三千世界   六ノ五




「玻月」
 ここまで来て玻月はまだ何も語っていない。これほど冷ややかな眼差しを保ったままで、大人しく雌を抱くとは到底思えなかった。むしろ今すぐ刃物を振り回してここにいる者たちを片っ端から斬り殺していくと言われた方が腑に落ちる。
「見ていて欲しい」
「は?」
「狼の雌の元に行く。見届けて欲しい」
 何を、など本来ならば問いかけるべきでもないものだ。これから発情している雌の元に、雄が向かうのだから。交尾を求め、求められる。
 応じるためにここに来ているはずだ。
 だが真逆の瞳に言葉が詰まる。
 何をしでかすのか分からない。いっそ今すぐ引っ張り出して、この屋敷から、町から出て行った方が正しいのかも知れない。
「……こいつを連れて行くなら、俺も同席させて貰う」
 綜真は女主人にそう告げた。
 これにはさすがに玻月以外の者たちは絶句したようだった。狼同士の交尾を近くで見せろと言い出すなど、突飛な発言であることは分かっている。
「こいつはこれまで発情期を迎えたことがない珍しい雄だ。あんたらの雌に何をするか分からない。ちょっと特殊な生まれなんだ。じゃなきゃ人間と一緒にこんなところをふらふらしていないだろう」
 真っ当な狼ではないと言っても、女主人は渋い様子だった。
 先に術士が鼻で笑う。
「特殊な生まれなのはそうかも知れないが、だからといって交尾を見てるなぞどうかしているぞ。眺めることで興奮する変態か?」
「まあ、良いわ。飼い主付きで交尾とは、まるっきり犬っころじゃない。万が一うちの子に傷でも付けた時には、飼い主に責任を取って貰おう」
「責任か」
「そう。責任を取って、その狼を置いて行け。うちの子の、珠のような肌に傷が付いたのならば、それくらいが相応しい」
 ふふふと女主人は笑っている。どうしても玻月が欲しいらしい。
 執着が綜真の神経を逆撫でる。
「あたしは犬っころの交尾を眺める趣味はないから、お先に失礼させて貰うわね。お客様がこれからいらっしゃるの」
 ちらりと女主人が案内人の犬を見た。それが合図であったのだろう、案内人の犬は速やかに立ち上がっては、部屋を出て行く女主人に付いていく。
 玻月はそれから雌の元に行く前に湯殿に連れて行かれた。衣類と持ち物は綜真が預かったが、刃物の類は術士に渡す羽目になった。
 万が一暴れられた際、雌や屋敷の者に危害を加えないようにという警戒だろう。綜真も素直に従い、刃物などは取り上げられた。
 元々身を守る際に刃物を重視していない。何ら痛手にはならなかった。
「これを手にはめて貰う」
 術士は複雑な模様の組紐を取り出しては綜真の腕にはめる。源が絡み合って何かしらの作用を生み出しているのは即座に感じ取れる。腕にはめれば、体内の源がぎゅっと濃縮されては閉じ込められるような閉塞感を覚えた。
「閨に荒事は持ち込めない。刃物だけでなく術も封じさせて貰う。勿論あの狼も同様だ」
 術士がもう一本組紐を取り出した。
 付けた者の源を封じ、術を発動させないための組紐なのだろう。どうやらこの術士は生き物の体内の源に働きかけるのが上手い術士であるらしい。だから狼の雌の頭も洗脳して、意識を封じ込められたのか。
 身体を拘束されたような窮屈な体感に自然と表情が険しくなる。そんな綜真に術士は愉快そうに口角を上げた。
「あの綜真が源が封じられてどんな気分だ?。丸腰だなんて、心許ないのでは?」
「女相手に丸腰だからって何だってんだ」
 見たところ術士とは体格が二回りほど異なる。純粋な力の差は歴然としている。
 しかし術士は野蛮な発言をする綜真をせせら笑った。
「私には術式がありますからねえ。源を封じられた貴方ごとき、どうとでもなる」
「へえ」
「大人しくしてくださいね。狼の睦み合いが先です」
 機嫌が良くない綜真が声を低くすると、術士は口元を覆った。目が弓なりになっている時点で嘲笑は隠せていないのに、無駄な行為だ。
「おまえ、雇われか」
 女主人に忠誠心があれば、もめ事は避けようとするだろう。だが術士はどこまでも挑発してくる。
 狼のことが終われば、綜真にちょっかいを出して一戦交えるのも構わないような素振りだ。
「お給金がいいんです」
「主の趣味は悪いが」
「貴方がそれを言いますか。飼い犬の交尾を見ようしているのに」
 悪趣味の変態だと蔑まれても、その点に関してだけはまだ何も言えない。端からすれば全くその通りだからだ。
 術士が蔑みを深めたところで、湯殿から玻月が戻ってくる。屋敷側で勝手に用意されたのだろう、藍色の浴衣を着ている。雪花絞りの柄は派手なものだが、端正な顔立ちの玻月にはそう悪いものではなかった。
 ただしやはりもう少し落ち着いたものが玻月には似合っている。まして憂鬱そうな顔にそれでは、無理矢理着せられているという印象が拭えない。
「お綺麗な狼で」
 術士が軽い揶揄を述べるが、玻月は綜真だけを見ている。
「似合ってないわけじゃない。だが気に食わねえ。後で買い直してやるよ」
 もっと玻月に似合うものがある。
 玻月は綜真の台詞にさして考えもせず、素直に頷いた。綜真がそうしたいのならばすれば良い。その程度の認識だろう。
 術士は鼻を鳴らしては、玻月の手首に組紐を通す。しっかりと結ばれたそれに、玻月は何も言わない。そして何の表情も浮かべない。源が封じられるといっても、玻月はそもそも術を使わない子だ。あまり影響がないと思っているのか。
(稀少な月持ちだが、こいつは術は使おうとしないからな)
 もっぱら身体を動かすことばかり優先する。賊の中で犬として働いていたから、狼の証である月の源の使い方を知らぬまま。
 綜真が幾度となく源の使い方を教えはしたけれど、身についている様子はなかった。
 術士は二人を屋敷の奥へと導いていく。
 辿り着いたのは屋敷の最も奥まった場所にある、離れとして作られた豪華な座敷牢だった。
 格子で仕切られた部屋、中にはごってりと金色に輝く屏風、掛け軸などはあるけれど花器は見当たらない。真ん中には真っ赤な布団に真っ赤な着物を纏った華奢な狼の雌が一人。狼の特徴である灰銀の髪は結い上げられており、金色の櫛で飾られている。
 玻月が近付くと狼の匂いに反応したのか、雌は振り返る。濁った瞳に上気した頬、赤い着物は袷がすでにはだけており、白い柔肌が露わになっていた。
 年頃は玻月とそう変わらないだろう。今まさにあどけなさを脱ぎ捨てようとしている成獣だった。
「発情する薬も入れています。元々発情期ではあったのですが、念には念を入れて。その方が都合が良いでしょう」
 無理に発情を起こさせる薬は遊郭にいる神格の雌たちに使われることが多い。本来季節に準じて発情する彼女たちを、遊女として働かせるための外道のやり口だ。
「発情の薬で頭が馬鹿になっていると?」
「ここに連れて来た時、里を忘れさせるために頭に仕掛けはしています。狼は特に月の源を持って他者を操ろうとする、危険なものです。源も封じています」
 雌の細い手首には綜真にもくくられている組紐が三つ結ばれていた。厳重に源を内に封じ込めているらしい。
(人形か)
 里への記憶を操られ源を封じられ、発情の薬を飲まされて檻の中だ。どれほど着飾っていようと、あれは狼から外れたただの玩具に成り果てている。
「屑のやることだな」
「狼は里を恋しがり、人を警戒します。本能が強すぎる。ここで暮らすためにはこうして操られた方が良いでしょう。大人しく従っていれば食うに困らない。安全に、優雅な屋敷の中で何不自由なく暮らせる」
「何不自由なく?」
 あの様を見ても本気でそう言っているのか。
 自由が一体どこにある。あの雌の意志はどこにも存在していない。
「哀れですか?だが里から攫われてきた雌の狼なんて、果ては玩具にされるだけ。犬にとっては特に、発情を誘われるものらしいですよ。元々狼は犬の上位でしょう。なのにこの有様ですから、矜持を刺激されるらしい。みんなあの雌を」
「黙れ」
 それ以上聞きたくなかった。
 ただでさえ胸くそが悪いのだ、これ以上不快な話をされると、術士の首に手を掛けてしまいそうだ。女のその首ならば、どれほどの力で骨が折れるのか。意識のどこかで冷静に考えてしまう。
「あら、随分とお優しい。あの狼を飼ってから情が移りましたか?源のためなら何でもする狂人が」
 吐き捨てるように術士が言い放つ。侮蔑するその中身は間違っていない。
(情が移った?ああ、移ったんだろうさ)
 愚かしいほどに、浅はかなほどに、情ならば移ってしまった。だからこそ玻月を止めずにここまで来てしまった。
 ろくなことにならないと分かりながらも、格子に手を掛けた玻月を引き留められない。
 術士が格子の鍵を開ける。ギィと軋みながら、格子は内側へゆっくりと動いた。