三千世界   六ノ弐




 隙間風が入ってきては頬を撫でる。そのくせ掻い巻きの下は玻月の熱に包まれては、じわりと汗が滲みそうだった。
 擦り寄る足に気が取られていると、玻月がまた唇を塞いでくる。好きにさせていると綜真の口の中に舌が入り込んできた。そしてじゃれるように舌を絡められる。
 ぬるりとしたそれはいつも綜真より熱い。なのに更に体温を高めては綜真の奥にあるものを引きずり出そうとしてくる。
 応じない綜真に焦れたように、玻月が腰をもぞりと動かした。口付けの合間に乱れた呼吸や唾液が混ざる音が聞こえてくる。もどかしげに腰を揺らした玻月に、溜まっているだろう欲情を抜いてやるべきかと、内心溜息をついた。
 放っておくのは哀れだ。だから手くらいは貸してやる。その程度の同情だ。
 玻月の下肢に手を伸ばすと、口付けが止まった。そして間近で玻月が目を合わせてくる。
 涼やかな蒼灰色の瞳は濡れると途端に情欲を色濃く香らせる。常の素っ気ない態度とは真逆の瞳は幾度見ても息を飲む。
 魔物の双眸のようだと思っていると、玻月の瞳孔が広がった。初めて見る玻月の変化に驚愕すると、脳みそがぶるりと震えた。
(な、に)
 視界がぐにゃりと一瞬だけ歪む。頭の中を素手でゆるりと掻き混ぜられたようだった。
 まるでぬるま湯をするりとすくい上げるように、慈しむような手つきで何かが綜真の意識にいとも容易く侵入してきた。
 他者からの干渉を受けないように、いつだって己には防護をかけている。それは無意識であっても継続出来るよう、心臓部に根付いている。源がある限り綜真は他者から、そうして意識を奪われる、支配されるような事態にはならないはずだった。
 そもそもこんな至近距離で術の類が動けば、否応なく綜真の警戒心と源が反発するはずだ。とっさに抗うはずなのに、一切反応が出来なかった。
 唖然としている間にも、玻月の瞳は変化している。欲情ではない別の色が宿っては螢のような燐光が生み出され、綜真はとっさに玻月を引き剥がした。
「っ」
 やや乱暴な扱いになってしまった。玻月は布団の外に放り出されるような形になり、さすがに目を丸くした。それまで閨事に誘っても綜真は口や柔い手つきで玻月を止めるばかりで、こうして投げ出すように粗末に扱ったことがないからだろう。
 明らかに陰った表情にじくりと痛むものがあるけれど、綜真は一端己の目を塞いだ。
「……綜真」
 憂いを含んだ声に呼ばれるが、それを片手で制した。
 瞼を下ろした世界の中は真っ暗であるはずなのに、綜真には玻月の瞳が映っていた。淡く光を帯びたそれが綜真を見詰めては、意識を溶かそうとしてくる。
 必死に呼吸を整えては、己の中にある源を整える。幻覚ではない、強い誘惑をかけられたのだと分かると、別の物事に集中しながら陽の源を体内に循環させた。そうすれば自然と理性は戻る。
「……嫌か」
 微かな、悲愴を押し殺すような声が聞こえて綜真は即座に「待て」と返した。強く言い返したそれに玻月が後ろに下がるような衣擦れが聞こえる。
 狼の里で見た、綜真以外全てを拒絶する姿が脳裏に蘇ってくる。淡々としている普段とはがらりと変わり、寄る辺のない幼子のように泣いていたそれを思い出しては、まだ早いと知りながらも瞼を上げた。
 そこには案の定、涙を堪えた玻月がいる。
 こんな時ばかり、いとけなさが際立った。
 ぺたんと寝てしまった獣の耳に、綜真はついと手を伸ばした。そして頭を撫でてやる。
 それに玻月は瞬きをしては綜真を見上げた。睫毛を濡らしながら、涙がぽろりと落ちる。拒絶される恐れに沈む瞳は、先ほどの燐光を失っている。
(だがまだ月は残っている)
 瞳には源の残滓がある。それは綜真が持つことが出来ないものだ。
「月の子。今宵は満月だったな」
「……月?」
「瞳術持ちだったか」
 狼は月の源を持つ生き物だ。陰の部類の一つ、月の源は狼のようなごく限られた種族が生まれながらに宿しているものだ。後々に体得出来るような源ではない。生まれながらに多種の源を宿していた綜真も、月の源は持っていなかった。
 だから狼の里に赴いては彼らの特性や生業を学んでは、どうにか己のものに出来ないか、月の源そのものでなくとも、何かしらそれらしいものを得られないかと考えていた。
 玻月を連れにしたのも、月の源について調べたかったから。出来ることなら己のものとして体内に吸収出来ないか、そのきっかけを探していた。
 未だにそれは見付け出せていないのだが、玻月は狼としての自覚は薄いながらも月の源を身の内に育て続けていたらしい。
 ましてそれは、術を使うという形ではなく、身体の一部に宿り発動するという形として現れた。
「瞳術?」
「聞いていないのか?狼の中には月の源を瞳に宿し、他者と目を合わせることで相手の意識に入り込んでは、直接そいつを操る術を持つ者がいる。瞳術持ちは大抵血統によって受け継がれている。おまえの母方のばーちゃんが瞳術持ちだってのは聞いていたが」
「知らない」
「里にいる間にそこまで聞かなかったか」
 そもそも玻月は月の源の気配がとても薄かった。狼として育てられていないからか、それとも狼だと知られてはいけないという危機感が、陰の源を隠していたのか。
 それが成獣になり、覆い隠せなくなって溢れ出したのかも知れない。
 里の者もまさか玻月が瞳術持ちになるとは想像していなかっただろう。
「母系遺伝のもんかと思っていた。母方ばかり受け継いでいると聞いていたからな。てっきり出るなら華月の方だと思い込んでいたぜ」
(母親に似てるとは思っていたが、ここまでか)
 屈強で雄らしい雄である父親ではなく、顔立ちも体付きも母親に似ているとは感じていたのだが、まさか瞳術まで似ているとは。狼らしくない様とは逆に、強い本能を持っている。
「この目は、何かおかしいのか……?」
「おまえの瞳は月の源を凝縮したようなものだ。その気になれば源を練る手間も詠唱も必要なく、目を合わせた相手の意識を操る。視線で相手を狂わせることが出来る、その逆もまたしかりだ」
 しかも目を合わせるだけでそれが叶うということは、やられる側にとっては厄介だ。
 目を閉じれば良いのだろうが、聡い瞳術遣いならばまず「目を閉じるな」と暗示をかけてくる。瞳術遣いだと知らず、目を合わせたらもうおしまいだ。それを使われると、防ぐ術はほぼ無い。
(ましてそれは生きている者だけが宿す瞳だ)
 眼窩から眼球をえぐりとっても意味がない。生きている宿主の眼窩にはめられているからこそ意味があるものであり、他者の目に無理矢理はめても使えない。
 本来の持ち主の源と、眼球、二つががっちり結ばれている。なので綜真からしてみれば、喉から手が出るほど欲しいものだが、得ることが出来ない非常に歯がゆい代物だった。
「……これは綜真にとって面白いものか?」
 己の片目を押さえて玻月は尋ねる。
 率直すぎる問いかけに苦いものが込み上げてくる。
「俺が欲しかったものの最上位だ」
 月の源が欲しい。己のものとして身に宿したい。出来るなら術を練る間もなく、意図したその瞬間に相手に干渉が出来るならば、これほど優れたものはない。
 そう思う綜真にとって、瞳術を持つということは喉から手が出るほど欲しいものだ。
 悔しさを込めると玻月は瞬きをしては涙を完全に落とした。そして片目を覆っていた手を下ろしては綜真と視線を合わせる。
 もう月は宿っていない。なのに口元に淡く笑みを浮かべた玻月のあだっぽさに視線を吸い取られたような錯覚を得た。