三千世界   五ノ参




 女は明旬の手を引いて船に乗せた。船と言っても波止場にとまっている貨物船のような大きく頑丈なものではない。川遊びで乗るようなこぢんまりとした簡素な船だ。
 広大な海が広がっているこの場所に、その船はあまりにも脆弱だ。しかし女は躊躇いなく船に乗っていく。波が一つ来ただけでも沈んでしまいそうなのに、恐ろしくはないのか。
 しかし己一人がここに留まるわけにも行かない。意を決して船に乗ると意外にも揺れは小さかった。
 船頭は二人が乗ると頭に被っていた笠のつばを少しばかり上げる。
 年頃は五十前くらいだろう。年は感じるが高い背とがっしりとした体付きは精悍そうだ。
「いいのか?」
「ん?いいじゃない。手ぶらじゃないんだよ」
 どうやら船頭は女が前金を貰っていたという相手を知っているのだろう。明旬を見て、違うのだと察したようだった。だが女は涼しい顔で船に座り込んでいる。
「だがな、違うだろう」
 ちらりと明旬を見た船頭の目は値踏みをするようなものだった。貧乏人のくせにこんな女に付いて来やがって身の程知らずが、とでも思っているのだろうか。居心地が悪くてどうにも座りづらい。
「構いやしないよ。何の違いがあるってのさ」
「随分違うんだがなぁ」
「アンタは黙って船漕いでりゃいいのよ」
「聞きやしねえ」
 船頭は強気の女に肩をすくめては櫂を動かす。船がゆったりと動き始めては波間を進み始めた。
 波に揺られる船の上ではいつまでも立ってはいられない。倒れそうになって慌てて女と向かい合うように腰を下ろした。
「まずいんじゃないですか?」
「平気よ」
 女はそう断言するけれど、あの船頭の態度からすると問題があるのではないだろうか。
 黄昏が深まり、海が真っ黒に染まっていく。暗がりは船の上を浸食していっては視界がどんどん不鮮明になっていった。町にいるのならばまだ民家から灯りが零れてくるだろうが、海の上には灯りはない。月は遠くにかかっている上に三日月であり、光はあまり期待が出来そうもない。
 夜でも目を凝らせば物は見える。だがその夜になったばかりの時刻はどうにも苦手だ。すぐ近くの女の顔すら分からなくなる。
 まして海の上は逃げ場も何もあったものではない。手を伸ばしたその先に女があるはず、だが実際手を伸ばしても得られる感触は何もないのでは。もしくは、別の化け物か何かがそこにいるのではないか。
 そんな途方もない想像が背後から迫ってくる。薄氷の上を歩いているような気分だ。
「灯りは付けないんですか?海の上は真っ黒ですけど、それで行き先は見えますか?」
「慣れてますから」
 船頭は明旬に尋ねられても飄々とした返事をしている。明旬の目からすれば辺りは闇でしかないのだが、船頭には行き先がちゃんと映っているというのか。
「あの、ここから遠いんですか?」
 そもそもどこに行くのか。船に乗せられただけでどこに行くのか、ここからどれだけ時間がかかるのかも聞いていない。今更過ぎた問いなのか、女がくつりと喉を鳴らしたようだった。その淡い音でちゃんと女がそこにいてくれるのだと安堵が広がる。
「遠いような、近いような。ああ、灯りが見えてきた」
 船頭にそう言われて改めて周囲を見渡すと、ほわりと遠くに朱色の灯りが浮かんでいた。幾つものその光は遠くから見ているとまるで赤い蛍のようだ。
 海の上に佇むようなその光は次第に近付いてきたかと思うと、女が言っていただろう飯を食う場所というものが見えてきた。
(おい……こりゃ大丈夫なのか)
 立派な館がそこに建っている。
 全体を朱色に塗り込めている楼閣。幼馴染みを探している時に立ち寄った大きな町でちらりとだけ見た遊郭に酷似している。見上げる際にぽっかりと口を開けてしまうほど高く、神社の本殿か何かと思うほど荘厳な作りをしている。けれどそこはやはり遊郭、大変華美である。
 こんなところで飯など食えば、己が一生をかけても払いきれない金がかかるのではないか。
「大きな、館ですね……」
「見かけだけよ。中身はそんなことないから」
「そうでしょうか……」
 灯りに照らされた館が近付いてくると、その外観が次第にはっきりしてくる。金細工をふんだんに施した屋根がそびえているのならば、内部もかなり華美な装飾をされている館なのではないか。あれでいて内側は質素な造りをしているなんて、信じられない。
「そんなの気にせずぱーっと騒いだらいいじゃない。何か嫌なことがあったんでしょう?」
 館の灯りに照らされて、女の顔も再び見えるようになっていた。そこには陸にいた時よりも瞳を輝かせて楽しそうにしている女がいる。
 笑っているせいか、どことなく若返ったように感じられた。
「そんな顔をしてましたか、俺は」
「辛気くさい顔だったわ。でもあたしはそういうの嫌いじゃない、むしろ好きよ」
「そうなんですか」
「あたしが変えてやろうって気持ちになるじゃない」
 落ち込んでいる人の近くにいると、己にまでその陰気な気配が漂ってきて気分が沈む。泣いている人の近くにいればその涙がまるで己を責めているように思えて気まずくなる。
 そんな風にしか思えない自身と違い、女は胸を張ってそう言える。
 その勇気が、気概が羨ましかった。
「お優しいんですね」
 色を売る女は性根が悪い。意地汚く金に執着しているようなたちなのだろうと思っていた。だが女の言うことはどうだ、自身などよりよほど素晴らしく立派ではないか。
 恥じ入っていると、船頭が鼻で笑った。
「よく言うぜ」
「ちょっと、何よ」
 女の発言を笑い飛ばす船頭に、女は唇を尖らせた。その子どもっぽい仕草を女がするとたいそう愛嬌のある様に見える。親しみやすさが生まれてくるのだ。
「いいえー、何とも。ほらお客さんもう着きますよ」
 船頭がそう言うように、船は館にどんどん近付いていた。舟屋のようで、館の一階が船を着ける場所、二階からが部屋になっているのだろう。開かれている門扉をくぐると目の前には朱色の格子を並べた見世が置かれている。
 檻のようにも見えるその格子の向こう側には女たちが座っているものだが、この館では誰一人座ってはいない。がらんとしたものだ。
「いないんですね」
 船から下りると、明旬は誰もいない見世にそう呟いた。
 遠目から見ているだけだった遊郭には、ここに煌びやかな女たちが座っていて気になるような、だが決して目を合わせてはいけないような複雑な気持ちになったものだが、今あるのは静寂ばかりだ。
「大体ここに来る前にお客は誰が相手するのか決まっているからねぇ。大勢で来た時には見世に出されるけど、そうじゃない時は上がってお客さんの相手してるか、他の仕事してるよ」
「そうなんですか」
 船で来ることと良い、外に出ないと聞いていた遊女がふらりと出ていることと良い。この遊郭と思われる館はどうも不思議だ。
 見世の赤い暖簾をくぐると門番かと思われる男が右側に座っていた。高座のようなところに座って腕を組み、女を見た。
 男の斜め後ろには階段がある。きっと男はその階段を通して良い者かどうが見極める役目を担っているのだろう。屈強な身体をしており首は太く頭の上にある耳はは片方欠けている。同じ犬の神格ということは感じられるけれど、己とは明らかに違う。闘犬なのだろうか。
 身体が強張っていくのを止められずにいると、男にじろりと睨み付けられた。
「誰だ」
「お客だよ」
 女は男の鋭い視線など蚊に刺された程度にも思わないのだろう。軽く答えては階段を上ろうとする。
 男は片眉を上げて立ち上がった。止めるような姿勢を取るのだが、女が軽く手を振って払いのけようとした。
「違うんじゃないのか?」
「いいだろ別に」
「良くねえよ」
「だって手ぶらじゃ帰りづらいだろ」
 女が連れてくるべきだったのは明旬ではなく別の客であることを、この男も知っているらしい。それに対して女は帰りづらいからと平然と告げている。
 それが悪いことであるとは思っていないのだろう。
「あの男はどうした」
「さあてね」
「取られたのか」
「どこのどいつが持っていったのかね」
「おまえがぐずぐずしてるからだろ」
「仕方ないだろ。代わりがいるんだから、それで構いやしないさ」
「構うだろうが」
 己はあまり歓迎されていないらしい。帰った方が良いのだろうか。
 じわじわと居心地の悪さに苛まれていく。
 女と門番らしい犬の男が問答をしていると階段の上から「あれ?」「違うんじゃない?」「でもいいじゃない!私はこの子の方がいい!」と複数の女たちの楽しげな声がした。
 他の遊女たちが集まってきたのだろう。それに女は顔を上げて門番の横を通っていく。明旬はそれに付いて行くべきかどうか迷ったのだが、男が身体を避けて階段への道を開けてくれたので、それを助力として女の後に続いた。
 階段を上りきると、女と同じように赤地の着物を纏った女が四人もいた。それぞれ着物の柄は花であったり、御所車であったり、それぞれ異なっているのだが煌びやかであることは共通している。その上帯を止めているのが背中側ではなく腹側なのだ。それはいつでも掴んでほどいて貰って良いと言われているようなものだった。
 年頃は明旬を連れてきた女と大差ないだろう。上は二十歳、下でも十六ほどだろうか。女の年は見ただけでは分からないので自信はないのだが、四人とも婀娜っぽく目が合うと猫のように笑った。
 五人もの女に囲まれるとまるで己は小さな鼠にでもなってしまったかのようだ。獲物として捕まえられるのをただ待つだけの弱者である。
「この子の方がよさそう」
「ねえ、可愛いし」
「可愛い!?」
 これまで生きてきた可愛いなんて言われたことはなかった。雄らしくない、情けない、もっとしっかりしろと叱咤はされてきたけれど。可愛いなんて、まして褒めるように言われたことなんてなかった。
 びっくりした声を上げると女たちが目を丸くして、だが次の瞬間弾けるように笑い出した。
 遊郭とはもっとじめっとして陰りのある、今の己ほどではないだろうが辛気くさいところかと思ったら、随分女たちは陽気だ。どこかからどんちゃん騒ぎをしていると思われる喝采や雅楽などの音も聞こえてくる。
 まるで祭りをしているみたいだ。
(これが遊郭か)
 思っていたより、堅苦しくも息苦しくもないところであるらしい。
 ほっとしていると花が描かれた着物を纏った女が腕に絡み付いてくる。
「ねえ、こっちにおいでなさいな」
「駄目よ!あたしが連れてきたんだから!」
「でも決まっていた人じゃないんでしょう?だったら独り占めするのはずるいじゃない」
「駄目駄目!」
「あのっ…」
 明旬の腕の取り合いをする女たちに、抗って良いものか好きにされておくべきなのか分からない。求められることは嬉しいけれど、女たちの諍いの真ん中に置かれるのは勘弁して欲しかった。
 女を止めるべきかと、手と声を彷徨わせるが結局どうにも出来ずに女たちに振り回される。
「本当に、駄目ですね」
 すっとまるで風が吹いたかのように声が響いた。決して大声を出したわけではない、むしろ囁くような微かな声であったはずなのに言い合いをしていた女たちの勢力を制して耳に入ってくる。
 特別な響きを宿して声を発しているかのようだった。
 声がした方向を見ると真っ黒い着流しを着た男が一人立っている。門番に比べると明らかに細身であり、どう見ても争い事には向いていない。
 肌も白く、切れ長の赤い瞳も理知的で暴力とは無縁なのだろうと思わされる。見たところこれといって神格の特徴もない。だがどことなく、ただの人間ではなさそうな気配を纏っていた。
 どこか剣呑で、なのに遊女たちにも婀娜っぽい。赤い唇は溜息しかついていないというのに、遊女たちの微笑みよりも強く、明旬の視線を奪った。