三千世界 五ノ十 宿に戻る前に晩飯としてうどんを食って腹を満たしてやる。温かな飯は玻月の気持ちも落ち着かせたようだ。明旬と朱夜を見た時の、思い詰めたような瞳は薄まっていた。 これでゆったり一晩過ごせば、明日には何事もなかったような顔をするだろう。たとえその胸の内に何を秘めていたとしても、それを露わにはしないはずだ。 (春はまだ来ていない) もう少しだけ、静かなままでいてくれる。 それから先のことは、まだ考えたくなかった。 だが宿に戻り、一息ついたところで妙な音が聞こえてきた。 それは隣の部屋から漏れ届いてくる、騒音だ。 明らかに睦み合っている。これといって大きな声で喘いでいるというわけではないのだが、それでも静寂の中に僅かに混ざる熱っぽい声や、それを煽るような男の言葉も意図せず耳に入り込んでくる。 人の情事など聞きたくはない。無視を決め込み、鬱陶しいと思いながらも煙管を出しては煙を吸い込む。 常ならば玻月など綜真よりもずっと他人に対しては関心がなく、どんな音が聞こえたとしてもそれが己と綜真の危険にならない限りは反応することがない。 けれどその時だけは、何故か隣の薄い壁を見た。 気になるらしいその仕草が、玻月の身にも熱情があるのだと示しているように見えた。他人の情事に、己もまたそのようにして交わりたい思いを持っているのだと、綜真に遠巻きに訴えているようだ。 玻月自身にはそんな当てつけがましい気持ちはないだろうが、後ろめたさがある綜真にとってその様子は何とも居たたまれない。 (くそっ、こんなところでヤってんじゃねえ) ここは連れ込み宿ではないのだ。一応それなりの金を払って便宜を図って貰うように宿の者には伝えてある。人の事情に首を突っ込んでこないところも気に入って、この町の定宿にしているというのに。まさか隣の客に悩まされるとは思って居なかった。 情事に使うのならばもっと質素な、それこそ煎餅布団だけがあるような宿で用を済ませば良いだろうに。 舌打ちをしながら煙草を飲んでいると、ふと聞こえてきた名前にぽろりと煙管を手から落としてしまった。 同時になぜ玻月が隣を気にしたのか、その理由も分かってしまい立ち上がっては礼儀も何も忘れて隣の部屋の襖を開け放つ。 そこには畳の上に着物を脱ぎ散らかした男が二人、一人は唖然とした顔で見ており、もう一人は「おや」と驚きを僅かも見せずに平然と振り返っていた。 「ふざけんなてめえ!出て行け!」 畳の上に転がされていた明旬は綜真が怒鳴り込んできたことに、慌てて身体を起こそうとしたらしい。だが朱夜が腹の上に乗っていては逃げられない。足だけは閉じているけれど、全裸で酷く恥ずかしそうだった。 それを見て朱夜が手近にあった明旬の着物で下肢を隠してやる。だが自身は着流しを乱すこともなく、先ほど見た姿と大差ない様できっちりと纏っている。何事もありませんとしらを切ろうと思えば切れるほど、静かな格好だ。 「金とツテでここにいますから、出て行く筋はありませんよ。貴方たちこそここにお泊まりだったんですか」 「そうだよ!」 何故怒鳴られているのか、しっかり理解しているだろうに朱夜は平然と喋っている。言葉を失って小さくなっている明旬との対比は酷いものだ。 「そんなにうるさかったですか?声はちゃんと殺すように努力しているようでしたが」 ねえ?と明旬に語りかける朱夜の顔は、それはもう蕩けたものだった。綜真たちと別れたのはほんの一刻にも満たないほどだったはずなのに、その間にこれほど情を深められるものか。 もしかすると人目がある場所では己を制して恋情を隠してたのかも知れない。 でなければそんな風に見ている側が目のやり場に困るような表情を浮かべるものか。 「漏れ聞こえてくるんだよ!嫌がらせか!」 「なんですか?嫌がらせになるんですか?煽っている、ではなく?」 朱夜は明旬に向けるものとは違い、にやりと意地の悪そうな笑みを浮かべて綜真の背後を見た。その視線の先にいるのは玻月だ、気配を痛いほどに感じている。 「発情期はまだですか」 「そうだよ!」 「そうですか。私は人と同じで発情期がない分、致そうと思えばいつでも出来る者でして。そもそもつがいであるなら発情期でなくとも応じてくれるのでは?」 「つがいじゃねえんだよ!」 情があれば発情期でなくとも身体を開いてくれる。そんなことは朱夜に言われなくとも知っている。 まして狼ならば思いを寄せた相手に求められることを何より好む生き物だ。触れられるだけでも尻尾を揺らすくらいなのだから、抱きたいと言えば胸に飛び込んでくるだろう。 だがそれはつがいとして結ばれている場合に限る。 少なくとも綜真は玻月をつがいだと認めたことはない。 「おやまあ、奇異な」 「奇異なことがあるか!こっちにも都合がある!」 「ですが、そちらは応じるつもりのようですよ」 朱夜はそう言っては近寄ってくる。玻月がどんな顔をして、応じるつもりであると朱夜に言われているのは分からない。正直知りたくない。 もし泣き出しそうな表情をしていた場合、必要ではない罪悪感という、自身には似合わない感情が沸き上がってきそうだ。 「逃げられませんよ。まして月の子でしょう」 嘲るような朱夜に綜真は一歩だけ後ろに下がる。まさか自分が怖じ気づくなんことがあるとは、これまであまり体験したことがない。 悔しさと苛立ちを覚えるが、睨み付けても朱夜は何とも思ってはいないことだろう。 「どうであれ、人の都合には構っている余裕はありませんので。では」 ぴしゃんと朱夜は綜真の目の前で襖を勢いよく閉じた。一切入ってくるなと拒絶を滲ませる襖の前で綜真は言葉を失って立ち尽くす。後ろにいる子もはやり口を開くことないようで、沈黙の中で頭を抱えた。 了 |