三千世界   六ノ参




 街道に戻り、辿り着いた町はこの辺りで一番大きく栄えていた。街道を通るならば必ず立ち寄るだろう立地にあるため、各地方の様々な物資が持ち込まれている。遠方の珍しい品物も集められ、大通りには数多くの店が建ち並んでいる。
 活気溢れる賑やかな町の中で、発情期間近ということもあって獣たちが特に浮かれていた。恋の盛りに獣たちは互いに視線を交わし合う。
 笑い声もどことなく媚びと駆け引きを含んでいるように聞こえる。
 秋波を送る獣の中には、相手は同胞に限らず人間でも構わない物好きもいるらしい。綜真に物言いだけな視線を送る雌もいる。
 まして隣にいる狼の雄に対しては、言わずもがな獣たちが気を取られているのが肌で感じられる。中でも犬にとって玻月はどうしても反応せずにいられないものであるらしい。
 見た目がらしくなくとも、この身が狼であると彼らは嗅ぎ取っているのか。それとも狼と分からずとも惹かれてしまうものがあるのか。
 源の強さを好みとする獣ならば、成獣となって瞳術まで開花させた玻月は魅力的だろう。ましてその見目も整い、一見性別が曖昧になりそうなところも雄雌共に興味を抱くきっかけになっているのだろう。
 旅に付いてきた当初は痩せ細った薄暗い犬の子だったのに、いつの間にか磨き上げられた珠になった。
 色香を漂わせ、今か今かと誘いをかけようとする獣たちを前にして、玻月が見詰めているのは人間である綜真ただ一人だ。
(ひたむきな生き物だ)
 こうと決めたらてこでも動かない。頑固と言えばそのままだが、あまりにも情が強く、深いせいで憐憫すら覚えてしまう。振り向かない相手にこれほどまでに思いを寄せることを、何ら躊躇わないその潔さが綜真にとっては後ろ暗い。
「腹が減ったな」
 獣たちの視線に晒されて、一挙一動観察されるような大通りを歩くのも気が張る。丁度昼間であることだ、腹も空いてきたと目に付いた定食屋の暖簾をくぐった。
 中は飯時ということもあって席がほとんど埋まっている。
 空いた席を探しては、広い店内で忙しそうに働く女中に声をかける。何があるのかと聞くのも手間なので、一番評判のものと、隣の卓で食べている人々のものをちらりと見ては美味そうな品を二つほど頼んだ。
「やっぱりあの遊郭で一晩相手して貰うならよぉ」
 隣の卓は犬が三匹揃っている。雄ばかりだ。発情期ということもあって、話題はどうしても雌のこと、閨事に偏るのだろう。
 この町にも幾つか遊郭があるらしい。栄えている大きな町にはあっておかしくないものだ。
 性と生き物の営みは切っても切れない。
 三匹の雄犬は玻月に気が付いたらしい。遊郭の話をする傍ら、こちらをちらちらと見てくる。小声で何やら喋っているのも聞こえるのだが、わざわざ聞き耳を立てるような内容でもないだろう。
 玻月の大きな耳ならば内容も聞き取れるだろうが、当人は知らぬ顔だ。誰に何を言われてもこの子は関心を示さない。綜真が関わっていなければ、聞いてやる価値もないといわんばかりだ。
 狼のように個体数が少ない種族は繁殖にこだわり、つがいを異性に求める。だが犬のように数が多い種族は性別のこだわりが薄い。隣の卓の雄たちもその手の類かも知れない。
「手際の良い雌がいる遊郭だとよ。筆おろしでもして貰うか?」
 隣から流れてくる噂を口にする。たちの悪い冗談だが玻月は表情一つ変えない。
「綜真もやっと腹をくくったのか」
「まともに人の話を聞け」
 成獣になってから玻月は綜真の戯れにしっかり戯れ言で返してくるようになった。
 口が減らなくなったといえば、玻月も逞しくなってきたものだ。
(最初は黙り込んでばっかりだったくせに)
「どんな雌でも駄目か」
「いらない」
「せめて初めては優しい雌がいいだろうよ」
 投げやりな物言いに玻月はもう何も言わなくなった。こうして雌をあてがおうとするのも、互いに慣れてきた。
 女中が酒とおでん、そして稲荷寿司を運んでくる。
 酒でも飲んでいなければやってられない綜真は早速手酌で酒を喉へと流し込む。合間に一つ稲荷寿司をひょい口に放り込んだ。
 あげに包まれた中身は五目飯だ。たっぷり具材が入っている上に、甘辛く煮られている鶏肉やごぼう、干し椎茸から旨味がじゅわりと溢れてくる。あげの甘さを邪魔しないその加減が絶妙だ。
 稲荷の中身は素っ気ない酢飯やせいぜいごまが混ぜられているものが珍しくないのに、ここまでしっかり味が染み込んだ五目飯が出てくるとは運が良い。
「当たりだな」
 玻月も頷き、黙って稲荷寿司を食べている。ついでに玻月の皿にはおでんに入っていた玉子と大根、田楽を盛ってやる。どれだけ食べさせても太る様子がない子だ、せいぜい栄養を取らせてやると決めていた。
「発情期は来るぞ」
「知っている」
 だからどうしたと言うように玻月が上目遣いで見てくる。軽く睨んでいるような目つきでもある。
 腹はもうくくっているのだろう。くくっていないのは綜真だけだ。
 溜息を共に酒を煽ると隣の卓にいた雄の一人がふらりとこちらにやって来た。そして玻月を見るとごくりと唾を飲み込む。
「ちょっとすまねえ」
「失せろ」
 玻月を品定めした雄の言いたいことなど、聞くまでもない。
 切り捨てる綜真に、雄は「待ってくれ」と食い下がって来る。
「違う違う、俺がお相手したいってわけじゃねえんだ。話を聞いてくれ」
 頼む!と卓の端に手を突いて頭を下げてくる。玻月はそれを見もしない。
 食事に集中しているのか、三つ目の稲荷寿司に齧り付くと瞬きをする。意外だという顔に綜真が片眉を上げると、稲荷寿司の断面を見せてきた。
「梅としらすだ」
「へえ、そりゃ美味そうだ」
 ここの稲荷寿司は中身の味付けにこだわる上に、一種類だけではないらしい。良心的な店だなと感心していると、無視されているにもかかわらず雄は「あの」と勝手に切り出した。
「そっちのべっぴんさんは狼なんだろ。俺分かるんだ。前に狼と暮らしてたことがあってさ」
「はあ?」
 何故こんなところにいる犬と狼が共に暮らすことがある。狼は数が少なく狼の里から出てこない。
 この雄が何かしら良からぬことを仕掛けたのかと、綜真はつい眦を釣り上げた。すると雄は「違うんだ!」とまた慌てて否定する。
「自ら里を出てきた狼の雄だよ。里に薬を持って帰りたいってさ。ここなら薬だって各地から様々なもんが運ばれてくる。だからここでしばらく暮らしてたんだ。お互い金がねえから、支え合って暮らしたほうが割が良かった」
 里の中にあるものは限られている。足りないものを得るために里から一時的に出てくる者もたまにはいるのだが、随分遠くまでやってきたものだ。
「だから犬との違いもなんとなく分かるんだ。そっちのべっぴんさんはすごく犬っぽいが、狼だろ」
 玻月を狼と言う時は、雄が小声になる。
 発情期に雄とはいえ、狼がこんなところをふらふらしている。しかも見た目は細く、雄らしさが欠けているような狼だ。妙な輩に目を付けられて誘拐されるかも知れない、という配慮くらいは出来るらしい。
「しかも初めての発情期だって?」
「盗み聞きとはたちが悪ぃな」
 大方綜真が筆おろしと言ったのを耳に入れたのだろう。交尾もせずに初めての発情期を乗り越えた、なんて大概の獣は予測しない。
「すまねえ。だがそっちにとっても悪くない話だ」
「何がだ」
「狼の雌の相手をしてくれる狼の雄を探してんだ」
 初めて玻月がちらりと視線を上げた。
「……狼の雌がこの辺りにいるっていうのか」
「里から攫われてきた雌だ。遊郭に入れられるところだったのを、金持ちが道楽で買い取って屋敷に囲ってる」
「胸くその悪ぃ話だな」
 家族の絆が強固である狼を、里から攫ってくるだけでなく遊郭に入れて慰み者にしようとしたのだろう。金持ちがそれを買い取って屋敷に囲っても、結果は同じ。情欲のはけ口にされることに変わりはない。
 舌打ちをするとさすがの雄も耳を寝かせた。
「狼と暮らしてたくせに、おまえはよくそんな話が出来るな」
「囲われた雌は頭の方がもう、な……。俺が知った時には手遅れだ。屋敷には術士がいて、そいつが狼の頭を弄って、半分呆けにしちまったらしい。里のことも分からない、お人形みたいになってんだとよ」
「外道が」
 吐き捨てると雄は苦そうに笑った。
「だが屋敷の主は人間の女だ。遊郭よりましじゃねえか」
 どうだか、と綜真は酒を一気にあおった。狼が屋敷の中で呆けになって人形扱いされているなぞ、矜持に泥を塗られている。玻月の目つきが次第に鋭くなっていた。
「屋敷の主は狼の雌に子どもを産ませようとしてんだ。これまでも雄をあてがったが、どうにも子どもが出来ない。種族が似てても犬じゃ難しいんだってな」
 話を聞きながらも箸を止めなかった玻月が、とうとう手を止めた。そしてじろりと横目で雄を見る。犬は狼の視線を受けてびくっと肩を跳ねさせた。そして身体を小さくしては目をそらす。
「種族を超えると子は成しにくいらしい。だから主は狼の雄を探してんだ。だがそうほいほい転がってるわけがない。俺と一緒に暮らしてた狼の雄もとっくに里に帰ってた。途方に暮れてたんだ」
 そこに玻月がやってきた。
「初めての発情期だが、狼の雌なんてこの辺りにはいない。困ってんじゃないか?」
 発情を持て余していないか。
 雄の不躾な問いかけに玻月が不愉快そうに目を眇めた。
「不自由はしていない」
 雌など相手にしていないので、端っから話にならないのだ。だが綜真が口出しを出来る立場ではない。
「そうは言ってもさ。相手の雌は慣れてる。初めてなら慣れた雌がいい。そっちの旦那だって言ってただろ」
 おべっかを使うように下から見上げてられて、綜真は鼻で笑った。
「それで、てめえはこいつと引き換えにどんな褒美が貰えるんだ?それで俺たちに何の得があるってんだ」
「あんたらは狼の雌が得られるだろ。連れが困ってんだ、助けてあげなよ」
 低姿勢で、雄はひたすら懇願してくる。尻尾と耳を下げた卑屈なその態度に、綜真は空になったとっくりを叩き付けるように卓に置いた。
「借金でもこさえてんのか」
 金の無心をする者には、独特の卑しさと貪欲さがある。どんな矜持をなげうっても構わない、足元にすがりついて泣きわめいても構わない。だが金を懐に入れるまでは引かないという貪欲さがあるのだ。
 図星だったのだろう。雄は初めて目をそらした。
「……相手は金貸しだ」
「そんなところだろうよ。俺たちには関係がねえ」
「お願いだ!このままじゃ俺は首くくる羽目になる!」
「知るか。死ね」
 何故同じ店で隣に座っただけの雄のために玻月を差し出さなければいけない。
 発情期の子のために相手が要るとは思っていたけれど、人形のような扱いをされている狼の元に、玻月を連れていくなんて反吐が出る。
 そもそもそんな扱いをされている狼自体、玻月に見せたいものでもない。
 すげなく断ると雄が悲愴な声を上げる。それも無視していたのだが、沈黙していた玻月が不意に信じがたい言葉を紡いだ。
「その雌が見てみたい」
「おい」
「そうか!そうだろう!よし、よしっ今すぐに行こう!案内してやるよ!あんたならきっと大丈夫だ!狼の雌にだって気に入られるさ!そしたら発情期が終わるまで豪勢な屋敷にいられる!いい暮らしが出来るぞ!連れの旦那も!」
 雄は意気揚々と顔を上げては、さあさあと玻月を急かす。だが食事が終わっていない玻月は完全に雄を視界から外しては、話は済んだとばかりに稲荷寿司を食べている。
「玻月」
 何を考えているのか。
 綜真の聞きたいことは分かっているだろうに、玻月は喋るために口は動かさなかった。
 その双眸は凍り付いていた。