三千世界   五ノ九




 男は綜真の隣にいる子にふと目を止めたようだった。
「月の子を連れているとは、拐かしですか?」
 おまえもか、という台詞が綜真の喉元まで迫り上がる。
「失礼なこと言うんじゃねえ」
 どいつもこいつも玻月を見ると、綜真が無理矢理連れているのだと勝手に解釈をする。事実は反対に近いものだというのに、誰もそんなことは思わないのだ。
「そうですか。顔を見れば貴方に惚れきっているのは分かっていますがね」
「え」
 男がさして関心もなさそうに言ったことに、明旬だけが驚きの声を漏らした。それに男が片眉を上げる。
「そんなことも分かりませんか?」
「はい……」
「そうでしょうね。本当に、貴方の幼馴染みは何を考えているのか。こんな子をほったらかしにして他の男に走って。可哀相に」
 男は嘆かわしいとばかりに明旬を見て溜息をついている。呆れられていると思ったらしい明旬は耳も尻尾も情けないくらいに垂れ下げている。
 だが綜真の目からしてみればその男の態度すらも、面白がって遊んでいるようなものだ。
「その可哀相な子をどうするつもりだ?」
「私に訊きますか。私は色に溺れさせて殺すくらいしか出来ませんよ」
「まあ、それでもいいんじゃねえか?」
 明旬が望んでいるのならば、好いた男の腕の中で死ぬのもそれはそれで幸せだろう。その場合抱いているのか抱かれているのかは謎だが、死んでも良いから逢いたいと言ったくらいだ。
「何のために一度逃がしたと思っているんですか」
 気に入ったからだ。そして気に入っていたからこそまたこうして逢いに来た。
 ならばその先を求めるのも、致し方のないことだろうに。
 もう求めて来るなと願うのならば袖にして,二度と逢わなければ良いだけのことだった。
 それくらい男だって分かっているだろう。
「俺は……どうしても惚れたんです!殺されてもいい!」
 明旬は男に対して真っ向から告白をした。
 意気込み過ぎて声は大きく、船頭までぎょっとしたような顔を見せたけれど、男もそれは例外ではなかったらしい。
 熱烈な言葉に少しばかり狼狽が窺えた。
「何ということを言うんですか」
「こいつは一途なんだよ」
「思い込みが激しいの間違いでしょう。それでよく生き残っているものです」
「強運だろう」
 身一つで里から出てここまで旅をしてきた中。これほど人が良くて真っ直ぐで素直だったのならば、良からぬ輩に関わればすぐに命を落としていただろう。だが明旬は歪むこともなくここまで生き延びてきた。
 その運の強い雄は緊張し過ぎて今にも泣き出しそうな顔のまま、男を見詰めている。
 男は目を伏せて思案しているようだった。眉根を寄せては難しい表情を表した。それを苦悩だと思ったのか、明旬の双眸には涙が膜が張られていく。
(雄が泣くなよ)
 幾らなんでも答えが出る前に涙を落とすことはないだろうなと、綜真の方がみっともなさに直視出来なくなる。
「……手を出すことは、やぶさかではありません」
 男が折れたのが分かった。
 ここまで純粋に好かれて追いかけられると、鬼も非道もつい心ほだされるらしい。犬の泣き顔には勝てないか。
「殺さずに手を出すってことは、出来るのか?」
「出来ますよ。殺すのは忍びない。こんな死期も穢れもない、輝いてばかりの魂、獲って喰うのは惜しいでしょう」
「そういうのを墜とすのも仕事じゃねえのか?」
「堕とすのは私の仕事ではありません。私の仕事は鬼の監視であって、本来は喰うことは滅多にしません。己を保つのにそう必要なわけでもないのです」
 どうやら男はそういうたちの生き物ではないらしい。
 魂を喰うことは滅多にないと言われて明旬の顔がぱぁと一気に明るくなった。思っていたよりも危ない、恐ろしい者ではないと思ったのだろう。だが鬼の統括、まして魂をあまり喰わない者なんて綜真からしてみればよほど不気味である。
(鬼なんだろうが。高位か、特異か)
 冥府の管轄なのかも知れない。そちら側にはいくらなんでも手が出せない。
 鬱陶しがられてついっと魂を抜かれると、さすがの綜真も足掻くことも出来ずに死ぬだろう。
 遅まきながらに冷や汗が背筋にふつりと沸いてくる。
「しかしね、私は男ですよ」
「分かっています!」
「女も抱いたことがないのに、私でいいんですか」
「貴方だけです!」
 明旬は告白することにどんどん抵抗がなくなってきたらしい。堂々と発言しているその姿に悪くないと言うように男が目を細めた。
「こんなことなら、あの時手を出してしまえば良かった。何のために我慢をしたのか」
「あんたの優しさが見えただろ。それに、こいつが焦らすと燃え上がるたちだってのも分かった」
「なるほど」
 綜真のあまり品の良くない発言に、男は腑に落ちたとばかりに頷いている。これからの二人の関係に何やら良くないものを投げ込んだ気がするけれど、明旬ならば何もかも受け入れるだろう。
 死ぬ覚悟すらしたのだから、これくらい容易いはずだ。
「でも、連れて行きはしませんよ」
「えっ!」
 ほだされてくれた印象だったのに、突然の拒否に明旬が唖然とした。それにまた男が笑う。反応の大きさが楽しくて仕方がないのだろう。
「死にたいんですか?」
「いえ、でも!」
「死んだらつまらないでしょう?私が陸に上がります」
「あんた、そんなこと出来るのか」
 遊郭の主であるはずの忘八が陸に上がって、鬼の統括はどうするつもりなのか。
「ずっと陸にいることは出来ません。この子に逢いにたまに上がるだけですよ。大体遊郭で逢い引きだなんて、客じゃあないんです。私は貴方を客にしないと言ったでしょう。私も売り物ではありません」
「あんたが売り物なら、相当高そうだ」
 魂を獲られるだけでは済まないだろう。
 きっと男は一族郎党奪い尽くしていくような、性質の悪い、業の深い者だろう。
 男は綜真の予想が読めるかのように、微かに頷いている。
「陸にも馴染みはいます。いつだって宿の一つくらい取れます」
 男はそう言うと心を決めたのか諦めたのか、明旬に手を伸ばしては茶色の髪を撫でた。人に撫でられるのが好きな犬はそれにびっくりしたように瞠目しては、顔を真っ赤に染め上げる。
 尻尾が忙しなく左右に揺れているのは隠しようもない。
「御名前は?」
「め、明旬と申します」
「良い御名前だ」
「ありがとうございます……!」
 礼を言った後明旬は口ごもった。何か言いたげに、けれど躊躇しているらしいその様は、訊きたいことが丸分かりだ。
 男もとうに察しは付いているだろうに頭を撫でたまま、教えてやるつもりはないらしい。良い性格をしている。
「あの、ボウハチさんは、あ、これは、駄目な呼び名だとこの前初めて聞きました。すみませんでした。それで、その」
「朱の夜です」
「え?」
「私は、朱の夜で通っています。のを省いて朱夜でも構いません」
 あけや……と明旬は男の名前を呟いてはぎゅっと目を閉じた。きっと心の中で刻みつけていることだろう。
 決して本当の名前ではないそれが、明旬の中で宝になったことは間違いない。
 幸せそうな有様だが、これから生きていくのがとても大変であり、死ぬまで朱夜に振り回されるのは間違いない。
 一度こうと決めた鬼が、そう容易く相手を逃してくれるわけがない。
(ま、あいつがいいならいいんだろうさ)
 人が口を出すことではない。
「……遊ばれてんのかどうなのか」
「さあねぇ」
 船頭はとんだことになったと言うように舟の縁までやってきた。だが朱夜のように陸には上がってこない。それが船頭の線引きなのかも知れない。
「忘八にとっちゃ、あれほど初心なのが珍しくて気に入るもんなのか?」
「分からねえな。こんなことはなかったからな」
 これまでも迷い込んできた者に手を出したり、弄んだりしていたのかと思ったのだが。どうやら明旬が初めてであるらしい。
(これはもしかするともしかするのか?)
 あんな冷たそうな、事実凍えるほど冷酷な決断を下す役割を担っているはずの男が、明旬なんて犬に心惹かれて側に置きたいと思うのか。
 恋がそこにあると言うのか。
「しかし死ぬかも知れないってのに一緒になりたいもんかね」
 船頭は酔狂だと朱夜に懐いている明旬に対して呟いている。きっと船頭には無い感情なのだろう。
 綜真もその船頭の気持ちはよく分かる。自分の命を賭けてでも誰かに逢いたいと求める、そんな妄執にも似た健気さは持ち合わせていない。
 けれど隣にいる子は、その気持ちが分かるとばかりに真剣な眼差しで二人を見詰めていた。まるで羨ましいと言わんばかりだ。
「ここに突っ立ってても寒いだけだ。帰るぞ」
 その視線が自分に向けられるのが、なんとなく恐ろしくなって玻月の背中を押した。玻月はそれに黙って大人しく従う。
 明旬の望みが叶った以上、ここにいる必要はない。黄昏が夜に変わったのでこれから町を旅立つのは遅いので宿に戻る。歩き出した綜真に寄り添う玻月の距離が、いつもよの近いことには気付かないふりをしておいた。