三千世界   六ノ七




「狼が檻に入れられ人形のように扱われ、犬の慰み者にされたあげく、仕舞いには子を産むための道具だ。正気でいられると思ってんのか。おまえなら耐えられるのか。耐えられねえだろ」
 耐えられるわけがないのだ。発情期に同胞の雌相手であっても、玻月は触るなと撥ね付けた。
「里に戻ってどんな面すりゃいいんだよ。身内がいりゃあ哀れんでくれるだろう。だが可哀想な子だと、ずっとそんな目で見られる。里の中でも腫れ物扱いだ。そんな目を向けられている内は、こいつはここでの暮らしを忘れられねえ」
 可哀想な子でいる内は、己の身に何が起こったのか。己がどんな生き方をしていたのかを思い知らされる。
 そんなことは玻月だって知っているだろう。
 里の中で育つことが出来なかった玻月は、狼の里に戻っても馴染ずにいたのだから。家族の情に包まれても、未だに父親や兄姉をすんなり呼べない。
 頭では家族だと認識しているのに、感覚で捉えられない。
 そんな玻月がこの雌を里に戻して、上手くいけると思うほうが過ちではないか。
「だが里以外でこの狼がどうやって生きる。戦う術も持たない。爪も牙も丸められた雌を、誰が守る。おまえが面倒見られるのか」
「俺は」
「おまえがつがうのか」
「出来ない」
「だったら正気に戻すべきじゃねんだよ。何も分からなくなってるほうがましだっただろうよ。こいつにとっちゃ、現の方がずっと地獄だ」
 己がどうなっているのか。正しく認識してしまった方が、呆けている頭を抱えておぼろげな意識で生きているよりずっと過酷だ。
 己の爪ではせいぜい血が滲む程度の傷しか作れない。そう理解した狼の雌は、玻月に再びすがりついた。
 だが先ほどまでとは違い、双眸は濁っておらず、涙をたたえながらもしっかと玻月を見上げていた。
「殺して!」
 絞るように、狼は叫ぶ。
 それに玻月がようやく動じた。怖じ気づいたのを感じ取ったのか、狼は玻月の腰に抱き付いた。欲情などどこにもない、切実な哀願だった。
「今すぐ殺して!おまえも狼だろう!同胞だろう!ならば分かるはずだ!殺してくれ!どうかどうか!」
 早く!と狼は玻月を急かしてくる。
 こうして息をしている間にも激痛に襲われて、耐えられないと悲鳴を上げているみたいだ。本来ならば頭も身体も術のしがらみから解放されたというのに、もっと強い、圧倒的な呪いに蝕まれているかのような有様だ。
「私はもう汚されたくない!早くしてくれ!私は、私は!」
「里に、帰りたいとは、思わないのか」
 強ばった唇で玻月が問いかける。だが「どの面を下げて!」と綜真が予想した通りの声が上がった。
「こんな身体になった雌に居場所などない!里にとってはとんだ恥さらしだ!私は恥に成り下がりたくない!誰にも、里にも知られずに死にたい!私はとうに死んだんだ!攫われた時に死んだ!」
 誰にもこんなザマを見せたくない。
 玻月を揺さぶりながら狼は悲痛な叫びを上げ続ける。
 殺せ殺せと泣きながら、玻月を追い立てる。
「狼として死なせろ!私は畜生じゃない!檻の中に入れられた玩具じゃない!私は私のものだ!」
 誰のものでもない。
 そう矜持を訴えた狼に、玻月が拳を握った。振り下ろす先のない拳だった。
 そして大きく息を吐いては、指をぎこちなくほどいて綜真へと伸ばした。
 綜真は握っていた小刀を玻月に手渡す。
「分かった」
 玻月の声は微かに震えた。だが心が決まったと分かる芯のある声音だった。
 狼は誘われるように、涙をたたえた瞳で玻月と視線を合わせる。
 燐光を帯びた玻月の瞳と見詰め合うと、狼の瞳が再び焦点を失った。
 けれどそれは混濁するというより、静かに色を失っていくように見える。玻月にしがみついていた腕からは力が抜けて、だらりと下ろされた。
 表情は和らぎ、玻月が狼を見詰め続けると目元がほころんだ。愛おしそうなその眼差しに、綜真まで胸をかきむしられるような感傷に襲われる。
 ようやく満たされた。欲しかったものを与えられる。
(だがそれはまやかしだ)
 安堵と喜びが狼の双眸に宿っては、玻月は握っていた小刀を狼の胸元に突き刺した。
 何ら抵抗のない身体に無理なく差し込んだ刃は、まるで吸い込まれるように肋骨の隙間から心臓に達しただろう。実に手際の良い殺しだった。
 人や神格を殺めることに慣れきった手口。共に旅をしていると玻月のこういう一面を目にすることはあるけれど、ここまで穏やかに、そして静かに遂行されたのは初めてだった。
 狼の身体は弛緩したままだ。刺されたという感覚すらないのだろう。頭も身体も、夢見心地で現にはもういない。
 小刀を引き抜くと鮮血が溢れ出す。赤い着物は血で濡れたところで目立ちはしない。けれどすぐに黒く褪せていくはずだ。
 玻月は狼の雌をゆっくり布団に寝かせた。そしてはだけて露わになった肌を労るように着物の袷を整える。瞳はずっと視線を重ねている。そうしていなければきっと狼は夢から醒めてしまう。
 狼は右手をゆっくりと持ち上げた。何かを探すような指を、玻月がそっと握る。心細そうな指先が玻月に捕まると、狼は微笑んだ。
 可憐な、安らかな笑みだった。そして唇がゆるりと動いた。
 兄様。
 そう紡ぐ。もう声は出ない、呼吸も浅く、もうじき止まるだろう。
 玻月は一瞬だけ眉根を寄せた。心の一番奥に、己が刺した小刀がそのまま刃を返したようだった。
 だが苦悶の声は漏らさずに、命の灯火が消えるのをじっと待っていた。
 狼は深く安堵するように息を吐いた。それは淡い灯火を自ら吹き消したかのようだった。
 最後の吐息は、不思議と見ている者に終わりを伝えてくる。
 夢を見たまま、狼は静かに逝った。
 着飾られ、牙と爪を抜かれて狼の証を奪われた者は、同胞によって心だけでも里に還った。
 穢れも屈辱も全て身体に残して、魂だけを抜き取った。
「良かれと思ったか」
 亡骸からなかなか手を離せずにいる玻月に、残酷な問いを投げた。
 慰めるつもりはなかった。玻月は明らかに非情な現を余計に作り出したようなものだったからだ。
 少なくとも綜真ならばこうはしない。何も生み出さない。
 だが一方で狼として、同胞が辱められているのを見過ごせないという思いも理解はしていた。だから、ここまで付き合った。
 玻月にも仲間意識があったのかと、驚かされたのも理由だろう。
「狼じゃなかったら、まだ間に合ったのかも知れねえな。だが狼じゃ無理だ。おまえにだって分かるだろ。つがいでもない者に抱かれるのは、嫌なんだろうよ」
「ああ、気が狂うほどに」
 玻月は狼の瞼を掌で下ろしては、綜真へと眼差しを移す。もう月の燐光は宿っていない。真っ直ぐな、真摯な双眸だ。
(……こいつは分からせたかったのかも知れない)
 発情期を迎える玻月に、己以外をあてがおうとするのがどれほど非道なのか。
 綜真の目に映したかったのかも知れない。
 言葉を失っていると、屋敷のどこからか悲鳴と怒声が聞こえてくる。
 先ほどからうっすら聞こえてはいたのだが、次第に大騒ぎになっているようだった。様々な声が混ざり合っては狂乱が始まっているのだろう。
「あの女、主を殺したか」
 殺されたと叫ぶ声が近くまでやってきた。玻月がかけた命令は遂行されたらしい。
 どうやら信頼しているようだった術士が突然襲いかかってくれば、女主人が命を取られるのも無理はない。
 玻月は悲鳴が聞こえているだろうに、狼に視線を戻してはようやく躊躇を示した。
「ここに亡骸があれば……何かされるだろうか」
 狼は本当に身内には情が深い生き物だと、綜真は玻月のその一言に実感した。
 誰にも興味を示さない、同胞への意識がなかった幼い狼はもうどこにもいないのだ。命を失った身体にも名残を見出すのだから。
「焼いてやるか。もう何一つ、弄ばれたくないだろう」
 亡骸でも里に持って帰ってやれば良いのだろうが。ここから里はまだ遠い。いくら綜真でも遺体を何日も持ち運ぶのは困難だ。
 亡骸を燃やすのは酷かも知れないが、この屋敷に置いて行くのも亡くなった狼にとっては苦痛だろう。
 玻月が小刀で手首に巻かれた組紐を切ろうとする。だがそれはただの糸では編まれていない、刃物で単純に切れる仕組みではなく、玻月は刃物を通さない糸に当惑する。
「これはな、上位にいる術士が下位の術士を縛るものだ。源を組み上げて操る力は、おまえよりあっちの方が上なんだろうよ。さすがに術士を生業にしてるだけはあるってこった」
 玻月は源を操る、組み上げるという能力はとても低い。だからあの術士が作り上げたものに歯が立たないのだろう。
 だが綜真はあっさりとその組紐を切り落とした。
 切断されれば、それはただの糸として床に落ちる。
「俺より上にいるなんて、思い上がったもんだな」
 あの術士も組紐の仕組みを理解していただろうに。こんなものを綜真に着けるなんて、随分慢心していると思ったものだ。
 火の源を呼び出しては、掌に炎を生み出す。狼の胸元に寄せると炎はあっという間に亡骸を包み、紅色の光に狼の表情が見えなくなった。
 人を焼き殺す炎ばかりを使ってきた。悼む火など滅多に使うものではないが、ごくまれにこうして送り出す時は、炎は救いでもあると感じる。
 恨みも悼みも悲しみも、灰になって風に掻き消える。何も残らない。
 残らないことを空しいと嘆く者もいれば、それが何よりの救済であると語る者もいる。
 玻月は何を思うだろう。
 双眸は静かで、もう憂いすら消えようとしていた。