三千世界   四ノ壱




  豊かな水が流れていく。川の浅瀬は涼しげで見ているだけで喉が鳴る。
 耳の奥で反響するほどうるさい蝉の鳴き声や、じっとしているだけでも背中を伝っていく汗。じっとりとした気候に綜真は言葉を発することも嫌になっていた。
 太陽の光を浴びて水面がきらきらと輝いていて、美しいとは思う。そこに浸かれば涼が取れるということも分かる。
 けれど川から上がった際に己の着物がじっとりと濡れているところを想像するだけで苛立っていた。
 暑いのは嫌だ。けれど濡れるのはもっと嫌で、水気をたっぷり吸った着物に纏わり付かれるのは言語道断だ。
 なので眺めていることしか出来ないのだが、その視線の先にはまだ幼い犬のような子が座り込んでいた。
 足を投げ出して、もう動きたくないとばかりにうなだれている。
 腰まで水に浸かってとても涼しげではあるのだが、日光に晒されていては焼けるだろうに。
(せめて日陰に行けばいいだろうが)
 どうしてそんな日の当たる場所で座っているのだろう。
 暑さで頭がぼんやりとしているのだろうか。
(……それにしても育ったな)
 金色に近い髪の色をした、犬によく似た狼の雄を捕まえて綜真はしみじみと思う。
 発情期を迎えたので成獣と言っても良いはずなのだが、細く骨の目立つ身体は成獣にしては頼りない。
 人間である綜真が力を込めて抱き締めれば、きっと節々が軋んで折れはしないが歪むくらいは有り得るのではと危惧してしまう。
 獣の神格であるはずなのに、頑丈さが見当たらない。
 だが実のところ賊の中で育っているので身体は丈夫で力もあるのだが、容姿がそれを覆い隠しているのだ。
 けれどもっと驚くのは、これでも出会った時に比べれば随分と大きく、そして体付きもしっかりしてきたということだ。
(初めて見た時は年より五は下に見えたからな)
 伸ばしっぱなしの髪はそろそろ肩に付く。切ってやっても良いのだが、うなじの形に何やら落ち着かない気持ちになるので、ついつい後回しにしていた。
 発情期に相手をしてやったのがまずかったのだろう。
 細くとも、顔立ちに雄々しさが欠片もなくとも、玻月は雄だ。同じく男であるはずの綜真が連れ合うには相応しくない。
 そうは分かりながらも玻月はつがいを綜真と決めて譲らない。その頑固さに押される一方だ。
 玻月が己を性の対象として見ろと強要するわけでも、匂わせるわけでもない。ただ従順さを持って、迷いの無い瞳を向けてくるだけだ。
 それが後ろめたいのも、痛いと思うのも、己の性であり性根の話だ。
「魚にでもなるつもりか?」
 川に浸かったまま出てこない玻月にそう声を掛けると、顔だけがこちらを向いた。
 表情の薄い子だ。今も何を思っているのか計ることは出来ない。それでも悪意など微塵もないことだけは断言出来た。
 玻月は綜真に答えるかのように、突然川の中に浸けていた腕で素早く水を掻き上げた。
 何かをすくい上げるような仕草の直後、ぴちゃんと川縁にいた綜真の足下に魚が一匹飛び出してきた。
 玻月が獲ったのだ。
「なるほど」
 川の中でじっとしているのは水に馴染んで魚を誤魔化すため。涼むという理由もあっただろうが、昼飯時なので漁をしていたのだろう。
 玻月は続けてもう一匹獲ったが、ちゃんと飯を獲っている割には不服そうだ。
 溜息のように深く息を吐いては肩を落としている。
 暑いのだ。
「魚は美味そうだが、火は使いたくねぇな」
 丸々と太った魚は元気よく土の上で跳ねている。
 塩でもまぶして食べればきっと美味しいのだろうが、火を使うという行為に抵抗を覚えた。
 これ以上熱いものに近付きたくない。
 そんな綜真をせせら笑うように、近くの木で蝉が鳴き始める。鼓膜に対する攻撃だ。
 舌打ちをし、蝉を落としてやろうかとすら思うがそんな綜真の思考を止めるかのように、また一匹魚が揚がってくる。
「生で食うのか?」
 玻月は最後とばかりに一匹掴むと川から上がって来る。
 腰から下がしっとりと濡れていて水が滴っている。綜真と違って玻月は濡れていても気にならないようだ。
「さすがに生で食う気にならねぇな」
 人間なので川魚を丸のまま生で食べる趣味はない。川魚は塩焼きが最も美味いと思う。
「よくやった」
 上がって来た玻月の頭を撫でると、無表情だった子が目を細めてそれを受け入れる。口元に緩みはないけれど、瞳はほころんでいる。
 これでも己の歓びをよく出すようになった方だ。
 そして同時に己がこの子の感情を目敏く感知するようになった証拠でもある。
「しかしこれだけ暑いと参るな。やっぱりこの辺は夏に来るもんじゃねえ」
 気儘に南に下りてきたけれど、夏の南はやはり暑い。
 土地の気候を知りながらも足を運んだので、自業自得と言えばそれまでなのだが。久しくこの辺りには来ていなかったので、実感を失っていたとも言える。
「戻るのか?」
「いや、ここまで来たら帰るのは無駄足だ。この辺に面白い男がいてな、それに会っていく」
 紅猿の行方を捜す、玻月がここにいる理由の一端を忘れたわけではない。
 そのために情報が必要だった。それに紅猿は元々は南の方で活動していた盗賊であるとは聞いている。
 もはや分裂を繰り返して消滅しかかっている集団とは言え、活動が主であった場所ならば何かしらの噂でも漂ってこないだろうかと思ったのだ。
 そして綜真はこの辺りに馴染みの人間がいる。
 それならば何かしら面白いことを知っているのではないかと思ったのだ。
 綜真の行動に玻月は口を挟まない。綜真のすることが己のすることであると思っているかのようだ。
(俺は、形代の代わりなのかも知れない)
 紅猿が作ったもう一匹の玻月。己と同じそれを玻月はまだ求めているのかも知れない。だが求められないとどこかでもう知っているから、代わりになるような、依存出来る先を欲しがって綜真の元にいるのか。
 しかしたとえそうだったとして、切り離すことが出来るはずもないだろう。
 傍らにいる者に対する悩みが日々降り積もっていく。溜息を押し殺しながら、己の行く先の曖昧さに目を逸らした。



 それから一日かけて男の家に辿り着いた。
 夏場の野宿は楽で良い。むしろ真昼は日陰で休み、夜の間に動いた方が良いのではないかと思うくらいだ。
 暖を取るために寄り添って寝るようになったのだが、玻月はまだその習慣を引き継いでいた。さすがに重ねるような形では暑いので、肌を触れさせるようなことはないけれど。それでも間近で、いつでも触れられる距離にいた。
 敵襲を考えてもこの距離は正しいのだが。懐かれているということを視界いっぱいに感じては時折複雑な心境になった。
 村から少しばかり外れた土地に、隠れるようにしてその家は建っていた。寂れ、傾き、強い風が吹けば壊れてしまいそうだ。
 人が住んでいるのか疑いたくなるけれど、中から気配がする。
 綜真は遠慮無く戸を叩いた。がたがたと衝撃よりも大きく戸は揺れて内側に倒れてしまいそうだ。
(建て直せ)
 来る度に思うことを今日も思ってしまう。
 しかし戸を叩いても、中の気配は動くのに返事がない。面倒になって戸をがらりと開けた。
「邪魔するぞ」
「ちっと待て。風を入れるな」
 その言葉を意図することを綜真は読み取り、とっさに戸を閉めた。
 それに抗えば男が酷く怒ることを察知したのだ。
 礼儀などをすぐに放り投げる綜真だが、相手が許せない線引きはどこであるのかくらいは計る。
 男は暫くして「やれやれ」と言いながら出てきた。
 糸のように細い眼。白髪交じりの髪の毛を一つに括り、顔色はあまり良くない。痩せた身体を見ると病かと思うかも知れないが、もうずっとそんな様子で生きている。
 きっとこの男にとってはこれくらい陰気であるほうが安定しているのだろう。
「なんだ、おまえか」
 男は綜真を見るとめんどくさそうな顔をした。そんな風に反応をされるのは慣れているので何とも思わないが、その手に粉が付いているのを見て、やはりかと納得した。
「また毒でも作ってたのか?」
 この男は、岳丹は普段は薬の調合をして生計を立てている。だが本人は薬より毒の方が好きで、裏では毒をさばいて売っているらしい。
 もっとも毒を売るのは本業ではないということで、顔見知りに多少融通する程度らしい。
 綜真もかつて毒を流して貰ったことはあるけれど、その時もだいぶん渋られた。
「人聞きの悪いことを言うな、どこに耳があるか分からん」
 岳丹は戸から顔を出して周りを見渡す。どうせ誰も居はしないというのに。
「あー、なんだ。久しぶりだな。五年ぶりくらいか?」
 改めて向かい合うと、岳丹は記憶を呼び戻そうとしているのか綜真を見上げてくる。糸目は細すぎて本当に見えているのか謎だ。
「覚えてねぇよ」
 この前ここにいたのはいつか、なんて。そんな覚えていても得にならないことをわざわざ思案するのも馬鹿らしい。
 岳丹も同じだろう、それもそうかと言いながら綜真の横にいる者に目を止めた。
「犬飼ってんのか」
 出会う者のほぼ全ての者が玻月を見ると犬だという。狼が人間に連れられているなんて、有り得るはずがないからだろう。
 まして明るいその髪の色は犬によくある色だ。
 玻月自身もそう言われたところで怒ることなく黙っているので、放置すれば玻月はどこに行っても犬として認識されることだろう。
 だがもし親がその事実を知れば激怒することは間違いない。
(狼の村近くでは絶対に言わせられないな)
 綜真もまだ我が身が可愛い。そして狼と揉めるのは勘弁願いたかった。
「犬じゃねぇ。狼だ」
「狼!とうとうこんな形で手に入れたか!」
 綜真がずっと月の源を欲しがっていたことは岳丹も知っている。むしろ綜真の知り合いはみんな知っている事実だ。
 なので月の源を宿している狼を見れば、ついそんな連想をしてしまうのだろう。綜真の願いはそんな簡単なものではないのだが。
「これは俺が願ってた形じゃねえ。俺はてめぇ自身の中に宿したいんだよ」
「だが月は後から生き物の中に入れることは出来ないだろう。だったらこうして狼を手に入れることくらいしか出来ないだろ」
 正論ではある。だが綜真はまだ月を諦められない。己の中に入れられる方法はないだろうかとまだ探している。
「攫って来るほど欲しいか。貪欲だな」
「誰が攫ってくるか。こいつが自ら付いてきたんだよ」
 人攫いをするほど落ちぶれていない。人相が良くないという自覚はあるけれど完全な悪党に成り下がった覚えはない。
「たらし込んだクチか」
「こんな子どもを誰がたらし込むか」
「いやぁ、おまえさんの貪欲さはよく知ってるさ。誤魔化すなよ」
 ははは気にするなと軽く笑う男に拳を握ってしまう。
 こっちは全部分かっているんだから、という根拠のないその理解は何だ。
「殴るぞ」
「いやいや、おまえのその欲深さは親譲りだろうしなぁ」
 なぁと言う男に、この男は役立つけれどその一言がやりづらいのだと思い出した。