三千世界 参ノ九 気まずさがたっぷり漂う中、顔を付き合わせていると火鉢からぱちりと炭の弾ける音が届いてくる。 部屋にある灯籠の火がが焦れるように揺れるその動きに、影が苛立ったように身じろぎをした。 「ここにいていいのか?雄を放ってきたのだろう?」 怒りを露わにしたまま黙り込んでいる華月に、父がそう声をかける。 引く手あまたという娘だ。この時期は一晩であっても暇がないのかも知れない。 「呼ぶ雄もいるんだろ。身固めはしないのか?」 その気になればつがいを持つことも、子を成すこともすぐに出来るだろう華月は、そんな言葉に嫌そうな顔を見せる。 「綜真までうるさい」 己のことなど、どうでもいいのだと華月は吐き捨てる。 これほど荒々しい口調になる華月は滅多にないものだ。 「玻月はどんな様子でしたか?」 「あん?」 「道中、あの子はどうやって暮らしてたんですか?」 その話をしろ華月は睨み付けてくる。 それは父親も同意するようで、綜真を促すように顎でしゃくってくる。 そういえば玻月が帰ってくるまでは、その話で酒を飲もうとしていたのだ。これでは到底酔えないだろうけれど、所望されるままに綜真は二年近くの歳月を語り始めた。 二人はじっと耳を傾け、玻月が感情をちらりとでも見せたことなどを教えると険しかった表情が和らいだ。 その顔を見るとほっとして、綜真は詳しく玻月の様子を話し続けた。 そうしている間に朝が訪れて、辺りは明るくなってきた。灯籠の灯りは黎明より先に途切れてしまったのだが狼たちは夜目が利く。綜真は暗闇の中で喋り続けていたので朝が来たことは正直有り難かった。 (長ぇ夜だった……) これほど心苦しい夜はそうなかった。 何度目になるかも分からないような重い吐息を吐き出すと、騒がしいまでに大きな音で門が開けられる気配があった。 それは家に入り込み「ただいま−」と告げる。 志月だ。 (もう一波乱、ってところか) 炯月と華月だけではない。玻月の兄も一人いたのだ。その兄も玻月のことを可愛がっていた。 当然この状況を快く思うはずがない。 頭痛を覚えていると、何も知らない志月は三人がいる部屋の襖を開けた。 「ただいま。玻月はどうだった?」 にやりと笑う顔は初めて雌を抱いただろう弟をからかおうとしているものだ。年長者として色々相談にも乗ってやろうという心構えすら見える。 だがそれを迎えたのはどんよりとした、悲壮な雰囲気だった。 「駄目だった」 何と言うべきか迷う綜真と違い、炯月は即答をしてくれる。 眉を寄せて、大変難しそうな様子だ。 「駄目だったって?」 「玻月は狼の雌でも嫌なのよ」 状況を飲み込めていない志月を見ることもなく、二人は教えている。 玻月が雌の扱いに失敗したわけではなく、純粋に存在を拒絶したのだと知り、さすがに志月も違和感を覚えたらしい。 怪訝そうな目で場を見つめている。 「じゃ、どうするんだよ」 同族が駄目な狼が、まさか他の種族を選ぶはずがない。そう信じている言い方だった。 きっとそれが狼たちの間では当然の反応なのだろう。 「玻月は綜真がいいって」 「は?」 「綜真を選んだの」 華月は押し殺すような声で言う。不本意であり、そんなこと口にしたくないのだろう。けれど、何も知らない弟には事実を突き付けなければならない。 「なんで……だって男だし、狼でもない。なのに」 分からない、と混乱を浮かべた後に志月は何かに気が付いたかのように綜真に尖った眼光を向けてきた。 「玻月に何教えた!あいつに変なこと吹き込んだんだろ!」 (またこれだ。繰り返しかよ) 父と姉に、散々やられた後だというのに。また同じことを言わなければならないのだろうか。 嫌気が差して明後日の方向を眺めたくなる。 「吹き込んでねぇよ」 「だったらなんで!」 「知るか!俺に稚児趣味なんぞねぇ!」 どいつもこいつも人を幼い獣を好んで、いらぬことを教え込んで手を付けたのだと言いたげなのが腹立たしい。 己にそんな腐った趣味趣向はない。むしろ嫌悪しているくらいだ。 成熟していない身体を見ても何の楽しみもないのだ。 ずっとそれを貫いているというのにこの扱い。いくら親しくしている狼たちでも堪忍袋の緒が切れる。 「ならなんでだよ!」 「誰に訊いてんだ!俺が知りてぇくらいだってんだ!」 「綜真が何かしたに決まってんだろ!じゃなきゃ狼なのにそんなことになるか!」 殴りかかってきそうな志月に怒鳴り返しながら、綜真は舌打ちをする。 「知るか。あいつは狼らしくねぇからな」 苛立ちに任せて口から出たことだが、狼の家族たちが一瞬で気色ばんだのが分かる。 まずったかも知れないと思うのだが、玻月自身が言っていることだ。 「らしい、らしくないの問題じゃない!狼の血が同族を選ばせる!育ちなんか関係ない!」 「そう言うおまえはここで生まれ育った」 問題じゃない、関係ない。そう言うけれど志月は狼の里で暮らしている! 玻月のように狼の里で暮らした記憶がなく、ずっと外に置かれた者ではない。だから本当のところは分からないのだ。 痛いところを突かれたと感じたのか、志月がぐっと言葉を呑んだ。 だがそこで大人しくなるような相手ではない。 「源が欲しいからってたらし込んだんだろ!」 「その話も俺は飽きたな。大体源って言ってもあいつの月はまだ寝てるだろ。成獣にもなってなかったのによ」 源がどれだけ宿っているのか、どれだけ扱えるのかも分からない。そんな子を手に入れて己のものにしたところで、ぞれだけの益かも分からないのだ。 話にならないほど浅慮な策だろう。 「親父の子なんだから月に満たされているに決まってるだろ!こんなたちの悪い人間!玻月がちゃんと選んだわけがない!」 たちが悪い性根が曲がっている、悪人、人でなし。それくらいは言われ慣れているのだが。この状況で罵られるのは腑に落ちない。 狼に対してはこれ以上ないほどに気を配り、骨も折ってきたものだが。 (好き勝手言いやがって。家族のことになるとすぐこれだ) 厄介な種族の質だ。 「顔だってそういいわけじゃない!源のことしか頭にない極悪人!源のためだったら何だってやるくせに!」 (まぁそうだな) 綜真としては言われていることにはあっさり頷くのだが。それを表に出せば火に油をそぞくようなものだ。 しらりとした気持ちで聞いていると、志月は牙を剥き出しにした。 「人間を止めた人間!こんな奴だと知ったら玻月が選ぶはずがない!」 どうしても認めたくないらしい志月は必死だった。 だがそれに答えてやる義理もなれば、気分でもなかった。 「好き勝手言ってるが。俺がそれらをあいつに黙ってると思うか?旅をしている間にそれくらいのことはあいつだって知ってる」 包み隠さずに、己は己らしく振る舞っていたのだ。旅の途中で綜真がどのような人間であるかくらいちゃんと分かっているだろう。 源のことにしか興味がないことも、初めに教えていることだ。 「じゃ、なんで!」 顔を歪め、志月はどこかにこの衝動をぶつけたがっていた。 嫌なのだ。どう足掻いても別の道を欲している。 「なぁ、きっと間が悪かったとか、相手との相性が悪かったとか。相手が玻月の扱い方雑だったとか、馬鹿にされたとか。そういうことじゃないか?」 玻月が狼の雌では駄目だったと言った原因を、今度は雌に求め始める。 そうであってくれと願うように志月は華月を見るのだが、それに姉は目を眇めた。 「私の友達に文句つけるつもり?あんたもお世話になったことある雌よ」 「え……な、なら調子が悪かったとか!」 姉に責められたせいか、その雌に心当たりでもあるのか。志月はすぐに矛先を変える。 「慣れたら大丈夫かも知れないだろ!せめてもう一夜くらい試したらどうだよ!」 玻月は里のことはあまり知らないのだからと志月が説得しようとする。 「そうだな。俺もそれはいいと思うぜ」 一晩だけで判断するのは早計だろう。 家族が納得しないというのならば、後一度くらい試してみれば良い。それでどうなるのかその目で確かめると良い。 「得心しねぇって言うなら、ここでもう一晩挑戦させればいい」 「だがまたあの怯えている玻月を見るのは耐え難い」 炯月は他の三人に比べて、明らかに渋っていた。 玻月がどれほど震えていたのか、そしてあの子が泣いているところまで見たのだ。かなりの衝撃を受けているはずだ。 「苦しむであろうことを無理強いするのは」 「親父!」 志月は声を上げるのだが、華月は悩ましげだった。 もう一夜ここで過ごさせるかどうか。狼たちの判断に任せようと、綜真は一人黙って結論を待っていた。 けれど彼らより先に、答えを出した者がいた。 「もう一晩と言うなら出て行く」 襖の向こう側から声が聞こえる。 足音はなく、言い争いに近くなっていた親子の声に物音は完全に消えていた。 綜真だけは蚊帳の外で意識を集中してなかったため、気が付いたので驚きはしなかった。 だが他の三人はそれに口を閉ざして硬直した。 全ての視線を集め、襖はなめらかに開かれた。 (……なるほど、一皮剥けるもんか) 敷居に立った玻月は凛然としている。淡い墨絵だったものが色付いて華やかさを増したように、狼は艶やかにその姿を変えた。 ただ発情期を迎えるだけでは成獣ではないのだ。 情を交わして、己が熟す期が来たのだと心身共に感じてようやく真の成獣になる。春が来て目覚めるように。 俯いては何も見なかった子が真っ直ぐ前を向いて、見ている者を射貫くような強さを身に纏っている。己を誇るということを知ろうとしている。 家族が望んだのであろう子が、そこにいた。 唖然としている人々の前で玻月は再び同じ事を口にした。 「出て行く」 断言され父親がはっとしたように「待ちなさい!」と制止をかけた。 「あんな思いはもうしたくない」 どのような恐怖であるのかここにいる誰もそれを知らない。 だから溝が深まるように、惑いが広がるのだ。 「何が怖いんだよ。雌は全然怖いもんじゃない」 先刻までそれを抱いていただろう狼が力説するのだが玻月は首を振る。 「俺にとってはそうじゃない」 「何か言われたりされたりしたのか?」 「されてない」 何故だと尋ねるばかりの志月に玻月は淡々と答えていく。 「ならなんで。ここで雌を選んでつがうのが狼にとっての一番なんだぞ!?」 それが良いに決まっていると信じ切って志月は叫ぶ。 華月も炯月も食い入るように玻月を見上げていた。 色香を纏って滲ませた子はそれでも表情を浮かべずにいた。結局のところ印象は鮮烈になったとがこの子の感情が乏しいところはまだ変えられないのかも知れない。 「でも俺は望めない」 「幸せになるためにはそれがいい!玻月!」 懇願するような志月に玻月は抑揚の乏しい声音で告げる。 「俺はそれが何か分からない」 大袈裟でも偽りでもないのだ。 玻月は本当に幸せというものが何であるのか、頭でも心でも分からないのだろう。 それは渇き切った子の記憶を思い知るようで、誰もそれに返す言葉がなかった。 次 |