三千世界 六ノ八 「出るぞ」 狼の最期を静かに待ってやりたいのは分かるが、屋敷の騒ぎは次第に大きくなっている。すぐにここまで逃げてくる者、もしくは綜真がこの騒動の発端だと勘付いて問い詰めようとする者がいるかも知れない。 面倒なことになる前に、立ち去ってしまうのが賢明だろう。 炎を一つ掛け軸に宿していく。狼が描かれたそれはあっという間に燃え広がり、屋敷を飲み込んでいくだろう。 捕らわれた者を全て解き放ちながら、何もかも灰燼に帰す。 廊下を歩いていると、風の源が少し離れたところで狂ったように暴れているのを感じる。 術士が風を呼んでいるのだ。まして気性の荒い鎌鼬であるらしい。 目に見えない刃となる鎌鼬の風は人々を切り裂いているのだろう、耳をつんざくような悲鳴と血の臭いが届いてくる。この屋敷にいる生き物は皆殺しにされるかも知れない。 その方が狼の真実を知る者が少なくて、多少は玻月の胸の内が軽くなるはずだ。 何より火を放った綜真にしてみれば都合が良い。風が火の周りを一段と早めてくれる。 玻月は浴衣を脱ぎ捨てて、元の服を着直した。あんなものはここに置いて行くに限る。着替えている場合かと常ならば口出しをしたのだが、綜真もあれは気に入らないので待っていられた。 その間にばたばたと耳障りな足音が近付いてくる。乱れた音は、走っている者の心情を表していることだろう。 「あんた!何をした!!術士が主を殺した!それだけじゃねえ!屋敷中の人間の神格も片っ端から殺し始めた!あんたが何か仕掛けたんだろう!」 案内人である犬が着替えている玻月を待つ綜真に食ってかかる。泡を食って突き飛ばそうとしてくる雄に、綜真はするりと身体をかわし反対に雄の胸ぐらを掴み上げた。 「おまえがあの狼を、女主人に売ったな?」 この犬が狼をここに売りさばいているのは、女主人とのやりとりで察していた。だが本当にあの雌なのか、あの悲愴な狼を閉じ込めたのはこの犬なのか。一応は確かめたかった。 「まさか、そんな頭じゃなかっただろ!だって、ろくに喋れねえって……」 狼の雌が事実を喋ったのかと犬が青ざめる。保身に走った犬に、先に動いたのは玻月だった。 犬の頭を背後から鷲掴みにしては、強引に後ろを向かせる。綜真が胸ぐらを掴んでいた手を離せば、犬は玻月によって柱に叩き付けられた。 「ぐあ、あ、っ!」 叩き付けられた衝撃にむせて、痛みに身体を丸める犬を今度は蹴り倒し。仰向けにさせては目を合わせる。玻月の双眸に生まれる淡い燐光が、狂気を帯びた。 狼の雌に与えたものとは異なる。端から見ている綜真の瞳孔にも刺さる強烈な視線だ。脳髄を無理矢理縛り付けては、素手で握り潰していく錯覚を植え付けてくる。 気持ち悪さに口元を押さえては、玻月から目をそらした。 (目を合わせていなくても引きずられる) この場が狂気で充ち満ちていく。肌で感じるそれを振り払うように歩き出した。 屋敷に入る際に預けた刃物も全て回収してから、ここを出なければ。あれには綜真の源が流し込まれている。 どこに置かれているのかは、離れていても感じ取れた。 すぐに玻月が小走りに傍らに戻ってくる。ちらりと背後に目をやると、犬は玻月が持っていた小刀で自分の腹を刺したところだった。ぶっすりと深く刺さったそれを、犬は引き抜いてまた己に突き刺す。何度も何度も血飛沫を上げながら、声も上げずに繰り返している。 火がここまで来るのが先が、犬が死ぬのが先か。 結末を見届けるつもりなど毛頭ない。 綜真と玻月の刃物は玄関近くの小部屋に押し込められていた。おかげで入って来た時と同じように、玄関口から門をくぐって外に出ることが出来た。 門の前では女中と思われる女たちが肩を寄せて燃えさかる屋敷を呆然と見上げていた。屋敷から悠然と出てきた二人に目を丸くしていたが、玻月がちらりと彼女たちに視線を送ると、再び屋敷だけを凝視するようになった。 二人の姿を意識から外したのだろう。 町の人々も少し離れたところから固唾を呑んで屋敷が燃えるのを見上げている。もし燃え広がれば、他の家にも影響が出る。そうはなってくれるなと、切に祈っていることだろう。 幸い屋敷は火の周りを留める土蔵壁が囲っている。本来ならば町の火事を屋敷に移さないためのものだっただろうに、今は逆に内に留める役割を果たしている。 そもそもこの火事はただの炎が起こしたものではない。綜真が意志を持って、この屋敷を燃やし尽くそうと決めて放ったものだ。 そう町にまで及ぶことはないだろう。また屋敷を中途半端に残しもしない。内側で抗う者がいない限り、屋敷を燃やし尽くすまで鎮火しない。 (全部灰になっちまえ) 全て、消えてしまえば良い。 屋敷から出てくる二人と目が合った者は、片っ端から頭の中から二人の姿を消されていった。 だが大半の者は燃える屋敷に見入っており、そこから二人が出てきた光景をちゃんと目撃した者など限られていた。それでも屋敷の中にいる時からずっと瞳術を使い続けていた玻月は、綜真が取った宿に戻るとすぐさま床に倒れ込んで、そのまま丸二日間、目覚めなかった。 慣れない瞳術を使い続けて、疲れ果てたのだろう。瞳術は強力で、防ぎようもない厄介なものだが、宿主の体力と精神力の消耗が激しい。 眠りこけていた玻月は、目覚めた際は猛烈に腹が減っていたらしく。寝起きから三人前以上の飯を食った。普段は健啖家とはほど遠い子なので、その違いはやはり失ったものを取り戻そうとしているのだろう。 (瞳術は源を組み上げる手間がない分、我が身を削るな) 易々とさせるものではない。 たらふく晩飯を食って、湯を浴びて身も心も整ったのだろう。月が天辺に昇る頃には元のように艶やかな狼に戻っていた。 綜真がゆったりと煙草を吸っていると、その煙を眺めていた玻月が不意に重い口を開いた。 「聞かないのか」 悪さが見付かったのに、親に咎められずにずっと黙り込まれて、途方に暮れている幼児のようだった。 玻月はきっと綜真に叱って欲しかったのだろう。あの屋敷で叱責されたように、膝を詰めてこんこんと己の浅はかさに説教をして欲しかったのだろう。 そうして叱られることで、許しが欲しいのだ。 甘ったれるな、そう突き放そうかと思った。 だが玻月がこんなことをした理由の一端は己にあると、綜真も気付いている。いわばこんなものは共犯だ。 煙管から口を離しては、かつんと煙草盆に雁首を当てて灰を落とす。深く吐き出した煙は溜息交じりだ。 「おまえは狼の雌を抱くつもりなんざ端っからなかった。んなことは最初から俺だって分かっていた。大方里に戻すつもりか。捕らわれた狼に哀れみを覚えたか、だ」 「……狼なら、家族は待っているかと思った」 玻月の家族がずっとそうだったように。 (情だな……) 玻月の中には家族への情と恩義が根付いている。喜ばしいことだが、今だけは素直にそれで良いとは言いがたい。 「頭を弄られて気が狂っているのなら、元に戻せば里も家族も思い出す」 「だがあのザマだ」 「それは、予想していなかった」 玻月は俯いた。その様にまだこの子は幼い、性に疎いのだなと感じる。 綜真は話を聞いたときから予感はしていた。 遊郭に捕らわれた狼の雌を過去に見たことがあるから余計だ。彼女らはみんな、正気を奪われて、人形か、それ以下になっていた。 「……耐えがたいとは思っていた。己が選んだわけでもない。まして犬に抱かれるなんて、死にたくもなるだろう。それでも、里に帰りたいかと聞きたかった」 だが問いかけることも出来なかった。 「……残酷だったな」 綜真が玻月に対してそう責めたままを、玻月が呟く。 「いや、あの狼は殺されたかったんだろう。同胞に見送って欲しかったんだ。俺はそう思うね」 たった一人で人形のまま朽ち果てるのではなく、あの雌は最後に狼に戻ることが出来た。 同胞の手で、己は狼だと吠えては矜持を守るために死んだ。それは人形には到底出来ない。 「……穏やかな最期だった。おまえはあの狼に何を見せたんだ?」 死に逝く者の瞳に映ったものが何であったのか、あまりにも安らかに命を閉ざしていく様は、幸せすら滲んでいるようだった。悲惨な死であるはずなのに、満たされていると感じさせるのは瞳の魔力だからこそ可能だっただろう。 「俺が見た里を、与えた」 「そうか……救われただろうさ」 玻月が見ていた里がどんな光景であるのか。 人間であり、余所者な綜真には分からない。けれど家族に迎え入れられ、群れの中で一時暮らしていた玻月の見ていたものは、あの狼にとっては安心する場所だったのだろう。 きっとあの狼は故郷に還った。 次 |