三千世界   五ノ四




 男に見られているとまるでその場に縫い付けられているように動けなくなった。だが明旬と違い、周りを囲んでいた女たちはそっと身体を離しては気まずそうに互いを見ている。
「違う者を連れて来てはならない。知っているでしょう」
「でもこの子だって、そんなに変わりないでしょう?」
 門番と思われる犬に対しては強気な態度で突っぱねていたというのに、女は黒い着流しの男に対しては弱腰だった。
 他の女に至っては口も開かない。
 見たところ男は強面ではなく、むしろ落ち着いていて穏和そうな雰囲気なのだが、女たちにとってはそうは感じられないようだ。
「大差がありますよ。全然違う。予定の者ではない。変えてはならぬと申したことを聞けぬと言うんですか?」
「だって、もういなかったんだもの……」
 女はとうとう小さくなって童女のように拗ねた顔でぼそぼそと言い訳をしている。先ほどまでの妖艶な笑みは、蠱惑的な色香はどこにいったのか。最初に感じていた少女のような印象が濃くなっては益々年が分からなくなる。
「手ぶらで帰ってらっしゃい」
「それじゃおまんまの食い上げじゃない!」
「致し方ないでしょう」
「嫌よ!」
 ここでは客を連れてこなければ飯も食えなくなってしまうのか。煌びやかな服を着て艶やかな肌をして健やかそうではあるのだが、仕事としてはかなり厳しいのだろう。
(俺に飯だけでもって言ったのは自分も飯が食いたかったからなんだろうか)
 床など入らなくても構わないから食事だけでも、と言ったのは共に自分も食べられるから思ったのかも知れない。
「違う者を連れてきたところでいけませんよ。規律に反するでしょう。規律を破れはどうなるか、知っているでしょう」
 溜息をつきながら男が言うと、女は青ざめた。そして男を見るのを止めては視線を足下に落としている。とんでもないことをしてしまったのだと、後悔しているように感じられる。
 場違いという言葉がのしかかってくる。やはり遊郭になど誘われても着いてくるべきではなかったのだ。いっそ帰った方が良いのだろう。
「あの…」
「では私が預かりますよ。そこの御方、どうぞこちらへ」
 帰りますと言おうとしたのだが、その前に男が明旬の手を引いては歩き出してしまう。
 ひんやりとした手だ。皮膚がそう堅くないところから、きっと重い物を持って働く職人などではないのだろう。
 もっともこんなところにいることからして、堅気の者とも思えない。
 向かう先は階段であるようだ。一体どこに連れて行こうと言うのだろう。これ以上ここにいるよりも、心の平穏のために逃げ帰りたい。
「ボウハチのけち!」
 明旬が男に連れて行かれることに、女は腹立たしげにそう言い放った。だが男は振り返りもしない。
「道理を通しているのですよ」
 淡々と喋った声が果たして女に届いているのか。気になって明旬が後ろを見るとふてくされた女が睨み付けてきていた。
 しかし誰も止める者はいない。
(このボウハチって人が……一番偉いのか)
 女たちが言うことを聞かなければいけないほどの地位にいるのだろう。見たところ女たちとさして変わりない年に見えるのだが。
「あの……俺はやっぱり招かれてはいけない客なんですか?」
 恐る恐るそう尋ねると、男は明旬に対しては振り返ってくれた。赤い瞳は女を見ていた時とは違い多少柔らかい。苦笑しているのかも知れない。
「そうですね。でも貴方のせいじゃない。あの女が悪いのです。たちの悪い女にほいほい付いて行ってはいけませんよ」
 まるで子どものように注意されるのだが、まさかその悪い女を囲っているのだろう遊郭の者に言われるとは思っていなかった。
 複雑な気持ちになっていると、何階か上がった先で急に簡素になった場所に辿り着く。それまでは廊下と言えども花が飾ってあり、値段も分からないような壺が置いてある、どう見ても客を招くためにこしらえられている美しい装飾の襖だのが並んでいる階だったのに。その階だけは素っ気なく、突然民家を訪れたような錯覚を覚えたくらいだった。
 もしかするとここからは客を通すための部屋ではないのかも知れない。
 男はその階の一番奥へと明旬を連れて行った。
 やはり何も描かれていない、だが褪せたところはなく真新しい襖を開くと中には文机と脇息、灯籠と棚が二つあるだけだった。布団も何もなく、ここが遊女が客を取るための部屋でないことは確かだった。
「つまらないところですみません」
「いえ……」
 男は部屋に入ってようやく明旬の手を離した。だが掌に長い指の感触が残っている。なんとなく気になって手を握ったり開いたりしてしまう。
 押し入れから座布団を出しては明旬に勧めてくれる。促されそこに座ると男は「よっこいしょ」と見た目に似合わぬ言葉を零しては腰を下ろした。
「まだお金は払っていないでしょうね?」
「はい。あの、今」
「いえ、頂くわけには参りません。こちらが失礼をしたのは重々承知しています。ですが貴方を正式なお客として受け入れるわけにはいかないのです。どうかお許し願いたい」
 金はいらない、だが客として扱うわけにもいかない。
 そう言われて明旬は金を出そうと懐に突っ込んだ手もそのままに困惑してしまう。では己はどうすれば良いのか。
(出て行けと言われた方がましじゃないのか?)
 所在なくここに置かれるだけならば、追い出されたほうがまだ落ち着けた気がする。戸惑い気分は沈むだろうが、見知らぬ男と向かい合わせて緊張する気苦労はなかったはずだ。
「お酒でも召されますか?」
「え……でも」
「陸のものですよ。この館のものじゃない。腹が減っているのならば見繕いますが」
 金も出さないのに酒など飲んではいけないだろう。そう迷ったのだが、男は別の意味として捕らえたのか。酒は館のものではないという説明をしてくれる。
 別に酒を不審に思ったわけではないのだが。
「腹は、減ってはおりませんが……」
 飯を食いに来たのだが、腹が減って何か食べたいかと訊かれると首を傾げる。何しろこの男に見られて飯を食うのも気が引けた。
 正面に座られると男の容姿の良さと顔立ちが綺麗であることが分かる。女のような美しさとは違う、だが見ていると吸い込まれるようなあやしさがあった。
 その男の前で飯の味が分かるわけがない。
「そうですか。酒を適当に持って来て下さい」
 男は立ち上がり襖を開けるとそう声をかけた。明旬には分からなかったが、近くに誰かいたのかも知れない。
「しかしろくでもない女に引っかかったものですね」
 男は戻ってくると文机の傍らにあった煙草盆に手を伸ばす。煙管にはすでに煙草が詰められていたのだろう。炭や灰を丸めて団子状にし、火を付けておいてある火入れに煙管の先を入れては火をともしている。 「貴方はこの館の方でしょうに……」
「だからですよ。あれは気落ちしている者を捕まえるのが上手い」
「ああ……」
 そういう心の者を見付け出すのが上手なのだろう。人の顔色を見るのか、それとも雰囲気でぴんとくるのか。
「納得されているようですね。思うところがおありのようで」
 火の付いた煙管を口に咥えて、男は口角を上げた。そうしているとあの女たちのように猫に似ていた。
「お恥ずかしい話です」
 人にはあまり言えるようなことではない。だが男は何故か小さく喉で笑う。
「では酒でも入れましょう」
 それが合図であったかのように童女が襖を開けて入ってくる。十二、三歳ほどであるだろう童女はおかっぱ頭をしているが着ているものは町中にいる子よりもよほど華美なものだった。
 この館の女という女は皆着飾っているのかも知れない。
 持って来た盆の上には幾つもの徳利が載っている。みっしり積まれたそれは二人でやるには少し多いような気がした。
 明旬は酒は強くない。そんな数の徳利を見せられても喜ぶどころかすでに頭が痛くなりそうだった。
「いける口ですか?」
「あまり……」
「そうですか。私は好きでして、気付くと何本も開けてしまいます。いつも一人でつまらないのです、どうかお付き合い下さい」
 どうやらこの本数は男のために用意されたらしい。そのことにほっとしながらおちょこを渡される。男はたっぷりと酒をついでくれたので、返礼をしてはまずはぐいっと一気に飲み干した。
 酒は喉を通ると途端に熱くなっては胃へと落ちていく。焼けるような感覚にほぅと息をついた。
「何か、思い詰めておられるようですね」
 男は酒が入って機嫌が良くなったのか、ほんのりと口元を緩めている。赤い唇が笑みを形作ると酷く妖艶で直視出来なくなった。
「宜しければお聞かせ願えませんか。人に話せば気持ちが軽くなると言いますよ」
 空になった明旬のお猪口に酒をつぎながら、男はそう誘い水をくれる。
 人に喋るような話でない。こんな恥ずかしくて馬鹿馬鹿しいこと、口が裂けても言えるわけがない。そう思うのに、男との間に沈黙が流れていくと、どうにも抱えているこの滑稽さが重くなっていくようだった。
 ちらりと男を見ると「さあどうぞ」とばかりに双眸を和らげた。
 それに背中を押されるようにして、息を吸い込む。
(どうせここだけの話だ)
 二度と会うこともないだろう相手、明旬の恥を知ったところでからかってくるのも今だけのこと。ならばいっそ吐き出して楽になるのも良いかも知れない。
「許嫁と思っていた、犬の雌がおりました。子どもの頃からずっと共に育った幼馴染みだったのですが、去年里を出て海の近くで働いていると訊いて、追いかけて来たのです」
「ほぅ」
「俺も良い年なのでそろそろ所帯を持ちたいと思っていたせいもあります」
 そうだ、所帯を持とうとここまでやってきたのだ。己も妻を持ち、そう遠くない未来には子をなして父親となり、立派な家長として家族を支えるのだと意気込んでいた。
 それが昨日までの話だ。
「再会出来ましたか?」
「はい。すでに他の雄とつがいになろうとしていました」
 男は酒を飲んでいた手を止めて明旬を見た。己はきっととんでもなく情けない顔をしていることだろう。視線を向けてくれるなと思うけれど、こんな話を聞けば誰だってそんな間抜けな奴の面を拝みたくなるものだろう。
「それは…まあ」
「これと言って誓っていたわけじゃありません。ですが俺の親も、幼馴染みの親も許嫁だと思い込んでいた。親族はみんな決めてかかって、誰も疑いもしなかったんです」
「里を出た者は視野が広くなります。きっと里にいる者よりも、外の者の方が妙に魅力的に見えてしまったのでしょう。外の新鮮さに貴方の良さが隠れてしまった」
 男がそう言ってくれるのを聞いて、初めて見た瞬間少し冷たそうな人だと思った己の感覚が間違っていたことを知る。会って間もない相手を慰めてくれるなんて、優しいではないか。
 まして己の良さなど見ていないはずなのに、どこかにあると思ってくれるのか。
「いえ、そもそも幼馴染みは俺のことなど好きでも何でもなかったのです。友でしかなかった。許嫁など周りが言っていただけ。それが次第に苦しくなって逃げたのだと言われると、立つ瀬が無くて」
 まるでおまえのせいで里にいられなくなったのだと恨み言をぶつけられているような気分だった。実際あの雌にとって明旬など目障りな存在になっていたのかも知れない。
「再会しても厄介者だとして追い払われまして、行き場が無くあの波止場でふらついていたのです。そこを先ほどの女人に声をかけられて、ここまで着いてきてしまった次第です」
 己の抱えていた、胸を潰しそうなほど重く恥ずかしい気持ちは、だが言葉にするとあっと言う間に語り終わってしまう。
 所詮その程度の人生、傷でしかないのだ。
 人にとってはくだらないと一蹴されるだろう悩みを、男は黙って聞いていた。そしてやはり酒をあおって空になったお猪口にまた酒をつぎ足してくれるのだ。
 それが男の哀れみであるようだった。