三千世界   五ノ八




 この世の者ではない相手を見付けるのならば黄昏時に限る。明旬が遊郭の女に出会ったのも、夕闇にこの世が覆われる時刻だ。
 昼でも夜でもない、曖昧で境界線を全て取り払ったようなその時刻は、同時に何もかも一つに丸め込んで飲み込むだけの危うさがある。
 だが綜真はその危うさが好きだった。
 明瞭な線引きをされた世界よりも、何もかも雑多に溶け合って分かりづらい、混沌とした世界の方が面白いではないか。剣呑で、豪快で、何より剥き出しの本能と感情がぶつかり合っている。
 波止場の黄昏は海という水物の近くということで、黄昏が一層深い。油断している と足下に何かが絡み付きそうな不気味な雰囲気がある。生き生きと日々を生きている者にとってはただ視界が悪いだけの場だろうが、そうでないものにとってみれば油断していると海に誘われて溺れ死ぬことだってあるだろう。
 誘惑をしているような波の音を聞きつつ海を眺めていると、その船頭はすぐに見付かった。
 つまらなそうに海を眺めている男。魂を喰われる者を連れてくる女を待っているのだろうか。
 明旬が乗ったと思われる船は話に聞いていた通り随分小さく、四人も乗ったら満杯になるだろう。こんな脆弱な船で海にこぎ出せばあっという間に飲み込まれて藻屑になり果てそうだ。
「なあ」
 船頭に声をかけるけれど、こちらを振り返りもしない。
 陸にいる者など己には関係ないと言うように背中を向けて拒絶している。
 その理由が分かるだけに、苦笑してしまった。
「悪ぃな、見えてんだ」
 そう言ってようやく船頭は綜真を見た。そこには少なからず驚きがある。
「おや、そんな死にそうもない顔してか」
「珍しいだろう」
 船頭はあの世とこの世を行き来する渡し船の一種だ。快活に生きている者には決して見えはしない、揺らいだ存在である。
 それが綜真のように生命力に溢れている人間に見付かって、目を丸くしていた。そしてじろじろとこちらを見ては首を傾げる。
「おかしな身体してんなぁ、旦那」
「そうよ」
 人間の身体だというのに源を幾つも持っており、年老いることを止めて時間から切り離されている。自然の流れに抗うだけの力を宿しているこの肉体は、魂を見ることが出来る鬼にしてみれば奇異な者だろう。
「隣にいるのは月の子か。なんてもん連れてんだ」
 船頭は玻月を見ては呆れたと言わんばかりの顔をする。鬼はどうも月の子は苦手であるらしい。闇に紛れることが出来る性質の者は、それを見破ることが出来る月の源は好きではないのだろう。
 現に玻月は本来見えないはずの船頭をしっかと見据えている。
「相性が良くねえや」
 船頭は頭を掻いてはどうにも落ち着かないようだった。こうも真っ直ぐ見られることはに慣れてないのだろう。
(おそらく船頭はいつもここにいた。だが明旬は探し出せなかったんだ)
 幼馴染みの雌がすでにつがいを持っていた上に己に気など全くなかったと知って、死にたい気持ちになっていた明旬ならばともかく。男に魅入られて逢おうと決意を固めてしまった明旬は生きる意欲に溢れている。それでは、生死の境目にいる者を目に映すことは出来ない。
「なあ、一月ほど前に間違って犬の雄をここに乗せただろう。茶色の気弱そうな雄だ。アンタんトコの鬼に誘われて、間違って乗った」
 鬼の船に間違えて乗る犬が頻繁にいるとも思えない。船頭は予想通りすぐに「ああ」と思い至ったらしい。
「ああ、いたな」
「忘八が帰してくれたやつだ」
「あんまりにも可愛いからそのまま帰したって言ってたな。あんな様じゃ気の毒過ぎて喰うことも出来ねえってさ。忘八がそんなこと言うくらいだ、相当初心だったんだろうな」
 船頭が面白そうに語ることに、綜真は何ともむず痒いような気持ちになる。
(可愛いだとよ)
 明旬が一方的にどっぷり墜ちたのかと思ったが、そうでもないのかも知れないと思う。
 何やら馬鹿馬鹿しいことに巻き込まれた気がする。
「それがな、犬がその男に惚れきったらしい」
 綜真がそう言うと船頭はぶっと吹き出した。そしてにやにやと口元を緩めてから顎を摩る。
「奥手な奴ほど性悪に引っかかって身持ち崩すもんだが、ありゃ相当の悪だぞ」
「それが見抜けねえんだよ」
 遊郭の主だ、まして鬼だと言われているのにそれでも覚めずにいる。術でもかけられているのならばまだ救いようもあるだろうが、明旬はまともである分手の施しようがない。
「死ぬぞって言ってやってんのに一目逢いたいってな。向こうじゃ女がごろごろいるんだろ。そんなに忘八ってのは面が綺麗なのか?」
「ああ、まあべっぴんってのは間違いない。だが女たちよりおっかないぜ」
「そりゃそうだ」
 女たちをまとめているのが男なのだから。恐ろしい存在でなければ鬼などまとめられるものか。だからこそ明旬は命知らずの愚か者なのだ。
「逢わせてやりてえのかい?」
「死んでも逢いに行くって言ってんだ」
「骨抜きか。よくやるぜ」
 男を知っているだろう船頭は明旬の思いを気が知れないと肩をすくめる。
「駄目なら駄目、会いたくねえって文の一つでもやったら、多少は目も覚める。間違いから始まったことなんだ、なんとか情けの一つでもかけてやってくれ」
 ここまで言ってやる義理はないのだが、と思いながら綜真は船頭にかけあった。出来るならばここに男が来てくれて、姿を見られるのが面白い。だがそこまで応じてくれるかどうかは謎だ。
 せめて文があればそこから男の気配も感じられるだろう。どういう類の鬼なのか、どれほどの源があるのか。それくらいも辿れるはずだ。
 ここまで来て何も分かりませんでした、という徒労だけは避けたい。
「言うだけは言うがな」
 船頭はすっきりしない態度だった。
 男が明旬のことを覚えているかどうかも分からない状態だ。よほど気に入って居るのならば記憶に引っかかっているだろうが。その場限りの好意であったのらばとうに忘却の彼方。今更何を言われたところで指先すら動かしてはくれないかも知れない。
(どう転がるか)



 翌日、やはり黄昏時に波止場に明旬と共に立っていた。あの舟がとまっていたと思われる場所で来るかどうかも分からない船頭を待つ。
 願った次の日にわざわざ船頭が答えを持って来てくれるほど律儀かどうかは分からない。だが一応頼んだ以上何日かは船頭を待つべきだろう。
 黄昏時だけと限定していればさして時間も取られない。
(何日続けるか、だな)
 明旬の心を奪った男には多少興味はあるけれど、何日も無駄にするほど好奇心を掻き立てられたわけではない。せいぜい三日付き合うかどうかだろう。
「来るぞ」
 さていつ来るだろうかと思っていると、玻月が頭の上に付いている耳を前方に向けてそう呟いた。
 海を睨み付けている。
 綜真の目も耳も、体感も何の異変も感じていない。黄昏時の闇に包まれて海が凪いでいるかどうかすら分からない。波音だけを聞いていたのだが、玻月には目的のものが来たと察知出来たのだろう。
 玻月は異変に敏感である上に月の源を持っており、まやかしの類は通用しない。ただの人には見抜けないだろう舟も、この子の目にとってみれば容易く発見出来るのだろう。
(生まれつきってのはやはり違うもんだな)
 綜真がじっと目を凝らして海へと意識を集中してもぼんやりと見えるかどうか、というおぼろげな影を玻月は見詰めている。
 生まれた時から月を宿していた子の方が己より優れているのだと思うと、やはり月の源が欲しくなる。
「来るのか?」
 明旬など舟があるかどうかもさっぱり分からないだろう。だが耳と尻尾をぴんっと立てて海に目をやっている。期待が溢れているのが端から見ていて明らかだ。
 舟はゆっくりと波止場に近付いてきた。どうやら陸に止まると明旬にも舟が見えるらしい、息を呑んでそこにいる者を凝視している。
 舟には船頭以外に一人男が乗っていた。黒い着流しに艶やかな黒髪は長く、後ろで一つに結んでいるようだった。切れ長の瞳は深い赤で、明旬が語っていた男の特徴そのままだ。
(確かにべっぴんだ)
 しかし冷ややかな顔立ちであり、性格のきつさが窺える。形の良い唇からは人を凍り付かせるような言葉たちが生み出されてくるのではないだろうか。
 細身の体躯と物腰は大変理知的なのだが、その分どことなく情の薄そうな男に見えるのだが。これが明旬に情けをかけて逃がしてやった鬼だというのか。
(思ってたのとちょっと違うな)
 そう腕を組んで傍観していると、明旬が隣で顔を赤く染めていた。男を見ただけで緊張する上に羞恥が沸いてくるらしい。
 どれほど奥手て初心なのか。思わず呆れていると男が舟から下りてきては明旬の前まで悠然と歩いてくる。
 そして明旬と目が合うとくすりと笑った。
 そうすると途端に雰囲気は随分和らぎ、冷たさが薄まっていく。
「私にお会いしたいそうですね」
 声音までひんやりとしている。耳から入ってきては内臓を冷やそうとしているような声だというのに、明旬は頬を更に染めてはこくこくと何度も頷いている。
「どうしても、もう一度貴方にお逢いしたくて!」
「何故ですか?わざわざ術師にまで頼んで。私が何者なのかはもうご存じでしょう?」
 ちらりと綜真を見て来た男の目はこちらの力量を見極めるような,値踏みする視線に近い。そしてその結果綜真が己の正体を掴んでいることまで、理解したのだろう。
「分かっています」
「死にたいのですか?」
 ずばりそのものを男に言われ明旬はさすがに頭が冷えたのか、羞恥を消しては「違います」と力強く否定する。
「死にたいわけじゃありません。でも、貴方のことが忘れられなくて、どうしても逢いたくて」
「どうかしてますよ。ちょっとちょっかいを出しただけでのぼせ上がって、何を勘違いしたのか」
 溜息と共に吐き出された台詞はとても冷淡なものだった。
 明旬は表情を凍り付かせて絶句している。思いを寄せていた相手から、手酷く突き放されてしまったのだ、相当な衝撃だろう。
 期待するなと言い聞かせたけれど思い人に再会出来て浮き足立たない者はいない。きっと明旬の中には熱情が渦を巻いていただろうに、それを一瞬で止めるような一言だった。
 しかし絶望を張り付かせて硬直した明旬を見て、男は意外にも嗜虐的な色を滲ませることなく、むしろ穏やかに笑った。
「そうして少し突いただけで赤くなったり青くなったり。それでは疲れませんか?」
 からかっただけなのだ。
 面白がって冷淡にあしらっただけ、明旬の反応が見たかっただけなのだろう。
 だが明旬はそんな男の駆け引きが分からないようで、まだ傷付いた顔で不安そうに男を見ている。まるで捨てられた子犬のようだ。
「里から出てきたばかりですれてねえんだよ」
「貴方みたいな知り合いがいるのに、ですか?」
 男は明旬を眺めて機嫌良さそうに微笑みを浮かべたまま、綜真の底を計ろうとする。術師として変わった人間であること、宿している源が奇妙なこと、そして見るからに性格は良ろしくなく癖があることも分かるだろう。
 明旬とはあまり共通するところのない種類の人間だということは自覚している。
「生憎、こいつとはそんなに関わりは深くねえ」
「そうでしょうね」
 男は実に納得出来るというように頷いている。その顔を刺さりそうな視線で見ている明旬のことは気が付いているだろうに、涼しい様子だ。
 わざわざここまで来てくれたことは、明旬のことは忘れずに覚えていた上に気にもなっていたようだが。果たしてどんな答えを突き付けるのか、この時点ではまだ分からなかった。