三千世界   四ノ四




 有りもしないはずの罪悪の気持ちに火を付けられるような視線に見送られ、雌は二羽どころか三羽も付けられて苦労した。
 せめて二羽にして貰いたかった。
 金さえ払えばいいだろう、という態度が遊郭の連中の癇に障ったらしい。
 そのくせやってきた雌たちは上機嫌で奉仕をするのだから。邪険にされた方が楽だっただろう。
 羽を浮かび上がらせる者について、知りたいことを知られれば良かった。だが雌たちは「抱かずにそんなことを聞き出すだけだなんて馬鹿にしているのか」と鼻で笑ってはのし掛かってきた。
 遊郭に行くと雌は怖いと思うものだが、どうして例外がないのだろうか。
 煉絢がその最上であることは間違いないので、どんな雌に当たったところで諦めは付くけれど。
(盛りの薬は怖えな)
 これでも付き合ったことはあるけれど、発情期の獣たちはその貪欲さが凄まじい。鳥も同様であり、一羽で充分なのに三羽はきつかった。
 話を聞き出すとすぐさま風呂に入ることを願い、多少無理を利かせて入れて貰った。朝に沸かされるそれは数刻早く用意された。
 雌たちは風呂にまで一緒に入ろうとして来たので、それは頑なに拒んでようやく弛緩することが出来た。
(冗談じゃねえ)
 どれだけ人を良いようにするつもりなのか。
 体力気力共に奪われ、いっそあのまま横になって眠ってしまいたかった。
 しかしそれをしなかったのは、玻月の様子が気になったせいだ。
 ここの主である雌が良からぬ気遣いで雌を寄越してはいないか。ちゃんと大人しくしているのか。気になって安眠することなどほど遠い。
 まるで子守のようだ。
 冬に発情期を迎えた相手に子守も何もあったものではないのだが。心境としてはそうとしか言いようがない。
 そして玻月に会おうと思えば、雌たちの匂いを付けたまま行けないと思ったのだ。なので時間のずれた風呂になった。
 綺麗に洗い流した身体で玻月のいる部屋に戻ると、中は暗かった。
 灯籠の火を消し、玻月はひっそりと部屋の片隅にいた。すでに傾きうっすらと眠気を纏っているような月の光が格子越しに下りてきている。振り返った玻月はその光の下でも分かるほど恨めしそうな瞳をしていた。
 思わず目を逸らしたくなる視線だ。
 雌たちを相手にした後に見ると、その幼い顔立ちと成獣になりかけている身体がよく分かる。
「寝てないのか」
 尋ねると玻月の目が鋭くなる。確実に怒っているのだ。
 表情の乏しい子がこれほど感情を見せるというのは珍しい。
 腹の奥がひんやりとし、何とも複雑な気持ちになった。
(謝るのも筋違いだろうしな)
 だからといって開き直るのも正しくないのだろう。己が間違っているとは思っていないけれど、非道ではあるかも知れないという自覚はあった。
 どうするべきなのか、これまでにぶち当たったことのない問題だ。
「怒ってるか」
 実に間抜けな質問だ。見れば分かるだろうがと怒鳴られても仕方がない。
 だが玻月はその問いに肩を落としては目を伏せた。
 まだ何も言っていない、言われていないのに、これでは綜真が責めたかのようではないか。
「……俺にはそんなこと許されないって分かってる」
 綜真を拘束することは出来ないのだ。そんな力はどこにもありはしない。
 文句の一つも付けられない立場であるのだと玻月は思っているらしい。
 そしてそれは綜真にとってみてもなかなかに否定し辛いことであった。
「だが嫌だったんだろ?」
 だったらいっそ怒れば良いのではないか。そうすれば綜真も何か言えたはずなのだ。
 仕方ないだろうと、これが手っ取り早いのだとも言えた。そこから玻月を宥めようとも、叱ろうともした。
 だが玻月は黙る。ただ辛そうに小さくなる。
 今もそうである。
 問われても唇を噛んで、答えてはいけないと己に言い聞かせるように身を縮ませる。
 怒りはしない。冷淡に突き放したりもしない。
 そう告げなければこの子は己の気持ちを吐露しないのだろうか。そんなに己は信頼出来ぬ、心寄せるには恐ろしい相手なのか。
(まぁ……おまえだけを見ると断言してやれねぇ時点で俺は酷い男だな)
 無理もない態度だ。
「悪いな」
「……どうして謝る」
「気持ちのもんだ。おまえにそんな面させたいわけでもない」
 つまるところその顔が気になるのだ。
 止めさせるなら謝るくらい他愛もないことだった。
 そう言うと玻月は立ち上がった。どうするつもりかと思っていると綜真の前に膝を突く。
 目線を合わせると躊躇いなく口付けてくる。
 最初は恐る恐るだった行為だが、いつの間にかこの子も慣れてしまったらしい。
 それだけの数、繰り返してきたのだ。
 発情期を過ぎても玻月はこれを止めなかった。交尾の時だけでなく、したくなったらしても良いものなのだと誰かに聞いたらしい。
 果たして誰であるのか。村か家族の誰かであると思いたいけれど、煉絢であったのならば後が怖い。
 二度、三度と触れて頬を寄せてくる。
 その時にはもう灰蒼色の瞳が蜜のように溶けていた。
 触れられるだけで嬉しい、側にいられるだけで幸せだと、全て捧げてくれるその姿。
(これが毒だ)
 じわりじわりと浸食してくる。これなしではない生きていけないように己を変えられてしまう。
 玻月は己の思うままに動いているだけに過ぎない。けれどそれは狼が持つ猛毒なのかも知れない。
 溶けた蜜に吸い寄せられるかのように、綜真は玻月の頭を引き寄せて自ら唇を塞いだ。
 無論玻月のように重ねるだけの口付けではない。
 舌を差し込んでは好きなように口内を貪る。
 雌たちには許さなかったことだ。舌を噛まれると厄介なので口付けは好きではない。
 だが不器用な子の舌を絡め取り、戸惑いを感じながらも己の色に染めるのは愉快だった。
「っふ、んん……」
 喘ぎのような声が途切れ途切れに溢れてくる。
 濡れたその音に、もういらぬと思ったはずの情欲がどこかから沸き上がってくる。
 けれどここでそれを満たすわけにはいかない。
 この子には、この狼には盛りの薬など飲ませていないのだ。こうしている間にも、玻月が感じているのは己のものとは異なる。
 意を決して離すと、玻月はまた頬ずりをしてくる。
 犬でも狼でもない綜真にとってそれはいつまでも慣れない仕草だ。
「人はいつでも交尾が出来る、盛りを続ける生き物だと聞いた」
「だからおまえはそういうことを誰に聞いたんだ」
 玻月の口から聞こえてきたことに、とっさにそんな疑問を返していた。
 しかし玻月はゆっくりと首を傾げた。覚えていないのか。
「年中発情期みたいに言われるのは癪だが、まぁそんなに間違ってねえな。いつでも交尾をしてえって気持ちはある。人によるがな」
 そう人によるのだ。
 何も綜真が年中誰かを抱きたいと思っているわけではない。むしろその手の欲は強くない方だと思っている。
「だが人間には発情期はない。だから頭がおかしくなるような衝動もねえよ」
 獣たちが互いを求め合う、あの激しい季節は存在していない。ただ日々のったりと欲情が生まれ、消えていくだけだ。
 問いに答えたのに玻月の瞳は腑に落ちたものにはならなかった。むしろ疑いのような眼差しを向けられる。
「おまえは、俺と一緒にいるのにそういうものを見せない」
 見せられるはずがないだろうが。
 そう喉元まで出かかった。
 第一先ほどまでの態度を踏まえた上で言っているのだろうか。
 綜真が遊郭に来ていることに、あれほど不満を見せていたのに。どうしてして来なかったのだと言わんばかりの顔は何故だ。
(子ども連れで遊郭に行くことなんざ出来ねえだろうが)
 今回も苦肉の策である。
 そして一応玻月は発情期を迎えた成獣であるという名目もある。
 以前のようにまったくの子どもであったのならば情欲ばかりのところに行かせるのも躊躇うところだった。
 よく捨ててしまうのだが、道徳観というものも欠片は持っている。
「やらなきゃやらねぇで、平気なんだよ。発情期じゃないんだ」
 どうして交尾しないのかと、きっと玻月は純粋な疑問もあるのだろう。
 自身があれほど狂おしいまでの欲に悩まされたせいだ。
 しかし綜真はあれほどの衝動にかられることはなく、せいぜい下肢が重いなと思う程度なので支障はない。
「でも」
「気にすんな」
 気にしたところでどうなるというものでもない。まだまだ玻月は己を諦めないのだろうし、目的の術師を見付けることも出来そうにない。
 変わりない日々が続くのだ。
「……俺がする」
 話も一段落したと思った綜真の耳に信じられない一言が入って来て、さすがに息が止まった。
 冗談かと言いたいところだが、玻月は冗談など言わない。
 そしてあぐらをかいた綜真の膝に手を置いて上目遣いで見上げてくる子は本気だった。
(待て待て待て、もう無理だ)
 もう出したくない。
 いい加減疲れているのだ。全く盛っていないのかと聞かれるとやや自信はないのだが、それでもやりたいわけではない。
 むしろ寝たい。後はもう安らぎの眠りに落ちてしまいたい。
 まさかここでそれを遮られるとは思っていなかった。
「待て。おまえは春じゃねえだろうが。発情期でもないのに何くわえようとしてる」
 足に手を置く子は、じっとそれを見下ろした。足の間など凝視して欲しくない。
 そして無言で答えなくても良い。
「やる」
「やらんで良い」
「嫌だ」
 ああ…と天井を仰ぐ。何故己のことになると玻月は意固地になるのか。
 それもつがいにだけ感じてしまう心のせいなのか。
「また今度だ今度。俺はもう寝たい」
「俺は、おい」
 おいと言われながらも綜真は玻月を抱え込んで横になった。
 真冬の間はこうして寝ていた。暑くなってくると密着するのはやや億劫で少しばかり距離を置いていたのだが。遊郭の中はややひんやりしている。
 水の源を持つ者が涼を流しているのだろう。
 熱いことをするのに、部屋の中が暑くてはだれてしまう。
 そのため玻月に添い寝を強いても汗をかかずに済みそうだった。
 目を閉じて先に寝てしまえ、そうすれば玻月のねだりも聞かずに済む。そんな汚いやり方だったが、玻月は一つ深く息を吐いては綜真の身体に手を伸ばしてきた。
 そのいじらしさにまた己を締め付けられるようだった。