三千世界   五ノ壱




 海の近くにいるのだと潮の香りで感じる。次第に衣に潮が纏わり付いてくるようだが、冬ということもあってか鬱陶しさを覚えるほどではない。
 ここのところ海側には来ていなかったのでどこかなつかしさすらあった。玻月と共に来たことはなく、海を知っているのかどうかと訊くと何度か見たことがあると返って来た。
 紅猿にいた時に立ち寄ったようだ。
 頭に付いている髪と同じ色をした耳を忙しなく動かしているのは潮騒を聞いているか。それとも行き来する人々を警戒しているのか。
 海運を受け入れている浜辺は食料から装飾品、生活品、様々な物資が運ばれている。物が溢れているおかげで自然と活気のある人々のかけ声や浮き足だった歩みに、飲まれてしまいそうになる。
 玻月は人が苦手なので綜真にぴったりくっついてはどこか憂鬱そうだった。身動きが取りづらいということは戦いづらいということ。刃を持って戦うことで自身を守ってきた子には、きっとこの状況は歓迎出来ないものだろう。
 けれど綜真は人通りが多い町が嫌いではない。様々な生き物が溢れている場所は源もまた豊富だからだ。変わり種に出会うこともあって胸が躍ることもまれにある。
 変わり映えのない退屈な日々に比べれば、毎日何かしらの騒動に巻き込まれる生き方の方が望ましい身にとっては、ここは悪くない場所だ。
(おかしな気配がするな)
 常に身に纏っている風の源が微かに揺れている。何かを感じ取っては玻月と同様に警戒しているのだ。何か悪いものではないか、危害を加えてくるのではないか。そう本能が危機感を覚えている。
 けれど感じ取っている違和感はあまりにも薄い。この程度では綜真の元に辿り着くことも出来ずに消えてしまうだろう。
(前からおかしい気はしていたがな)
 この町を以前訪れた時も違和感はあった。だがその時はたまたまこの場に立ち寄っている何者かによる影響だろうと思っていたのだ。しかし数日間滞在はしたけれど気配が立ち去ることはなく、だからといって濃厚になることもなく。ただこの町の日常に混ざっていくようだった。
 結局『そういう町』であるという結果しか導き出せなかった。何が妙なのか、探りたくはあったのだが、別件でもっと綜真の気を引く出来事が起こったのでそちらに移動してしまったのだ。
(だからといって、今回もそう長居が出来るわけじゃねえ)
 あちこちふらふらとしているけれど、今は一応玻月が元いた紅猿という賊の一員だった術師を探すという目的がある。期限が決められているわけではないが、成獣になっていくばかりの子をこれ以上里から離して育てて良いものかという迷いもある。
「荒れてんな」
 足取りはいつの間にか海が見渡せる波止場にまで来ていた。風が強く波は襲いかかってくるかのように高く雄々しい。近くに寄ればあっさり食い付かれてそのまま沈むのかも知れない。
 まして真冬ならばその海は冷たくて、心の臓まで止められることだろう。
 それでも船が出て行っているのが不思議だった。あれは沈まないように術でもかかっているのか。それとも船乗りの腕があればあれでも波間を安全にゆけるものなのか。
 玻月も似たようなことを思っているのか、じっと船を見ていた。無口な子は相変わらず口を開くことなく、それでも寒さはこたえるのか外套を掻き合わせている。
 いっそ寒いとぼやいてくれた方が、まだあたたかく感じられるような気がした。
「飯でも食うか」
 あたたかい飯を食えば身体はぬくもるだろう。まして玻月の身体は肉付きが悪く、まだまだ細い。縦には伸びるようになったけれど、筋肉を付けるには遠く、骨の目立つ身は年齢を知っている分どことなく痛々しい。
 玻月は綜真の声に顔を上げては見詰めて来る。灰蒼の瞳に同意の色が浮かんでいた。もっともこの子が否定の色を示すことは滅多にない。
 従順すぎる姿勢は己を綜真に捧げると決めているからだろう。
(……発情期が来るな)
 灰蒼の瞳が熱情に浮かされ、潤んだ視線が交尾を求める季節がそろそろやってくるのだ。その時玻月は綜真を求めるつもりなのだろう。
 狼ではない人間、まして同性である綜真をつがいに求める。それは里にいる狼たち、特に家族たちは決して認めない。止めろ、考えを変えろと散々言われたというのに、この子は未だにそれをしない。
 むしろ綜真に対する思いを深めているぐらいだった。隣に寄り添う距離の近さや眼差しに含まれている信頼、少ない言葉の端々から感じられる好意。それらが日に日に強まっていく。
 じわじわと真綿で首を絞められているような気分だった。この子の好意が嫌なわけではない、厭っているのならば共に連れて旅などしない。
 ただこの子の背後に時折狼の家族が浮かぶのだ。自分を取り殺してやろうかと睨んでくる想像がちらついて、どうにも居心地が悪い。
(今年はどうする。里にはもう帰せない)
 初めての発情期は里で迎えた方が良いと言われて里に連れて行って、結局綜真以外はいらないと泣いて訴え家族も捨てると言った子だ。今年もまた似たようなことになられてはたまったものではない。
 なので今年は里に帰すつもりは毛頭無く、実際今から里に戻ろうとしても発情期が来るまでには到底帰れない。
 大体綜真でなければ肌に触れさせない子が、どうやって欲情を発散させるかと言えば綜真が慰めるしかないのだ。そんな有様を狼の里で見せるわけにはいかない。
 玻月が選んだ相手だからと知りながらも、炯月が我慢出来ずに綜真の首を落とそうとしてくるだろう。
(いつかこいつが諦める日を待つしかない)
 綜真では駄目なのだ。自分に相応しくないのだと、玻月自身が気付かなければいけない。その時をじっと待つことしか出来ない。
(早くその時が来ることを願うばかりだな)
 そう思いながら飯屋へ歩き出したところ、どこからから「あ」と声が聞こえてきた。その声に聞き覚えがある。その上こちらに向けて発したことはなんとなく勘付いていた。
 だからこそ歩みを早めてその声から距離を取ろうとする。出来ればその声が人の流れに阻まれて近付いて来ないことを願うばかりだ。
 綜真を発見して声をかけてこようとする者は、大抵ろくでもない。
 源に関することをわざわざ教えようとしてくれる者など一握り、大半の者は術師としての綜真に厄介事を持ち込んでくるだけだ。
 玻月は元々他人に興味がないので、歩調が早まった綜真に従って隣を歩いている。その問いかけもしないその態度が綜真にとっては心地が良い。
「すみません、あ、すみません」
 しかしそんな綜真の気持ちに反して声の主は人並みを掻き分けてやってくる。人にぶつかっては頭を下げているらしいが、それでも追いかけてくることを止めないらしい。
(ちゃんと謝るってことは、性根は悪くねえな)
 もし根性が曲がっている輩ならば人にぶつかっても謝りもしないだろう。それが出来るということはある程度良識があるらしい。声も明るく、陰のある雰囲気ではなかった。
 つい誰であるのか気になってちらりと視線を向けると、赤茶色の髪の毛と同色のぴんっと立った耳が見える。犬の神格だ。
「綜真!」
 とうとう己の名を呼んだ犬に、綜真は渋々足を止めた。その犬にあまり悪い印象がなかったせいだろう。実際その犬は綜真が止まってくれたことに安堵の笑みを浮かべては人懐っこそうに手を上げた。
 その笑顔ではっきりと思い出した。
(灯成の遠縁の犬だ)
 茶色の犬の神格であり、綜真に懐いてきては何かとくっついてくるあの犬の親戚だ。灯成と似て犬としての性質がよく出ており、性格は明るくて上下関係をしっかり持っている。友好関係を持つ相手には礼儀も正しく接しやすい相手だ。
「久しぶり!こんなところで会えるなんて思ってなかったよ!」
 人の流れの邪魔にならないように道の端に避けながら、犬が嬉々として寄って来るのを待つ。まるで昔からの友人であったかのように犬は再会を喜んでいる。長く豊かな毛並みの尻尾が大きく左右に揺れているので実際嬉しいのだろう。
 そんなに親しい間柄だった覚えはないのだが、それぞれの感覚の違いだろうか。
「里から出ているんだな」
「ちょっとね」
 この犬と出会ったのは犬の神格たちが作っている里でのことだった。狼と違い犬が里から出ているのはそう珍しいことではない。犬はこの世にいる神格の中でも最も数が多いとされる種だ。外に出て他の里で生きていくことも出来る上に、流れ旅をしてもあらゆるところで同胞に出会う。
 どこででも生きていける神格ではあるだろう。
 だが犬は複雑そうな表情を浮かべた。
「綜真にちょっと相談があるんだ。綜真じゃない分からないと思う」
 親しくない相手にわざわざ相談を持ちかけてくること、まして綜真でなければ分からないだろうという一言にひっかかる。
「源か?」
「どうかな。そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない」
「はっきりしねえな」
「俺もよく分からないんだ。何がなんなのか。夢みたいな、とにかく現か幻が分からないことに出くわしたんだ」
「寝ぼけましたなんて話だったら、暴れるぜ」
 よく分からない、夢か幻か見当も付かないような出来事。そんな不可解な出来事には源が関わっていることが多い。
 綜真は俄然関心を持ったけれど、脳天気で穏やかな性格の犬相手だ、本当に寝ていて夢を見ていましたなんてオチがありそうでそう警告する。
 それに犬は耳を下げては情けない顔をした。
「勘弁してよ」
「まあ、話だけなら聞いてやってもいいけどな」
「良かった!」
 目的のある旅とは言っても犬の話を聞く時間くらいはあるだろう。そう判断すると垂れたはずの耳が途端に立った。
 元気なものだなと思っていると、犬はちらちらと玻月を窺い見ているようだった。
 何者なのか,犬のように見えるけれど犬ではない。
 そんな惑いが顔に出ている。
 金色の甘い髪の色は狼のものではないと思うのだろう。だが玻月は一度発情期を迎えてから多少狼らしさが増した。そこにいるだけで犬の警戒を煽るだけの存在感があるのだろう。
 人間である綜真はあまりぴんとこないのだが、犬の近くに玻月がいると確かに雰囲気からして異なるなと感じる。犬の気配が春の真昼だとすれば、この子の気配は冴え冴えとした真冬の月のように冷たく澄んでいる。
 この犬も威圧を感じるのか、玻月に関心はあるようだが声をかけることはない。
 玻月はいつも通りの無関心だ。綜真と家族以外には何の関心もないかのようだった。
「気にするな」
 どうしたものかと玻月にかける言葉でも探しているらしい犬にそう言った。気にしたところで玻月は何の反応もしないのだから、無駄だ。
「連れ?」
「ああ」
「犬、だよね……?」
 本能が違うと言っているはずなのに、犬はあえてそう口にする。狼かも知れないとは思いながらも、狼が里から出て術師と二人で旅をしているなんて有り得ないからだ。
 あの狼以外を信じることをせず、余所者を嫌っては里から出てこようとしない種族とこんなところで出会うわけがないと思っているのだ。そしてその認識は決して間違っていない。
「後で説明してやるよ。俺たちは飯が食いたい」
 こんなところで立ち話を続けるのも喧噪のせいでうるさい上に落ち着かず、まして玻月が狼だなんて教えられるわけもない。
 外に出ている狼は希少なのだ。おかしな輩に目を付けられたら厄介だ。
「じゃあ鍋食いに行こう!俺いいところ知ってんだ」
 そう言って犬は人の流れに沿った先にある店を指さす。
 案内したがるその様はまさに犬が人に散歩をせがんでいるようだった。決して玻月が見せることはない行動であり、確かに犬と狼と違い過ぎるなと実感させられた。