三千世界   五ノ五




 許嫁と勘違いしていた雌に逃げられ、当然と思われていた嫁取りも出来ずに里に戻ればただの恥さらし。行き場がなくなって途方に暮れている明旬の前で、男は徳利をまた一つ空にした。
 明旬が喋っている間にも一つ空にしており、飲むのが随分と早い。なのに本人は頬を染めることもなく、酔った気配が一切なかった。
「それで、女を抱いて憂さ晴らしをしようと?」
「いえ……正直俺にそんなことが出来るとは思えなくて。ただあの人が綺麗で飯が食えると言われたから。そりゃ下心がなかったかと訊かれると困りますが、そんな度胸が……」
 抱きたいか抱きたくないかと言われると言葉に詰まるのだ。
 あの女に付いてきた時点で色事があるかも知れないとは分かりきっている。期待もほのかにしていただろう。だがいざ手を出せと言われると、きっと動けなくなっていた気がする。
 そういうことは慣れていない上に、商売女というだけでやはり抵抗があるのだ。あの幼馴染みの影響をこんなところでも受けなくて良いだろうにと、愚かしさを嘆きたくなる。
「遊郭へ来たことは?」
「ありません。幼馴染みがそういうことに潔癖だったもので」
「そうですか」
「……滑稽ですね。何の意味もないのに」
 あの雌は己のことなど何も思っていなかったのに。勝手に己を縛り付けて、こんな時までまだ捕らわれているのだ。独り相撲も良いところではないか。
 自嘲すると男は首を振った。
「操を立てたんじゃありませんか。お優しい」
「立てたところで何とも思われなければ,無駄なだけです」
 いっそとうに捨ててしまえば良かったと思う。そうすれば多少はこの徒労も薄れただろうに。
 きっとこの男には分からない感覚であるはずだ。こんなところで暮らしているのだ、操も何もあったものではない。
「……ボウハチさんは、その、この館の主ですか?」
 この男が一体何者であるのか、まだ確かめていなかった。主ではあるのだろうと思うのだが、遊郭の仕組みがよく分からない。もしかすると男は番頭のようなもので、主は別にいるのかも知れない。
 男は瞬きをした後に、少し苦そうに笑んだ。
「そのようなものです」
 何かを飲み込んだ。
 そう感じるのだが。それが何であるのか男は語らない。ただ酒を傾けて飲んでいるだけだ。
 喉仏が微かに上下する様を眺めながら、綺麗な男だと改めて思った。酒を飲んでいるだけなのに、ほぅと息を漏らしたその仕草だけでも大気が色付く。切れ長の瞳は怜悧なのだが、声音がどことなく柔和なせいでその違いが酷く甘やかに感じられた。見ていると何故か腹の奥が落ち着かなくなる。
「ここは……女人だげですか?」
 これほど色っぽい男なのだ。もしかして、と思うとつい尋ねずにいられなかった。
 まさかという危惧が過ぎるのだ。
「そうです。男のいる陰間の遊郭もありますが。ここは女だけです」
 女だけの館の主。
 もしかしてここにいる女たちはみんなこの男のお手つきなのではないだろうか。
「私はここを管理しているだけ。女たちが私のものというわけではありませんよ」
 男の説明に心を読まれたのかと思った。背筋がひやりとしたが、酒を嚥下するとすぐに熱に変わる。
 頭の巡りがその分鈍くなっていくのだが、男と向き合っている緊張をほぐすためならば仕方がない。
「ここの女たちは客に食われているというよりも客を食っているようなものですからね」
「客を……食う」
「金を貰って客を食う、というのも強欲ですね。罪な生き物です」
「でも、その、身体を売っているのでしょう?金の代わりに」
「はい」
「では、正当だと思いますが」
 金を貰ったその上客を食う、もしこの遊郭が男たちだけならばまだその強欲という意味も分かるような気がしたのだが。女しかいないこの遊郭で、金を貰って身体を開いているのは、金銭のやりとりだけを見れば特別おかしいとは思わない。
 ただ無情であるなとは思うのだが、女たちが強欲ということにはならないだろう。男が少し困ったような顔をしているのか不思議だった。
「そうですね。けれど、貴方を連れて来た女はいけない。貴方はここに来るべきではなかった」
 遊郭に関わる者みんなが、明旬を駄目だと言う。特に男はそれを繰り返した。
 まるで責められているようで肩身が狭くなる。ならばいっそ帰してくれと思うのだが、何故ここで座って男と酒を飲んでいるのか。
 しかしまだ、もう少しだけ男といたかった。酒の味もよく分からず、恐ろしいような舞い上がっているような、曖昧に濁っていく己の意識が何故か心地良い。
「ここに来る人は、前もって約束をしているのですか?」
「そうです。それ以外の者はいけない」
「では俺は場違いですね」
 分かりきっていたことを確認するようにそう言うと、男は明旬のお猪口に酒を注いだ。
「貴方はここが似合わない。良い意味で、ですよ」
「良い意味?」
 女遊びもしたことがない、みすぼらしい情けない男がこんな豪華な遊郭にいるのは似合わない。そう皮肉を言われるのならば分かるのだが、良い意味なのと言われても遠回しの嫌みかとうがってしまいたくなる。
「ここは汚れていますからねぇ……」
「そうは、思いませんが……女が欲しいと思うのは、男ならば仕方のないことだと思いますので」
 金で女を買うことが褒められるかどうかと訊かれると胸を張るようなことではないが。そういう男がいるから商売が成り立っている。女たちも食い扶持が稼げるのではないだろうか。
 汚れているというのは、言い過ぎである気がした。
 しかし遊郭を何も知らぬ己が言ったところで戯れ言にもならない。また己の愚かさを噛み締めて肩を縮めた。何をしても言っても、みっともないだけだ。
 とぼけるように酒をぐいぐい飲み続けていると。次第に頭がぼーっとし始めた。まずいと思うと、男がくすくす笑い始めた。
「赤くなっておられる。本当に酒は強くないようですね」
「はい……」
 頬に手を当てるとかなり熱い。どうせ鏡を見れば真っ赤になった顔が映ることだろう。男は飲む前と何も変わらないというのに、その対比は鮮明なはずだ。
「可愛らしい」
「そんなことはありません」
 雄に可愛らしいなんて言葉は侮辱にはしかならない。だが男に言われると怒りよりも、くすぐったい恥ずかしさが襲いかかってくる。赤い頬がもっと赤くなるような気がして首を振った。
 男は何を思ったのか、膝を詰めては明旬の頬に触れた。手を握られた時よりも、更に冷たい掌が気持ち良い。
「ボウハチさんは、客は取らぬのですか?」
 唇から零れた問いに男は瞠目した。赤い瞳が丸くなったことに、明旬は己がとんでもないことを口にしたのだと気が付く。
 館の主に向かって遊女と同じ扱いをしようとしているのだ。
「すみません、失礼を。いくら酔ったとはいえ」
 申し訳ないと頭を下げようとしたのだが、男は明旬の顎を取って動きを止めさせた。
「私は人を抱くことも抱かれたこともありましたが、今はしておりませんね」
 男は驚いたことなど忘れてしまったとばかりに、囁いてくる。瞳は猫の爪のように笑っていた。
「昔は……していたのですか?」
「気まぐれに」
 この赤い唇を塞ぎ、着物の袷から見える白い肌を撫で、辿り、足を開かせた者がいるというのか。この男を組み敷いて、啼かせた者が。
 どくどくと体内の血が悶え始めた。
 それは己には許されないことだろうか。
 そんな貪欲さが顔を見せる。
「好きなのですか?」
「さあ、どうだったでしょう」
 顎を捕らえられたまま、まるでつま先で転がされ弄ばれるように言葉が重ねられる。だが明旬はこんなやりとりは慣れていない。
 喉がからからに渇いては、許してくれと懇願したくなる。
「興味がありますか?」
 男の手が顎から喉へと降りる。それにこくりと息を呑んだ。
 それはまるで男に対する返事であったかのようだ。
「あ、の……」
「こんなところに連れてきてしまったお詫びもかねて、気持ち悦くしてあげましょうか」
 男がしなだれかかってくる。喉から鎖骨にまで手は降りていた。その指先に肌が粟立っては息が上がってきた。座っているだけなのに、鼓動が早くなっていくのだ。
 こんなことは初めてで、明旬は硬直したまま艶やかな男の瞳を見詰めていた。
「そんな、わけには……」
 上擦る声に男は顔を寄せてくる。
 あたたかな吐息が首元を撫でる。
「大丈夫、入れたりしませんよ」
 どこに何を、そんな問いかけすら男の視線に飲み込まれていく。
 だがこのまま黙って流されてはいけないという思いが、明旬の頭の端で声を上げた。いくらでもなんでもあまりにも危ういだろうとなけなしの意識が蘇ったのだろう。
「あの、俺、こういうことは」
「真っ新ですか?」
 肌を合わせたことがないのだと、言うつもりではなかった。もっと別の言葉を選ぶつもりだったはずだ。だが男に尋ねられると、それまでに言おうとしたことがすっ飛んで脳裏が真っ白になった。
「はい……」
「それは良かったのか悪かったのか」
「え、そうでなくて」
 そんなことではなくて、と言おうとしたのだが男の手が正座をしている明旬の太股に触れた。そしてそっと足の付け根まで撫で上げてくる。
「待って下さい」
「いいから、良い子にしてなさい」
 子どもをあやすような声と共に野袴を解かれた。