三千世界   六ノ壱




  真冬にもなると、人里から遠く離れた野道を何日も歩き続けるとさすがに疲弊する。雨風をしのげる場所で休まなければ、身体が凍ってしまう。
 なので自然と街道近くを進む羽目になるのだが。それでも源の気配がする、もしくは綜真の気を引きそうな話があれば多少は街道から外れる。
 その時も偶々耳にした奇っ怪な話に釣られて、綜真は街道から離れて二日ほど歩いていた。だがガセであった。誰ぞが話を大きく盛ったのだろう。
 徒労は珍しくない。むしろ当たりのほうが圧倒的に少ないのだが、それでも真冬の獣道を歩き続けた疲れはある。しかもガセの元である村は貧しく。鄙びた土地には今にも倒れてしまいそうな宿が一つだけしかなかった。
 宿があるだけまし。これだけ寂れていたのならば、宿がない可能性もあった。
 そう己に言い聞かせては、ボロ屋の一間を借りた。
 横になって眠れればそれで良い。
 せんべいより薄い寝床を敷いては、ここに来るまでの間に拾い上げた石を取り出す。そして火の源を体内から呼んだ。握っている石は火の源に温められては、小さな湯たんぽの代替になる。
 五つほど石をぬくめては端布で包む。冬場に寝る時はこの手を使っていた。こうすればどんな寒さであっても、寝付ける程度のぬくもりは得られる。
 すり切れてしまいそうな薄い掻い巻きに、綜真は身に付けていた羽織を脱いでは重ねる。曼荼羅が描かれたそれはこの部屋の中で唯一彩りを帯びていた。
 寝床が出来ると玻月を見やった。すると何も言わずとも寄ってきては、横になった綜真の懐に入ってくる。
 寒さをしのぐには一人より二人が良い。双方旅慣れている、言わずとも自然と寄り添って眠るようになっていた。
 玻月も今は従順だが、旅を始めたばかりの頃は綜真を警戒して近寄っても来なかった。だが綜真が体内の気を操り、玻月を強引に眠りに落として幾度か共に寝てやると、すぐに諦めて一緒に眠るようになった。
 今では一人で放り出してやると、所在なさげに擦り寄ってくるまでに懐いた。
 玻月は綜真の腕の中で、最も安定して眠れる体勢を知っている。
 もぞりと動いては、いつも通りの場所に収まると、深く息を吐いた。弛緩しては、ぴったりと綜真に密着してくる。
 背中に回ってくる手に苦笑した。
 殺されるかも知れない。そう全身の毛を逆立てていた幼さはもうない。
 湯たんぽ代わりにしている石と、玻月の体温が綜真に伝わってくる。互いの身体が同じぬくもりになると、玻月は綜真を見上げた。
 視線が交わると蒼灰色の瞳が細められる。普段は表情が乏しいのに、この時期になると途端に艶やかに色付き始める。
(発情期が近ぇな)
 この厳しい寒さが多少なりとも和らぐ頃には、腕の中にある身体は春の予感に姿を変えることだろう。
 一心に己の心と身体をつがいに捧げては、情を交わそうとする。
 それが獣の本能だ。
 人間である綜真には関わりのないこと。
 しかし玻月はつがいに綜真を求めた。同胞でも、雌でもなく、雄で人間の綜真だ。
 誰も歓迎しない。玻月の本能からも外れている選択を、それでも玻月は大切に守り続けている。
 昨年の発情期に家族や綜真も含めて、里の全ての者に反対されても、玻月は折れなかった。
 そして今年も、こうして綜真を求めようとしてくる。
 受け入れられることではない。綜真は男色の気はなく、抱くならば女が良い。神格相手であっても、雌を選び続けてきた。なので玻月に求められたところで、趣味ではないと突っぱねれば良いだけことだ。
 だがあまりにもひたむきで、幼げであるのに妖艶なその瞳が綜真を絡め取ってくる。
 趣味ではない、と切り捨てられぬほどに玻月は艶やかな狼に育っていた。雄であるにも関わらず、綜真の欲情を巧みに誘う。しかも本人にその意識はないだろう。
 ただつがいになりたい相手の好みを嗅ぎ取っては、その通りに身体を変えていくだけだ。
 狼という、生涯につがいはたった一人と決めている種族の健気さと、執念を感じさせる。
(だからこそ、手が出せねえ)
 この春だけ。
 そんな子供だましが通用するような相手ではない。一度手を出せば、つがいになって良いと言えばそれをずっと信じて追いかけてくるだろう。裏切られたと分かれば、骨すら遺さずに喰い殺すくらいの気概はあるはずだ。
 それが怖いのではない。
 哀れなのだ。
 玻月は視線を外さずにいると唇を寄せてきた。重ねるそれには慣れてしまった。
 間違っているだろう。受け入れるつもりのない思いは、口付けと共に撥ね除けるべきなのに。綜真はいつもそれを止められない。
 玻月が機嫌良さそうに繰り返し、嬉しいと目元をほころばせるのを眺めていたくなる。
 二人きりの旅なのだから、連れの機嫌は良い方が己のためでもある。そう言い訳と分かっていることを重ね続けている。
(泥沼にはまっているのは誰だ)
 どうか玻月が、綜真の嫌な部分に気付いて見切りを付けてくれないだろうか。
 この身は外道、人も神格でもないものに成り果てようとしている化け物。そんなものに情を向けるなど、正気ではない。
 そう玻月は自ら悟ってはくれないだろうか。
(こいつは誰の言葉にも耳を貸さないから)
 自ら気付くしか術がない。
 しかし綜真の願いは空しく、玻月は触れるだけの口付けを数度続けると、足を絡ませてきた。さらりとした少し乾燥していながらも若々しさを保つ艶やかな肌を、綜真の足の間に入れ込ませようとする。
 あきらかに劣情を誘おうとする玻月に、その足を掴んでは動きを止めた。
「里に帰るか?」
「帰らない」
 玻月の声は固い。
 狼ならば、発情期になれば狼の里に戻って己に相応しいつがいを探すべきだ。昨年はそう思って玻月を連れて狼の里に戻った。
 だが玻月は里でつがいを見付けるどころか、綜真が良いと家族に告げては二人で里を逃げ出すようにして、再び旅立った。
 同胞の雌にすら、触られたくないと悲愴な声を上げて身体を縮め、部屋の隅で怯える玻月の姿は痛ましいものだった。
 全身を傷付けられ、痛めつけられ、心を踏みにじられた。
 そんな風に見えた。
 それでも綜真は玻月の発情を迎え入れるには迷いしかなかった。それは性別だけではなく、己の生き方にも逆らうものになる。
 そして玻月の家族や、狼としてのさがに対する裏切りだ。
「雄が男を求めてどうすんだ」
 咎める声に玻月は綜真にしがみつく。
「俺は綜真以外誰も欲しくない。里に戻れば……ち、父が綜真を殺そうとするだろう」
 親元からずっと離れていた玻月は、家族の話や、父や姉、家族の呼び名を口にする時に躊躇う。言いづらくて仕方がないと言うような素振りに、玻月が狼の中で異端であることを思い知る。
「おまえが大事なんだろうよ」
 玻月を連れて里を出る際、炯月は綜真に殺意を抱いていた。大切な息子が、同胞ではなく人間の男を選ぼうとしたのだ。
 里から出たいと切望した玻月を預けた相手ではある。だがつがいになることまで許すつもりは毛頭無かった。玻月をたぶらかした罪人だと、あの目は綜真を殺したがっていた。
 だが玻月がそれを止めたのだ。ぎりぎりのところで炯月は綜真を見逃したけれど、もし少しでも玻月を軽んじれば、炯月の牙が喉元に刺さるところだった。
 そして玻月は父親の殺意を感じ取っていたらしい。
「綜真を殺させはしない」
「別に面を出しただけで殺されやしねえよ。それよりおまえは発情期が来たらどうするつもりだ」
「綜真がいる。気が向いた時に、抱けばいいだろう。男でも雄と交われる」
「そんな情報、どこから仕入れた」
 色事に関して玻月はあまり知識がなかった。紅猿という賊の中で暮らしていた割に、色事に関してはすれていなかった。
 幼い子どもだったこと、頭の女房の近くにいて雄たちから少し離されていたことも関係しているのだろう。なので発情期もろくに一人で対処出来ないものと気を揉んでいた。
 それがいきなり、雄でも交われるとは。どこで聞いてきたか。
「遊郭の鬼が言っていた」
「くそったれが……」
 遊郭の忘八ならば、男色どころか陰間だって飼っているだろう。何より鬼自身が犬の雄と懇ろになったのだから。雄と交わることが出来るかどうかなど愚問だ。
 綜真とて男を抱いたことがないかと言われれば、あると答える。それは突飛なことでもない。
(だが玻月は)
 幼獣はいつの間にか成獣になった。いや、その過程を綜真は最も近くで見ていた。
 がりがりで貧相だった身体が薄いながらも肉を付け、しなやかな体躯になった。狼にしては背が低いけれど、それもまだ伸びるかも知れない。
 出逢った頃は年よりも五つは下に見えるほど育ちが悪かったというのに。今はちゃんと十八、九近くに見える。発情期が来たというのが大きかったのだろう。
 狼らしい、艶やかさと気高さを帯びた立派な成獣になった。
(だが雄臭さがない)
 幼獣だった頃と同じく、玻月は雄の匂いが薄い。母親譲りの繊細そうで優しげな顔立ちのせいか。浮かべる表情は大抵冷淡なのに、顔立ちだけは優麗だ。
(抱けるか?それこそ考えるまでもねえだろ)
 玻月が発情した場合、その下肢に手を伸ばして欲を吐き出す手伝いをしていた。抱けない相手にそんな手間をかけるわけがない。
 だが抱くわけにはいかない。抱けば狼の里を敵に回す。炯月は綜真を憎むだろう。
(違う、そんなことはどうでもいい)
 もっと根深い問題が、目の前に立ち塞がっている。
 それを玻月の眼差しが、ぶち壊そうとしていた。