三千世界   五ノ弐




 明旬という名前の犬だ。
 そう思い出したのは飯屋に入って注文した鍋が出来てさあ食うかという段階になった時だった。今の季節の旬は、という話題になったからだ。
 ぐつぐつと煮えた鍋の中身をさして興味もなさそうに見ている玻月は手を動かさない。知らぬ者と同じ鍋を突くには抵抗があるのだろう。
 賊の中で生きてきただけあって、玻月は他者を容易に受け入れることはない。
 だが綜真が玻月の皿に具をよそってやると何の躊躇いもなく箸を付けた。綜真が勧めるのならば疑いもしないのだ。
 分かり易い態度を明旬がじっと観察している。どういう関係なのか計ろうとしているのだろう。
「この子は幾つ?まだ子どもだろ?」
「十七、八になる」
「は!?てっきり十四くらいかと」
 驚く明旬に肩をすくめる。玻月の年を告げて返ってくる台詞はどれも似たようなものだ。その度に綜真としてはこれでも育ってきたものだと思うけれど、他者の目からしてみればまだまだなのだと思わされた。
「無理もねえよ。昔はろくに食ってもなかったんだ」
 今は隣で茸を口に入れては素直に食っている子だが、賊にいた時は何を食っていたのか。そもそも満足に食うことが出来ていたのか。
 玻月は賊にいた時のことを語らない。どうせ聞いても胸くその悪い話にしかならない上に、玻月も気分が悪いだろうと思って尋ねたことはない。
 過去は取り返しがつかないものだ。
「もっと肉入れて貰おうか?」
 明旬は鍋の具が少ないような気がしたのか、店員に肉を特別盛って貰おうかと言い出した。気の毒そうな顔をしていて、耳が垂れている。
「構わねえよ」
「でもさぁ」
「犬ってのは、どうも似たような種族に食い物を与えたがるな」
 灯成も玻月を見てそわそわしていたものだ。犬は世話焼きで、特に子どもかと思うと面倒をみなければいけないという気持ちになるのかも知れない。
「だってさぁ……そんなに細っこいと気になるよ」
「これでも頑丈だ。問題ねえよ」
 細身の身体からは目を見張るほどの強い刃が放たれる。俊敏性は勿論、打たれ強く多少の衝撃ならば簡単に受け止める。狼という生き物が元々強いおかげだろう。
 きっと成獣である明旬と刃を交えても、玻月は息を乱すことなく勝つはずだ。
「護衛?」
 頑丈という言葉に明旬は妙な方向に考えたらしい。こんな細い子どもとしか思えないような葉月が己の護衛だなんて、思わず吹き出しそうになった。
「俺にんなもんが要るとでも?」
「思ってないけどさぁ。じゃあ綜真がこの子を護衛してんの?」
「俺の事情なんざどうでもいいだろ。話があるんじゃねえのか」
 己が一体何をしており、何を目的に旅をしているのかなんて、明旬に教える必要はない。第一ここに来たのは明旬が話したいことがあるからと言ったからだ。己の話がしたいわけではない。
 明旬は水を向けられると、怖じ気づいたのか顎を軽く引いた。そして三人が座っている座敷の近くを歩いた店の者に向かって手を上げては「お酒下さい」と注文している。
「なんだ、酒飲まなきゃ話せねえようなことか」
「そうだね」
 明旬が酒を好む奴であったかとどうかまでは知らない。だが昼間から酒精を入れるような、自堕落な生活をしているという雰囲気もない。
 ならば景気づけか、それとも自棄にならなければ話せないようなことか。
(揉め事か?)
 あまり良い流れの話ではないのかも知れない。
「絡み酒に付き合ってやる義理はないぜ」
「そこまでにはならないよ。でもしらふじゃ恥ずかしいような話だから」
「色恋か」
 しらふでは恥ずかしいと言われて、そう目星を付けると明旬は俯いた。耳が忙しなく動いているところからしてそれが正解だったのだろう。
 途端に綜真はやる気をそがれて肩を落とした。源に関わることかも知れないと微かに抱いていた期待が萎んでいく。
「俺は向いてないぜ」
「そうだろうね。でも不思議なことがあったから」
「へえ……なんだ狐にでも化かされたのか?」
「………そうなのかも知れない」
 明旬は箸を置いて、表情を陰らせる。どうやら深刻であるらしいが、それが色恋なのだと思うと綜真はあまり気が進まない。
 せいぜい鍋の中身をこいつの代わりに平らげてやるか、という程度の思いしか沸いてこなかった。
「相手を探せってことか?」
「うん」
「俺は占い師じゃねえんだがな」
 術師であって、占いをするわけではない。失せ物探しだの、人探しだのに自分の力を使うつもりはなく。また会ったことも見たこともないような相手をわざわざ捜索してやる気持ちは欠片もない。
 玻月に関しては月の源を傍らで眺め己のものにならないか確かめたいのと、炯月には恩があるからだ。だが明旬に対しては何の利益も恩もない。
「分かってる。探すのは自分でやるさ。ただ俺がどこに連れて行かれたのか、綜真なら見当が付けられるんじゃないかと思って」
「連れて行かれた場所?」
「そう。俺はあの時、自分がどこにいたのかさっぱり分からないんだ」
 店の者から酒を受け取ると明旬は綜真にも勧めながら真剣な面持ちで語り始めた。



 真冬はあっという間に昼が終わり、薄暗く視界を塞ぐような黄昏時がやってくる。夕暮れを過ぎると波止場では波音だけがはっきりと聞こえてくるのに、視界はすぐ先の人の顔も分からないほどだった。
 まるで靄がかかっているかのようだ。
 だが行き過ぎる人々が誰であったとしても、己が求める相手でないことだけは確かだ。ならば誰もかれも知らない、関係のない相手だ。
(馬鹿だったんだ)
 生まれた里で、幼馴染みとして育った雌がいた。その雌は数年前に里を出て行ったのだ。里のことは嫌ではない、けれど見聞を広めたいのだと言って単身旅立った
 勇敢な雌だと思う。雄ならばともかく雌はあまり外に出たがらない者が多いのだ。
 その時明旬は足を怪我していた上に兄弟が病を煩っていた。とてもではないがその雌と共に出て行くことは出来なかった。
 けれど雌がどこかに住み着いて落ち着いた時には迎えに行こうと思っていた。もしくは己が里を出て一緒にそこで暮らすのも良い。
 そして明旬は今年がその年だと思って雌を追いかけて里を出た。どこに住んでいるのかは雌の親から、娘から手紙が来たのだと教えられていたので探す手間はなかった。
 だがいざ会ってみると、雌にはすでにつがいがいた。
 その町で出会った犬であり、雌は去年にはその雄とつがいになって幸せに暮らしていたのだ。安定した生活に幸せそうに笑っていた雌を見て言葉を失った。
 雌は明旬を見て、一体何のためにここまで来たのか察したのだろう。申し訳なさそうにすでにつがいがいること、そもそも明旬のことは幼馴染みだけれど許嫁だとは思っていなかった。周りは許嫁だと決めつけてきたことが辛くて、だからこそ里を出たのだと話されて頭を下げることしか出来なかった。
(全部勘違いだったんだ)
 明旬が先走っていただけだ。
 その場にいるのが恥ずかしくて,己が疎ましくて、明旬は逃げるように雌の元から去った。そして隣町まで無我夢中で歩き続けた。活気溢れる人通りの多い波止場のこの町では、大勢の人間がいて多少は気も紛れるかと思った。
 いや違うだろう。どこでも良かった。閑散とした今にも朽ちてしまいそうな村だって何だって良かったのだ。許嫁だと思い込んでいたあの雌がいないのならば。
(これからどうしよう)
 里に戻っても雌がいないのならば己が振られたのは丸わかり。それどころか馬鹿な勘違いをしていたことも後ろ指を指されて笑われることだろう。
 そんな中、一人でどうやって過ごせば良いというのか。おまえは昔から一緒に育った雌一人口説き落とせない、魅力のない情けない雄だという目でずっと見られ続けるのだ。
 親兄弟も情けない、雄のくせにと嘆くかも知れない。ならばきっと里には戻らず別の場所に根を下ろしたほうがいいのか。
 だがどこに。
 溜息をつくことも出来ないほど心身共に疲弊していた。そもそも隣町から数刻も休み無く歩いてきて足が棒のようだ。腹にはろくに何も入れていないので減っているはずなのだが、空腹で何か食べたいという気持ちはなかった。
 気が塞ぐと飯が喉を通らないと聞いたことがあるけれど、その通りであるらしい。
 ひとまず宿でも取って、それから今後の己について考えようか。とにかくもう休んでしまいたい。
(何もかもが嫌になりそうだ)
 自暴自棄になりかけていると自覚は出来たけれど、そんな己を止めようとは思わなかった。いっそここまでずっとあの雌を己のものだと考えていた愚かさを抱いて消えてしまいたいくらいだ。
 空腹は気にならないのに、寒さだけは身に染みる。強い潮風にくしゅんとくしゃみをすると誰かの微かな笑い声が聞こえてた。
 はっとして顔を上げると意外と近く、二歩先くらいに女が一人立っていた。
 艶やかな黒髪を高く結い上げて珊瑚かと思う簪を差している。赤い着物には蝶が描かれており、目元にもぽってりとした色が添えられている。今にもしなだれかかってきそうな、少しけだるげな姿勢で明旬見ている。婀娜っぽい香りがまるで手招きをしているように漂ってきた。
 色を売る類の女なのだろう。
 遊女を見たことはないけれど、色を隠しもせずに雄に向き合っているのだからきっと慎ましい、貞淑な女ではないということだけは分かる。
 色を向けられることはとても気まずい。けれど何故か女から目が離せなくなっていた。
 女がふわりと笑むとより一層甘い香りが誘いをかけてくる。この身に触れろと囁かれているかのようだった。ぞわりと背筋が粟立っては良くない感覚を呼び起こそうとする。
「お兄さん、暗い顔してるね。嫌なことでもあったのかい?」
 女の声は思ったよりも高いものだった。するりと耳に入り込んでくる響きからすると、己が思っているより若い女なのかも知れない。成獣になってまだ間もないのではないか。
「少し……」
 初めて会った相手に一目で分かるほど、酷い顔をしているのだろうか。雌に振られた、というかそれ以前の問題で勝手に暴走して自ら滅んだ結末によほど打ちのめされているのか。
 苦みを噛み締めていると女は「だろうねぇ」と優しげな声音で告げる。
「どうだい。楽しいことしない?」
 小首を傾げて問いかける女に、それは色事に関してだろうか疑問が沸いてくる。
 容姿もざっくばらんとした言葉遣いも、そして香ってくるその色も、明旬にとっては馴染みのないものだ。色香なんてものは発情期でもないのに人に向けるものではないと、里では律せられていたはずだ。
(遊女と……懇ろに)
 色遊びは幼馴染みの雌が嫌悪していたものだ。金で女を買うなんて鬼畜のすることだ、そんな雄は愚の骨頂だと冷たく言い放っていた。だから明旬はこれまで女遊びもしなければ他の雌に心揺れたこともない。
 ただ一途に幼馴染みの雌だけを見詰めていた。
 その無残な結果を前に、いっそのこと女遊びでもしてこの憂いを晴らそうかとも思ってしまう。もう何も気にすることはない、あの幼馴染みだってもう関係がないのだ。
 けれど女の誘いに心惹かれても、別の問題が明旬の勢いを止めた。
「懐が、心許ないから」
 見たところ女の器量は勿論、着ている着物も美しい綺麗なものだ。豪華とすら感じるそれを纏っている女を買えるだけの金は持っていない。
 好いた雌には逃げられている、里にも恥ずかしくて帰れない。その上女に声をかけられても付いて行く金すらも持ち合わせていないのだ。あまりにも惨めで涙腺が緩んでくる。
「いいよ」
「え?」
「いきなり女買えって言われても持ち合わせてないのが当たり前だよ。だからちょっとでいいよ。御飯食べるだけで十分さ。床入りしてくれなんて言わないから」
「でも」
「客引いてこないと駄目でねぇ。本当は今日、別にお客がいたんだけどそっちが駄目になっちゃってね。前金は貰ってるし、向こうさんの都合だからお金も返さなくていいみたいだし。でもそれじゃあたしが暇になっちゃったから。一人で帰るのもなんだし」
 ねえ?と女が赤い唇で絡め取るようにして語りかけてくる。
(飯だけなんて。そんなところがあるんだろうか)
 里から出て行った犬で、時折戻ってくる者はいる。彼らの中でも遊女に世話になった者はいたが、果たしてそんなことがあるのかどうか。
 飯炊き女といって、飯屋の女が金で安く身体を売ることはあると聞いているが。目の前の女が飯炊き女だなんて響きに似合うとも思っていない上に。あれは旅籠の女の話だ。
 迷っているとついと女が腕を取ってきた。
「つれないね。ちょっと御飯に付き合って酒飲んでってくれるだけでいいんだよ」
 上目遣いでねだる女の声に、くらりと目眩がした。茶色の瞳は明旬をそっと包み込んでは鼓動を早めていく。
 思案することは無駄だ。どうせここには何もないのだからいいではないか。
 胸の内からそんな囁きが聞こえてくるようだった。
「ちょっとだけなら」
 懐にある金が足りなければただ働きでもすればいい。どうせ里には戻れない。
 そんなやけくそになった思いが、明旬の首を縦に振らせていた。