三千世界 五ノ七 「その相手に逢いたいってんじゃねえだろうな」 明旬の話を聞き終えた時には、鍋は締めの雑炊まで食い終わっていた。 目の前で犬が次々と酒を飲んで自棄になっていくのを眺めながら、綜真は酒もそこそこに鍋の中に鶏肉を放り込んでいたものだ。玻月は肉ならば鶏を好んでいる節がある。玻月自身から聞いたことはないのだが、箸の進み方を見ると察しが付く。 肉付きをよくしてやらなければ、いつまで経っても出会う者の大半に子どもを拐かしたと勘違いをされる。 玻月は綜真の監視の下、腹がいっぱいになったのだろう。大人しく席に座ったまま小さくあくびをした。満腹になって眠気が多少出たらしい。 明旬の話に最初から毛ほども興味がないのは分かっていたので、その反応も頷ける。 「綜真お願いだよ!探してくれないか!?あれから波止場で船頭を探してもいないし!誰に訊いてもそんな遊郭も船頭も知らないって言うんだ!」 明旬は赤くなった顔で懇願してくる。机に手を突いて頭を下げられるけれど、綜真はそれに心がさして動くこともなく。動いたのは騒音にやや気分を害したらしい玻月の耳だけだ。 「狐に化かされたんだろうなんて言われたけど、あれは狐じゃなかった!人間みたいだったけど人間でもなくて!だから術師かと思ったんだよ!綜真なら術師だから何か分からない?」 「分かることは分かるがな」 明旬の話を聞いて、綜真は明旬に何があったのか大体把握することは出来た。だがそれを明旬が知ることが、果たして良いことなのか。 ただこの雄の夢を壊すだけではないだろうか。 (まあそれもいいか) 無駄に夢を抱いて綜真に纏わり付いてこられるよりも、いっそ現実に打ちのめされれば目も覚める。 厄介事も持って来なくなるか。そんな冷めた思考だけが浮き上がってきた。 「おまえ、そりゃ死にかけてたんだぜ」 「……え?」 綜真が思った通り、明旬な間抜けな顔をして固まった。 「おまえが行ったのはあの世の入り口だってことだ。船に乗せられて遊郭に行っただけだなんて思っているみてえだが。魂喰われに行ったようなもんだ」 頼りない小舟であの荒波の海を越えてどこかに辿り着く、しかもその先は波止場からは見えなかった。口を開けるほど高くそびえ立っている遊郭が小舟で辿り着ける位置にあるのならば波止場から見えないわけがないのだ。 まして黄昏時に海に出て、一寸先も見えない闇に包まれるだなんて。現世から切り離された時の感覚に酷似している。昼と夜の隙間の黄昏時に海というこの世とあの世の境目の場所になど気軽に出て行くものではない。 まして遊郭だ。身体を繋いで相手の体内にまで入り込むことが出来る。内側を握り、魂に触れるには十分過ぎる接触ではないか。 「おそらく死ぬ予定の誰かがそこにいたんだろう。それが何の因果か、別の誰かに引っ張られて行って喰われたのか、迎えに行った女と出会えなかった。女は手ぶらで帰れば自分の腹がくちくならねえ。だから代わりに死にそうな顔をしていたおまえを引っかけたんだ」 「くちくならないって」 「そりゃあ、女が鬼の類だからだ」 「鬼!」 明旬は腰を浮かせるほどに驚いたようだった。 遊郭で出逢った男のことは人間らしくないとは思ったようだが、女まで人から離れた者だとは思っていなかったのかも知れない。だとすれば随分暢気なものだ。 「命喰ってる鬼だ。だが手当たり次第じゃねえ。決められた相手だけ取って喰ってるようだから、統制の取れた、冥府に関わりのある鬼かなんかだろ」 もし無頼の鬼ならば約束をしている相手がいるだの何だのと言うこともなく、強引に明旬を獲って喰っていたはずだ。 そもそも遊郭に連れて行く手間もかけないかも知れない。暗がりに連れ込めば目的は果たせるのだから。 それがわざわざ約束をして、その相手を迎えに行って遊郭でもてなし、身体を使って魂を捕まえて喰うのだから、手順も時間もかけられた丁寧な仕業だ。 明旬は自分が殺されそうになっていたということ、そしてあの遊郭が死に場所としての面を持っていたということに、酔っ払っていた顔を青くした。 「いいじゃねえか。女抱いて気持ち悦くなったまんま死ねるんだぜ。恵まれた最期だ。極悪人じゃそうはいかねえ」 快楽に浸って眠るように死ぬなんて、人生の終わりとしてはなかなかに良いものではないだろうか。安寧を求めるような雄ならば幸福な最期だとすら思うかも知れない。 「そういう死に方が出来るのは魂の出来が良い奴だけだ。おまえはそれに選ばれるだけの神格だった。だがな、やはり予定じゃなかったのさ」 どれだけ魂の出来が良くて、女にとって明旬が美味そうな相手であっても。やはり予定ではない、死ぬことを約束されていない相手というのはその遊郭では認められないものだったのだろう。 「女は構わなかったが、冥府と繋がっていると思われるその遊郭にとっちゃ問題だった。だから忘八はおまえを放ってはおけなかった」 「俺は、ボウハチさんに助けられたってことか……」 女が構わないと強く言い放ったのに、男は一切それを受け入れなかった。その理由は自分が死んでしまうからだと気が付いて、明旬は何かを噛み締めているようだった。 しかし綜真としてはその呼び方が気になった。 「勘違いをしているようだが、ボウハチってのは名前じゃねえぞ。仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八徳を失った者の名前だ。遊郭の主の別称だな」 どうも親しみか何かを込めて忘八と呼んでいる節があったので、そう教えてやると明旬は目を丸くした。やはり何も分かっていなかったのだろう。 綜真が語った言葉を理解してはすぐに肩を落とした。 「それってあんまりいい呼び方じゃないよな。俺失礼なことしてたのかな?」 「向こうさんにとっちゃ慣れたもんで何も思ってやしねえだろうがな」 そもそも忘八と呼ばれて傷付くような者が遊郭の主になどなっているものか。その上鬼であるならば鼻で笑ってくれることだろう。 「でも俺、助けられたのに……」 「助けられたのに手出されてんのか」 後ろには突っ込まれていないようだが、それでも身体を遊ばれたことは間違いない。明旬自身に不快感はない、それどころか真逆であるらしいが。 「それでも俺は生きてるから。死んでないし、ここにいる」 「まあ、そりゃそうだが。死ぬ予定じゃなかったんだ、哀れをかけられたんだろうぜ」 しかし哀れをかけるだけならば何も手を出すことはなかった。部屋に連れて行って朝になるまで寝かせれば良かった、いや遊郭の主ともなればそこの鬼の元締めだろう。夜の間でも海に出て帰そうと思えば無事に帰せたのではないか。 夜の闇に魅入られて、明旬を獲って喰らうなんて浅慮もないはずだ。 (気に入られたってことか?) 一晩だけでも傍らに置きたいと思ってしまったのだろうか。 その小さな執着が明旬にも移った可能性はある。 生き物は思いを向けられると感情が引っ張られてしまうものだ。 「その哀れみを無下にするように、また逢いたいってのか?」 「……逢ったら死ぬ?」 「死ぬって決まったわけじゃねえ。その忘八がどういうたちか、抱いたら抱かれた死ぬような鬼だったなら、逢いに行くのは死に行くようなもんだが」 せっかく見逃してくれたってのに、と付け足すと明旬は青い顔のまま黙り込んだ。 神妙な顔つきはなかなか見られるものではない。それだけ真剣に悩んでいるのだろう。 「死ぬ、かな」 「向こうさんの気分次第だ」 「でも俺は逢いたい」 思ったよりはっきりとした答えだった。腹をくくってしまったのだろうと、綜真を見た視線の強さから分かる。 怖いくせに怯えがあるくせに、何故かここから一歩も引かないという意思ばかり感じる。 「正気か。諦めろよ」 「そうしたいけど、でも、ずっとそればっかり頭にあるんだ」 ぎこちなく笑った明旬は、後ろなどもう何もないと言わんばかりだ。気持ちはもう忘八に向かって歩き出しているようだった。 半刻ほど前に出会った時は少し気弱そうで穏和なだけの犬に見えたのに、今はしっかり背筋が伸びている。 たったこれだけの時間で成獣らしさが滲み出すのだから、恋情というものは人も神格も大きく変える。 「筆卸もして貰ってねえ男にそこまで入れあげるか」 「綜真!」 童貞であることを気にしているらしい明旬が筆卸という言葉に慌てた。青ざめた顔にも多少色が戻って来たようだ。 「止めた方がいいと思うんだがなぁ」 成獣の顔は見ていると愉快だ。笑ってそう言うと明旬は綜真が気を良くしたことを敏感に悟ったらしい。身を乗り出してきた。 「見付けられるか?」 「おまえが女に会ったって場所をずっと張ってりゃ、その内見付けることくらい出来るだろ。女か、船頭か」 「一目だけでもいい!もう一度逢いたいんだ!!」 辺りも気にせず明旬は大きな声で頼み込んでくる。その必死さに綜真も、忘八と呼ばれている男が気になった。 それほど綺麗な顔と気性の男なのか。蠱惑の源でも持っている鬼なのかも知れない。 (どんなもんか見てみたい) 鬼というだけならばさして珍しくもないのだが。性交によって魂を喰う専門の鬼だ、どれも見目は美麗であることだろう。 野次馬根性がちらりと目を開けた。 「取り憑かれてるみてえだな」 「そうかも知れない」 「里にも帰らずに男の尻追っかけてるなんぞ、灯成が利いたら呆れるだろうぜ」 同じ里の犬の名前を出すと、明旬は恥じるどころか嬉しそうに笑った。 「それでもいいよ」 恥などよりずっと大事なものを抱えているらしい。それを見て綜真は止めるのを諦めた。 ここまで心奪われてしまえばもう誰が何を言ったところで通じることはない。それをよく知っていた。 次 |