄を置いていた俺に相手はそう尋ねてくる。 見ると他にも席は空いているけれど、教授がドアから入ってきたのでもう動く時間がないのだろう。 「いいけど」 そう言って鞄をどかせると「ありがと」と満面の笑みを浮かべた。 そんなに嬉しそうに笑うことだろうか。俺はそう思ったけれど、別にその顔を向けられて不快でもないので「いや」とだけ応えた。 「それよりこれ」 持ったままになっていたクリームパンを差し出すとぱちぱちと瞬きをされる。 それにしてもデカイ目だ。ちょっとつり目気味で、猫みたいだった。 「あー、それやるわ。席譲って貰ったし」 「別にいいよ」 たかがそれくらいのことでパンを貰うのも奇妙な気がして返そうとするのだが、男は受け取らない。 「ええって、なー」 また笑いながらそう言う。 よく笑う人間なのだろう。 しかしクリームパンを貰ったところで、この講義が終われば昼休憩だからありがたいことはありがたいのだが、学食に行くつもりだったのに。 まぁ学食とこれの両方食えばいいかと思い鞄に隠す。 初めて受ける講義は、教授が元気良く喋りオーバーアクションで説明してくれるという、面白いものだった。 おかげで教室は人々の笑い声や、何やら話し声も混ざって賑やかだ。 それに負けじと教授もまた声を張り上げてくる。 見たところ四十も後半に来ている年に見えるのだが、あんなに能動的で倒れたりしないのだろうか。 そんなことを思いながら内容を聞いていると出欠表が回されてきた。 講義を希望している人間の名前がずらりと並んでいる紙だ。名前の横には小さな空白があり、そこに丸をすることで出席になる。 こんなことをしていれば友達に出欠表に丸をしておいてくれと頼む奴が続出することだろう。まぁこの講義は単位の出し方は試験らしいので、そこで点を取るかどうかのみが焦点になるわけだ。 自分の名前に丸をしていると、隣りにいた男がひょいと顔を覗き込んできた。 まだおまえの番じゃねぇよと思っていると「やっぱり」と呟いた声が聞こえた。 何がだと思ってちらりと横目で見ると「あんな」と喋り始める。 「俺、その次の名前やねん」 「次って」 俺の名前の次を見ると「宮内直紀」と書かれてあった。しかも出欠表は学年とクラスが表示されているのだが、どうやら同じクラスだったらしい。 まだ入学して一週間も経っていないので顔に見覚えはなかった。 「同じクラスやねん。知ってた?」 俺と違って宮内は俺の顔を知っていたらしい。話しかけてきては横から手を出してきて丸を付ける。そんなことしなくてもすぐに出欠表くらい回してやるのに。 「自分、山崎…マギ?」 山崎真義と言う名前を、宮内はマギと呼んでくれた。 予想斜め上過ぎる。 「今までそんな読み方した奴いねぇぞ」 「そうなん?なんて読むん?さなよし?」 どうして真がさなになるのか。それは確実に「真田」の時に通用する読みではないのか。 武将でも頭に浮かんでいるのか。 「ああ、まさよし?」 正しい発音をした相手に、俺は自然と眉が寄った。 「続けて読むなよ」 「やまざきまさよし」 読むなと言った側からしっかり音読してくれる。てめぇと心の中で低く呟いたが宮内は自分が言った音に口元を緩めた。 「すごい名前やん。ええなぁ。俺結構好きやで」 「俺は好きじゃない。あいつのせいでどんだけからかわれてきたか」 有名アーティストと同じ読み方の名前だということで、俺はこれまで色々なことを言われたものだ。カラオケに行けばお決まりのごとくあのアーティストの曲を歌えと言われる。 個人的には別にあの人の歌が嫌いなわけじゃない。でも同じ名前だからと言って歌うことを強要されるが嫌だった。 何よりそんなに歌が上手くないということをネタにされるのが嫌だったのだ。 「でも一発で名前覚えられるやん。俺なんかありきたりな名前で全然おもんないし」 「名前なんか面白くなくていいんだ」 どうして笑いをそこに求めるのか。さっぱり分からない。 俺は宮内の後ろに出欠表を回す。いつまでもここで止めていれば迷惑だ。 「でも一発で覚えられるくらいのインパクトは欲しかったわ」 ぼそりと、それこそ聞こえるかどうかの小声で宮内は呟いた。 なんだか意味深に届いてきたけれど、独り言ならわざわざ問い返すのも悪い。そして何よりそんなことにいちいち反応してやるほど親しくないのだ。 普通の、何のひっかかりもない名前だからこそ言える贅沢じゃねぇか。と口に出すこともなくひねた思いを抱えながら、俺は頬杖を付いた。 「あ、やまざきまさよし!」 必修講義が行われる教室に友達と並んで座っていたら、宮内がそう言って近寄ってきた。 よりにもよってフルネームで呼ばれたので、近くにいた女子がちらりとこちらを見てくる。 漢字の並びだけなら、はっきり言って何の特徴もない名前なのだが。音にされると振り返られる羽目になる。だから嫌なのだ。 眉間に皺が寄ってしまったのが自分でも分かる。 だがそんな俺には構わずに、宮内はにこにこと笑顔で俺の横に座った。 こいつ、俺の隣りで講義受けるつもりだろうか。 「フルネームで呼ぶな」 低くなった声でそう言うと、さすがに不機嫌だと気が付いたらしい。宮内は笑顔を止めて首を傾げた。 「ほんまに自分の名前嫌やねんな」 「ああ。変な目で見られるからな」 「ふぅん。ええ顔なんまで一緒やのに」 ええ顔って何だ。 一瞬言われたことが分からなくて、宮内を疑問の目で見てしまった。だが向こうはそんな視線はお構いなしだったらしい。 「ほな。何て言ったらええ?」 何と呼べば良いのか、わざわざ聞いてくる様に少し呆れた。 「名字で呼べばいいだろ」 大抵の人間は山崎と呼ぶ。俺もそれで何の不満もないのだ。 こっちだって宮内を名字で呼んでいるのだから、別に俺のことだって名字で呼べばいいだろうに。どうして悩むのか。 「名字より名前とかあだ名の方がええやん。もっと親しくなってや」 なぁ、とねだられて俺は困惑を覚えた。 おかしい。言葉を交わしたのは昨日であるはずなのに、どうして宮内はこんなにもなれなれしく俺に接してくるのか。 そしてずかずかと俺と距離を縮めて来ようとするのはどうしてなのか。 こいつは別に友人がいないというわけではないだろう。昨日の講義の後、誰かと一緒に歩いているのを廊下で見かけた。 今朝だって昨日とは違う相手と笑っていた。だから友達を求めて俺に話しかけてきたわけではないだろう。 目的が分からず、口から言葉が出てこない。 そんな俺の隣にいた友達、成田がまるで手助けをするかのように口を開いた。 「シンギでいいだろ」 「おい」 「ああ、シンギ!なるほど音読みか」 へぇと宮内は感心したように頷いた。 成田は俺のことをシンギと言っている。もっと言うなら俺の友達で割と付き合いの長い奴はいつの間にかそう呼んでくるようになった。 俺も別にシンギって言われるのは嫌じゃない。 でもほとんど喋ったこともない相手にシンギなんて呼ばれるのは、やっぱり違和感があった。 だからあだ名なんて言わずにいたのに。どうして成田はそれを教えたんだろう。 お節介とか、世話好きとか、そういうタイプの奴じゃないのに。むしろ人のことは放置していることが多い性格だっていうのに。こいつに対してだけはどうして口を挟んだのか。 どうかしたのかと思い成田を軽く睨むように見たのだが、しらっとした表情がそこにはあった。 俺のあだ名を言ったことになんて、何の意味もないのだと思っていそうだ。 「ほなこれからシンギって呼ぶわ」 「別に呼ばなくてもいい」 おまえと親しくするつもりなんてないんだという言い方をするのに、宮内は「えーやん」とからりとしたものだ。 何も気にしてくれない。 なんだこのマイペース、俺世界築いてそうな奴。 引き気味で眺める俺を通り越し、今度は成田に向かって「確か自分成田やんな?」と名前の確認をしている。 馴染むつもりなのだろうか。 つか成田もこれだけフリーダムな宮内のしゃべりを聞いても拒絶反応なしで、普通に返事をしていた。 こいつ俺より警戒心高いのに、何故か変人に対しては近寄られても突っぱねないんだよな。 どうかと思うぜそれ、って何度も言うのに本人は一向に改めないらしい。 おまえ通して変人と仲良くなるのってもう勘弁して欲しいんだけど、と言いたくなったのだが。元はと言えば宮内と関わりを持ったのは俺の方が先立った。 この事態は俺が招いたということになるのだろうか。 ものすごく嫌な予感がした。 NEXT |