三千世界   五ノ六




 ぐちゅぐちゅと卑猥な水音が聞こえる。だが明旬はそんなことも構わず、男の手から与えられる快楽を追っていた。
 座ったまま、男の手に足を開かれ茎を扱かれては自ら身体をすり寄せる。これがいけないことだなんて意識はすでにない。一度吐精しており、その際頭の中には快楽に従うことだけ叩き込まれている。
 男にされるまま、自身をゆだねてしまえばこれまで味わったことのない刺激に溺れることが出来る。そう知ってしまった身体は貪欲に男の手を求めていた。
 時には腰を揺らしてもっととねだるのだが、男はそれに笑ってはあえて焦らすように手つきを緩慢にする。それがもどかしくて、すがりつくと気まぐれに愛撫を施される。その緩急が明旬の意識を犯していく。
「っ……んん、っんぅ」
 男は何かと明旬の口を塞がりたがった。
 明旬は初めての刺激に翻弄されて呼吸もままならず、唇を奪われれば息が苦しくてもがいてしまう。男はそれに気が付いて少しは止めてくれるのだが、すぐにまた口付けてくる。
 口付けが好きなのかも知れない。
「ふっ、んん、ああぁ…!」
 絶頂に達する。
 それが男には分かるのか。精を吐き出してしまう時だけは、口を離してくれる。そして手つきを荒くしては明旬を追い詰めてくれるのだ。精を出すことは気持ちが悦いけれど、己の浅ましい声が響き渡るのは居たたまれない。こんな時こそ口を塞いで欲しいと思うのに、男はそれを許してくれない。
 腰を震わせて最後の一滴まで絞り出されると、男の手がようやく離れた。
 いつの間にか手元に引き寄せていた懐紙で手を拭っている。どうやらこれで終わりらしい。
 男の目は機嫌が良さそうに和らいでいるけれど、欲情らしきものはない。こんなことをしていても男は興奮したりしないのか。
(俺が変な声上げてるだけで。気持ち悪いと思わないだけ有り難いのか)
「気持ち悦いですか?」
「はい……」
「心も、身体も従順な子だ。犬だからですか?」
 身体もと言われて肌がまた熱を帯びる。これほど浅ましい姿を晒してしまえば、もう言い訳も何も出来たものではない。けれど指摘されるのはやはり羞恥を掻き立てられる。
「そんなの分かりません……こんなの」
「初めてだから?」
 他者の手を与えられるのは初めてということを、男はやけに気に入っているようだった。遊郭に居る者にとって、この年だというのに何も知らない雄というのは面白いものなのかも知れない。
「……あの」
 男はこれ以上続けるつもりはないようで、明旬の肩に単衣を掛けてくれる。離れていこうとする男が名残惜しくて、つい手を伸ばしそうになった。
「朝になったら送ってあげましょう」
 男はそう言っては煙草盆の傍らに座り直した。煙管を取るその手はもうすでに涼しげで明旬の熱狂など知らぬと言わんばかりだ。
「俺、お金とか……」
 ボウハチに快楽を与えられた。女ではなく男同士ならば手淫が交わりに値するだけの行為なのかも知れない。
 ならば遊女に払うべき金を、男にも支払わなければいけないのではないか。
 どれほどの金額なのかは分からないが、腹をくくってそう言い出すと男は煙管を摘んで苦笑した。
「いりませんよ。言ったでしょう」
「でも」
「何も貰えません」
 それは温情なのか、それともこの程度のことで金を貰うというのは遊郭としては矜持に関わることなのか。明旬には分からない。
 ただ金もいらないと言っている男の横顔を見詰めた。せめて金でも支払えることが出来れば、この男と繋がれたような気になるのに。与えられるだけ与えられて、何も取られていかないというのはどうにも、寂しい気がした。
 煙を吐き出すその艶めいた表情に、腹の奥が疼く。まだ触れ欲しいと願う身体を心の中で叱責した。
(俺は、どこまで)
 この男の手をどれほど気に入ってしまったのか。
「……そんなに気になるなら、一晩湯たんぽになって下さい」
 唇を噛んでふがいなさに耐えていると、よほど情けなく見えたのか男がそう言った。
「湯たんぽ?」
「私は寒がりなんですよ」
 そう笑って言うと男はカンッと煙草盆に煙管の首を当てては灰を捨てる。そして敷かれたまま乱れもしていなかった布団の上に明旬の手を引いて転がす。
「添い寝をしてくれるだけで構いません。それでおあいこです」
 布団をめくっては明旬を中に引き込んで、男は慣れたように明旬を抱き込んだ。煙草の香りに包まれて硬直する。
 抱き込まれると分かるが、男は己とさして変わらない体躯をしているようだった。思ったよりも堅い筋肉が付いている。見た目は細く、ぱっと見たところ女人とすら思われるような姿だと思ったのに。触れるとやはり立派な男だ。
 赤い瞳は間近で視線が絡むとにぃと細められた。
(猫みたいだ)
「お眠りなさい。いい子だから」
 幼子のようにそう諭される。だが脈打つ心臓の早さと頬の熱さのせいで、とてもではないが眠れるとは思えない。
 なのに男の手に目元を覆われまぶたを下ろしてしまうと、その後の記憶はぷっつりと途切れてしまった。



 心地良いまどろみに浸りながら、目覚めようとしている意識を沈めていた。あまりにも眠りが気持ち良かったのだ。
 ずっとこのまま眠っていたい。とろとろにとろけるような睡魔はあまりにも魅力的で、明旬の覚醒を阻み続ける。
 だがきゃらきゃらと笑う女の声が遠くから聞こえてきて、はっと目を開けた。
 己が暮らしている生活の中で、若い女の、しかも複数居るらしい彼女たちの笑い声が聞こえてくることはなかった。旅の途中寝床にするのは安宿で雄ばかりのむさ苦しい、そして狭い部屋ばかりだったからだ。女が寝泊まり出来るような宿は高くて、なかなか泊まる気にはなれなかったからだ。
 なのに女の声が幾つもある。その上ふわりと甘い香りが漂って来ては、一体己はどこにいるのかという不安にかられた。
「あっ…!」
 目を開けると男が覗き込んできていた。昨夜己を乱してくれた赤い双眸がどこか憂いを宿しては明旬を見下ろしていた。
「お早いことで」
 慌てて起きると男もどうやら起きたばかりであるらしい。胸元が少しばかり崩れた単衣を直すこともせずに布団の上に座っている。髪は一つに結われており、昨夜解かずにいたのか、それとも目覚めたから結い直したのか。下ろした姿も見たかったのに、という僅かな欲が明旬の中を過ぎった。
 早いとは言われたけれど、窓から差し込んできている光の角度は高い。
「あの……もう、日が昇ってかなり経ってます?」
「そうですね。ですが遊郭の朝は遅いものですよ。夜が長いもので」
(それは、そうか……)
 夜が遅いと言われて、なんとなく気まずく思う。きっと客は夜中まで遊女を抱いていて、寝るのはどうせ朝方近くなってから、というのだろう。
 ここではそれが当たり前であり、朝早くから働き出す者なんてきっといないのだ。
 益々己の生活とは合わないところだ。
「惜しいですね」
 男は不意にそんなことを言ったかと思うと、明旬の乱れた髪を手で梳いてくれる。細い指が髪を撫でる度にぞわぞわとしたものが背筋を走った。
 昨夜から男に触れられる度に、身体が奇妙な反応をするようになってしまった。まるで体内を支配されてしまったみたいだ。
「本当に、惜しい……」
「あの、何が」
「朝餉を持って来させましょう。その後ここから返して差し上げます」
 明旬の問いに答えない男は、ここでお別れだと言っているように感じた。
 もう二度と逢うこともないだろうと決別を渡された気がして、思わず男の手を取った。
「俺、もう一度!」
「いいえ、来ない方がいい。貴方はここに来るような御方じゃない」
「確かに俺は金もなくて、女も知らなくて!」
 遊郭に来られるような身分ではない。けれどどうにか金を貯めて、もう一度この男に逢いたい。ここから出れば二度と逢えないなんて、そんなことを認められそうもなかった。
「そうじゃない。私が言っているのはそういうことではないんですよ」
 すがりつこうとする明旬に苦そうに告げた。
 冷たくしてくれれば、鬱陶しそうに振り払ってくれれば、きっとこの心も萎縮しただろうに。男がそんな風に優しげに見詰めるせいで心は一層傾いてしまう。
「俺は!」
「忘れなさい」
 それ以上は言うな。
 男はそう明旬の唇を人差し指で塞いだ。昨夜のように唇で塞いでくれないことに寂しさがあったけれど、それよりも痛ましそうにものを見るような男の眼差しに射貫かれる。
(こんなことをされて、そんな風に見てくれるのに、忘れろだなんて)
 なんて無体なことを言うのだろう。
 だがボウハチは静かに立ち上がると、それっきり姿を見せなくなった。
 明旬の元に朝餉を持って来たのも、遊郭から送り出したのも禿である。小さな女の子に何を尋ねても答えてはくれず、余計な口は利くなと禁じられているとだけ教えてくれた。
 ここに来た時と同じ、頼りない小舟に乗せられて海を行く。今日は靄が出ているらしく視界が悪い。辺りは真っ白であり、右も左もろくに分からないのだが、やはり昨夜と同じ船頭は迷いもせずにこぎ出した。
 この人はあの波止場の方向が分かるのだろうか。
 だが無事に帰れるかどうかもどうでも良いことだった。あの遊郭の中にいる男が気になって、離れがたくて仕方がなかったのだ。
「そんな顔して、魂取られたみたいですよ」
 船頭はよほど酷い顔をしていたらしい明旬にそう話しかける。
「そうかも知れません。もう二度と来るなと言われたのに、俺は」
 今にも戻りたい。
 あの男に逢いたい。
 だが船頭はそれに唸った。
「諦めた方が身のためだ」
「分かっています」
 あの男に懸想したところで叶うわけもない。遊郭の中にいる、おそらく主であろうあんな美しい男を好きになったところで、思いが叶うはずはないのだ。
 けれど事実を言われてすぐに納得し、心を制することが出来る生き物がこの世にどれだけいるのだろうか。
 少なくとも、己には無理だった。