三千世界   六ノ六




 玻月が格子の中に入ると、術士は再び鍵を掛ける。ガシャンと無機質な音に反応したのか、それとも雄が近付いたことを感じ取ったのか。狼の雌が顔を上げて玻月を見た。
 焦点は危ういまま、唇が開かれては吐息を零しながら玻月へと這いずり寄る。
 着物は更にはだけるけれど、頓着はしていない。渇いた喉が水を求めるかのように、必死に玻月へと手を伸ばす。
「貴方が連れてきた狼は、発情しているだろうに冷静ですね」
 雌の発情に釣られて、雄は発情するのが常だ。玻月も雌の発情に影響を受けているはずだが、無表情のまま煽られるどころか動じるところも見当たらない。
「貴方の仕込みですか?発情期は初めてだと言ってましたが、雌は抱かずとも男に抱かれたことはありそうですね」
「下世話だな」
「綜真殿に男色の気はないと聞きましたが、それでも綺麗な雄相手では分からないでしょう。狼は一途な生き物らしいですが、このままうちの雌とつがいたいと言えばどうなさいます?置いて行く?主は大喜びですが」
「玻月が決めることだ。だがそうはならねえだろうな」
 万が一にもあの雌が良いと言えば、残していくのに抗いはしない。己のことは己で決めれば良い。あれも成獣だ。
 だがあの様子では執着など見せないだろう。綜真に向ける眼差しとあまりに違い過ぎる。
「貴方はあの子を手放したくないのでは?月の源がありますものね。貴方は月の子だけが持てる月の源を欲しがっていると聞きました。あの子を手に入れることで間接的に月の源も己のものにしたのでは?」
 綜真が月の源を欲しがっていることも把握しているらしい。
 術士はどこまで綜真を知っているのか。決して好意的でないことは、嫌みったらしい喋り方と剣呑な目つきから分かる。
 言葉少なに聞き流している綜真の態度に、術士は次第に憤りを滲ませ始める。
「手放したくないでしょうに。それとも生まれてくる子どもから月を引きずり出す時を待っているのでしょうか。成獣ならともかく、赤子ならまだ源は定着していない。月の源を引き出せる。私はやったことがありますよ。多少は引き抜ける。勿論、赤子は死にますが」
 当然この世の理で禁じられている外法を、術士は自慢げに語っている。
「興味がありませんか?貴方は術士として優秀で、貪欲なのでしょう?やってみせてください。主も赤子の一匹は欲しがるでしょうが、二匹目は譲ってくれるかも知れません。ご教授願えませんか。人成らざる術士」
 人間の枠組みから外れた化け物。
 術士は綜真をそう嘲る。
(そうか、人から外れられない連中か)
 どれほど術士として優れていても、貪欲であって。人間として生きているのならば必ず老いる。必ず体内の生命力が少なく、枯れていく。中には老成しても源だけは潤沢に、そして洗練された濃厚な状態で保てる術士もいるけれど。隣にする術士はその内に入らないのだろう。
 だから人間のしがらみから外れ、老いを見失った綜真に嫉妬と憎悪を向けるのだろう。
(てめえの都合じゃねえか)
 純然たる人間のしがらみなど知ったことではない。
 綜真の視線の先では玻月が腰にしがみついてくる雌のため、背中を丸めた。
 息が荒くなっていく雌は玻月しか見えていないようだった。玻月の浴衣の帯を掴み、それを解こうとする。早く喉の渇きを潤わせてくれと懇願する様は、確かに発情期のものだ。
 昨年の玻月の姿を思い出しては苦さが込み上げる。
「がっつかないお優しい雄ですね」
 何を言っても相手にしない綜真に飽きたのか、術士が玻月を見ては冷ややかに吐き捨てた。けだものを見る、蔑みが含まれている。
 飢えたけだものでも、発情期の雄の盛りがない玻月は、雌の両頬を掌で包み込んだ。
 そして間近で目を合わせる。
 その横顔に、ぞわりとしたものが綜真の背中に走った。
「止めろ玻月。戻しても意味がない」
 いけない、と格子を叩いては玻月の意識を引き付けようとする。けれど玻月の双眸には燐光が宿る。
 月の源が瞳に集められていく。見ているだけでも心臓が掻き毟られるような恐れと、奇妙な高揚が生まれる。
 見詰め合った雌は、微動だにしない。
「玻月!」
「何をしている!」
 術士は綜真の態度が急変したこと、そしてそれまで身をくねらせていた雌が愕然と玻月を見上げていることに異変を感じ取ったらしい。怒鳴り声を上げながら格子を開ける。
「玻月!今すぐ止めろ!おまえがしていることは何より残酷だ!」
 引き返せなくなる。
 雌は綜真の声にびくりと身体を跳ねさせた。
 それが引き金だった。
「あ……ああ……」
 雌の喉から引きつった声が零れる。
 桃色の愛らしい唇は歪められ、濁った瞳孔が不規則に震える。
「あああぁぁぁぁぁああああ!」
 大気を切り裂くような絶叫だった。耳に突き刺さるそれに思わず耳を塞ぐ。
 雌は突然暴れ出したかと思うと頭を抱えては、壁に何度もぶつける。ごんごんと容赦ない力で頭を叩き付けている様は、自らを壊そうとしているようだった。
「おまえ何をした!」
 術士が詰め寄ると玻月は振り返り、今度は術士と目を合わせた。術士は何も身構えず、玻月の瞳をまともに見たのだ。瞳術は一瞬で術士を絡め取っただろう。
 気色ばんでいた術士の顔から表情が一瞬で抜け落ちた。意識が取られたことは明らかだ。
 玻月は目を合わせたまま、術士に歩み寄る。どこにも力が入っていない。単純に視線を交わらせているだけだ。それでも瞳から直接、月の源は流れ込んでいるだろう。
(だから厄介なんだ)
 かかるのは一瞬、そしてかけている側がそう力まずとも意識は奪い続けられる。玻月にとって相手を操るのは、あまりにも容易い、息をするのと同じくらい呆気ないようだった。
 そして瞳術は元々瞳に宿っている。体内を巡る源を組み合わせる術とは異なる。手首に源を封じる組紐を結んだところて、防げるような代物ではない。
(瞳のもんは、防ぎようがねえ。玻月にはそう教えた)
 だから玻月は組紐を付けられても、何ら迷いはなかった。
 術士はさすがに源を操る者であるだけに、狼の雌のように易々と意識は奪われなかったらしい。硬直したまま、身体を痙攣させている。
 必死に抵抗している様に、綜真は格子の内側に入っては術士が懐に仕込んでいる刃物を抜き取った。
 そして軽く刃物を喉元に当てた。すると術士がひぅと息を飲んだ。その瞬間、自我が大きく恐怖に揺れてしまった。
 玻月の瞳に抗う気力と精神が崩れた。その瞬間に月の源が術士を侵食しては、意識を飲み込んだ。
「主のもとに帰れ。そして殺せ」
 端的な命令だった。
 術士はぎこちない動きで、歩き出した。格子を抜けて、部屋を出て行く。
 何ら意志を感じさせない表情、歪な歩き方は生きている人間というより操り人形だ。
 術を幾重にも重ねて狼の雌を人形に仕立て上げた術士が、狼の瞳によって一瞬で魂を奪われるのは、何とも皮肉な様だ。
 人形から解き放たれた狼は、今度は屏風を格子に投げつけ、枕を振り回して調度品を壊し、そして肩で息をしながら爪で自らの首を引っ掻いた。
 だがその爪は丸く削られている。野山で生きている狼ならばそれは鋭利だったかも知れない。けれど人の手によって整えられ、彩られた桜貝のような爪では何も傷付けられない。せいぜい皮膚の表面を削り、血が滲む程度だ。
(あれでは死ねない)
 自害する術すら持たない、狼ではない狼。
 あまりにも悲惨な姿に、さすがに綜真も目を背けたくなる。
「綜真。あの雌を里に戻せないか。今は気が狂っているが」
 玻月は雌の行動にやや戸惑っているようだった。
 けれど綜真ならば正気に戻して、狼の里に戻してやれるのではないかという期待が浮かんでいる。
 玻月にしてみれば温情だろう。同胞に対する哀れみに、こいつも仲間意識がちゃんと芽生えたのだという、感慨深さもある。
 だが今はそれが何より冷酷だ。
「馬鹿が、ありゃあ正気だ。おまえが元に戻したんだろうが」
 術士が執拗にかけた術を、玻月は数秒見付け合っただけで破った。所詮人間が編み出した源で意識を奪うのと、生まれながらに月を宿している狼が意識に介入する力、どちらが強いのかなど悩むまでもない。
 しかし正気と言われても玻月は怪訝そうだった。その仕草に幼さが滲んでは、綜真は舌打ちをした。