三千世界 四ノ弐 まぁ上がれよ、と促されて家の中に上がる。 変色して元の色が何であったのか分からなくなっている畳。四方の壁に棚が置かれている。そこには書物であったり、壺であったり、皿であったり。全てが薬に通じるものたちばかりが置かれている。 おかげで部屋に入った途端に苦い匂いが漂って来ていた。 綜真が来るまで締め切られていたのであろう。空気は重く、長い間閉じ込められていた鬱屈感が漂っている。 居心地が良いとは言えない部屋だ。 だがそれでも日差しは遮られ、窓からは若干風も入って来ている。 簾の向こうが灼熱であることを思うと、まだましなのだろうかと些末な差に己を落ち着かせた。 「源なんてもんは全部己のもんにしたいんだろ。己のもんに出来ないなら、どうにかそれを練り込んだ何かを作り出して形にしたい」 男は卓袱台の前にどっかりと座り込んだ。 手元には紙と墨がある。背中側にあった棚に手を伸ばして筆を執ると、岳丹は紙に何か書き始めた。どの薬草をどの程度、どの薬草と混ぜるのか。どんな効果があるのか。 頭の中で文字の羅列は完成しているのだ。岳丹はよどみなく綴っていく。 先ほどまで取りかかっていた薬の調合だろう。 「そうして出来たのがおまえだ。血は争えないさ」 月の源を己のものにしたい。どうしてもこの身体の中に宿したい。 そう願った綜真に岳丹は今と同じことを言った。 血は争えないな。 それは綜真も感じていることだ。 父と母は源に取り憑かれた人間だ。その二人が己たちの力を重ね合わせて、形にしたのが綜真だ。 己たちの源を形にしたのが綜真であるのならば、その綜真がまた己には無い源を貪欲に探すのは自然なのではないか。 幼い頃からずっとそう思っていた。 他者が浅ましいと言っても、おぞましいと言っても、綜真にとってはそれが当然であり、そのために生まれたのだから理由すら不必要だ。 だが岳丹の口から語られるのは愉快ではない。 「あの二人はどうしてる?」 綜真の両親を知っている岳丹の質問に肩をすくめた。 「知るか。生きてるだろ」 もうずっと会っていない。 ただの人間ならば長年会っていないと病を患っているのではないか、もしかすると亡くなっているのではないかと不安になるものだろう。まして親ならば己より年を取っている。 けれど綜真に関しては、その心配とは無縁だった。 両親は人間離れしている己を生み出した者であり、本人たちも常人ではない。むしろ綜真よりもおかしなところを多々持っている。 簡単に死ぬとは思えない。 (ろくに年すら取ってないだろうな) 考えると遠い目をしたくなる二人だ。あまり強く出られる相手ではない分、近付きたくない。 「親……?」 岳丹と向かい合うように座った綜真の斜め後ろに腰を下ろしながらも、玻月は怪訝そうな声で尋ねた。 まるで綜真に親がいるということが奇妙であるかのようだ。 「ああ」 「いるのか」 「俺にも一応親はいる。木の股から生まれてきたわけじゃない」 そう言いたくなる気持ちは理解出来ないでもない。我ながら真っ当とは思えない人間だ。けれど親の存在なくしてこの世には生まれていない。 生命の営みにはきちんと関与している。 無表情ながらも玻月がやや疑っているのが感じられた。 「坊主。この男の親はな、恐らく今のこいつとそう変わりない姿をしている筈だ」 それがどれだけ異様なことであるのか、玻月にも分かるだろう。「何故……」と疑問を零している。 淡々としているその態度が面白いのか、岳丹は楽しげに笑っていた。 「この男が人より多くの源を持っているのは知っているか?それが自然では有り得ないことも」 玻月に語りかける岳丹を見て、綜真は身体をずらした。玻月を視界に入れるとこくりと頷いていた。 「火と水。陰と陽。相反するものを両方身体に宿すなんて出来ないんだ。だがこいつは己の身体を真ん中で二つに分けて、両端に反発し合う源を宿してなんとかそれらを保ってる」 玻月は真剣に岳丹の声に身を傾けているらしい。頭の上にあるふわりとした獣の耳が前に向けられている。 それほど興味のあることだろうか。 (親の話なんぞしたことはないが) この年になると親うんぬん等とは言わなくなるものだ。 それ以前に己の身体についてもそう詳しく説明したこともなかったような気がする。玻月が訊かないからといって、自ら喋るようなことでもないからだ。 「そんなことは出来るわけがねぇんだ。己の身体の真ん中で綺麗に線引きして、源が混ざらないように区切るなんて、襖で部屋仕切ってるのとは話が違う」 人間の身体には血やら気やらが巡っている。循環しているそれらがある限り、区切るなどということは本来不可能であるはずなのだ。 「それがどうして出来てるのか。そりゃこいつの親の仕業だ。母親が水と陰、父親が火と陽か?の天才だったんだよ」 天災とすら言える。 彼らは術師としては頂点に立とうかという源の持ち主であり、使い手だった。 人間では珍しい。 神格であるのならばその神々の庇護にあり、源を多く宿して生まれてくる。その道を究める者も数十人に一人は出てくるだろう。 だが人間となると、どの源を宿すかはその人によって異なり、火であり、水であり、土や風、個々それぞれ異なる源を持つ。何を持つかは遺伝に寄るところが大きいらしい。 そして中には二つ、三つ源を持つ者もいる。無論相反することのない、属性の似た源たちだ。 人間がそういう性質であるせいか源を持ったとしても、驚異的な強さの源を持つ者は滅多にいないのだ。 「だが親は、その道の天才ではあっても母親は火を持つことが出来なかった。父親だって水の源に触れることは出来なかったんだ。二人はそれが不満だった」 とても欲深いことだと思う。 綜真は己がすでに初めから源を多く持っていたから、それが当然のものとして受け止めているからこそ、さして驚きもなく聞いているのだが。常人にとってみれば、一つの源だけでなく二、三つも持ち、あまつさえその源の術師としてかなりの技能を持っているのに。まだ何を望むのか、というところらしい。 「そして己の持つ源が己の代で尽きることも、また次の代に引き継げたとしてもその源が薄まることは許せなかったらしい。それどころか己よりもっと強い源を持つ、己より多くの源を持つ子が欲しいと思ったらしい」 とんでもない話だ、と人事ならば言った。 しかしそれが己だと思うと途方もない馬鹿話が現になったものだと呆れる。 そして玻月の真面目な顔を眺めていると、笑いもしない驚きもしない様に、やはりまだまだ情緒が薄いなと思う。 「そんな二人が出会ってしまい、出来上がったのがこの男だ」 「出来上がったなんて言うとそば粉練ってそば作ったみたいな言い方だな」 混ぜて捏ねて叩いて伸ばして、そんな単純な作業で綜真が生まれたかのようだ。 「作ろうと思って出来るもんじゃねえ。だがここは出来ちまった」 それだけの才があってしまったのだ。 「こいつの中に多くの源を宿すため、母親は三年以上もこいつを腹の中に留め続けたって噂だ」 「噂だな」 「実のところ、何年いたんだ?」 「知るか」 綜真の中に多くの源を宿すということは決して容易なことではなかった。両親はそれは苦労したらしい。 時間もかかったのだと幼少時代話してくれた。 だがどれだけ時間と労力がかかっても、彼らは出来てしまった。 そして一体どの時期に最も気を遣い、源を流し込み、調整していたかと言えばきっと母親の腹の中にいた頃だ。なので三年留めたと言われても綜真自身は空言だと笑いはしない。 しかしそれが真実であるかどうかは知らない。今更己の年が一つ二つ増えたところで何も代わりはしない。 「そうやって生まれた男だ。これは怖いよ」 岳丹はからかうようにして玻月に笑みを見せる。だが元々笑っているような糸目なので、あまり違いはないだろう。 「この見た目でこいつは何年生きていると思う?人間の筈なのに」 良くないところを喋っている。 綜真の口元が歪むけれど岳丹はお構いなしだ。 「おまえだってそうだろ」 岳丹の見た目は三十過ぎ、せいぜい見積もっても四十だろう。だが綜真が子どもの頃から岳丹はこの姿をしている。計算が合わないのだ。 「僕は薬を使って年を止めようとしてるのさ。それでも完全に止まることはないから、これでも老いてるんだよ」 「俺だってそうだ。人より遅いが、年はちゃんと取ってる」 ただの人と比べてどれほど遅いのか。それを訊かれると到底答えられない。 綜真自身もちゃんと考えたことはなかった。ただ他人は随分早く時を過ごしているのだとは思う。 「はっ、薬に頼って年止めるのと、自らの力だけで自然と年を止めるのとでは大きな違いがあるんだよ」 岳丹は口をへ文字にして忌々しそうに吐き捨てる。 時を止めてしまいたいと思ったことがあるのかも知れない。 しかし薬があろうがなかろうがやっていることは同じ。さほど差があるとは、綜真には思えない。 そして神格として人よりかは年を取るのが緩やかな玻月には、ましてそんな気持ちは理解出来ないだろう。 相変わらず黙って聞いているだけだ。 「ま、それはいいとして茶でも飲めよ。何も無いってのも悪いしな」 卓袱台の上に何もないことにようやく気が付いて、岳丹がそんなことを言い出す。だが綜真はそれを手で制した。 「いらねえよ。何仕込まれるか分かったもんじゃねえ」 「失礼だな」 「やられたことは忘れねえぞ」 初めて岳丹のところに来て出された茶を飲んだ時には、身体中が痺れて源が身体の中で凍り付いた。源を止める薬を作っている最中だったらしく、多くの源を持つ綜真にも効果があるのか気になって試したようだった。 勿論同意を得ることなど初めから考えていない。 源が止めるということは綜真にとって命を握られるのと同等の恐怖があった。あの時の激情と恐ろしさは今思い出してもはらわたが煮える。 よくあの時殺さなかったものだ。 以来岳丹の家で出される物には一切口を付けなくなった。 「だったら何しに来たんだよ」 茶を辞退すると岳丹は途端にやる気をなくしたように卓袱台に頬杖を突いて、斜めに綜真を見上げてくる。 喋るのも怠いというような態度に、さすがに半眼にもなってしまう。 「少なくともてめぇに盛られるためじゃねえ」 誰が自ら薬を試されに来るものか、と毒づくと岳丹は唇を尖らせた。 本当に薬以外には配慮の欠片もない男だった。 次 |