三千世界 参ノ十 悲しそうなでも、寂しそうでもなく、玻月は幸せが分からないと言う。 事実でしかないからだ。 「でも他にも、もっといい者が」 「分からない」 志月がすがるけれど、それに返されるのは先ほどと欠片も変わらぬ言葉だった。 「綜真なんかに預けるんじゃなかった……」 (どいつもこいつも) 押しつけるような形で送り出したくせに、いざ玻月の選択が意に染まぬものになった途端、綜真に責を背負わせるのだ。 とんでもない性悪ではないか。 憮然としていると玻月の方が怒りを見せた。 「すぐ出て行く」 「玻月!」 「ここにはいられない。綜真が責められる」 家族より綜真を取ることに何の躊躇もない。 それは綜真にとっては喜ばしいことのような、弱ることのような。玻月が発情してからはそんな複雑な心境になることばかりだ。 「それは……狼の子を取るなら仕方ないことで」 志月がしどろもどろになりながら言い訳をするけれど弟はそれに眦を上げる。 「綜真のせいじゃない」 心の中で激しく頷いてしまった。 玻月が選び、玻月が始めたことだ。綜真は巻き込まれたに過ぎない。 ただ家族はそう思いたくないだけだ。 「俺は自分を狼だと思えない」 「おまえは狼だ!」 身体に流れている血がそう言っているに違いない。それは玻月だって分かっているはずだ。 獣たちにとって見た目や言葉などよりずっと確実に知ることが出来る、匂いが親族であることを示しているはずだ。 「ここにいても心地は良くない」 (ばっさり言ったな) 家族にとってそれがどれだけ残酷なことであるか、察せられないはずはないだろう。 玻月のためを思って、玻月を大切にしたいと願っている者たちにとって。それは決して聞きたくなかったであろうことだ。 側にいたくない、なんてことは悲痛でしかない。 現に家族たちは目を丸くして、耳に届いてきたものを拒絶しているように止まっている。 「だから出て行く。綜真と一緒にいる」 玻月の決心に、綜真はそろそろ己は本気で殺されるかも知れないと感じ始める。 狼の子の心を弄び、自らの良いように操っているという冤罪すらかけられかねない。 「……綜真が嫌だと言えば?」 父親は絶望すら覚えているようで、暗く沈んだ声をしていた。 玻月が帰って来てから月日が過ぎたわけではないのに、あの時には考えつかないほど老け込んでしまったかのようだ。 「一人でも出て行く」 さすがに悪いと思うのか、玻月は後ろめたそうに顔を背ける。 しかし答えは一貫していた。 「そんなにここは嫌か?」 「綜真の元がいい」 そんなに好かれているとは思わなかった。そう言いたいところだが、とてもではないが綜真に発言出来る隙間はない。 置物のように黙っているだけだ。無視されているだけましだと思う。 「連れて行かせなければ良かったな。私は一時的に預けるだけのつもりで」 炯月は頭を片手で支え深く俯いた。 「おまえに玻月をやるつもりなど、まして狼ではない者にするなど思ってはいなかった」 その目は見えない。けれど炯月の殺意は明らかに綜真に向けられていた。 互いが纏っている大気がきしみ始める。 ぞわりと背筋に走る冷たい悪寒に、風がもう待てはしないとばかりに騒ぎ始めた。 締め切っているはずの部屋に、微かな風が生まれ始める。 絶句している姉弟と玻月が違和感に気が付いては、耳を忙しくなく動かしている。 (里の中に腕が立つと噂される狼。殺すに殺せぬことはないだろうが) 容易に、とはいかない。まして娘と息子までいる。 頭の中で源を組み上げる準備を始める。どこで殺し合いになるか分からない。 「私から玻月を奪うのか」 低く、全てを呪うかのような呟きだった。 地の中から憎しみの塊を呼ぶようなそれ。穏やかな佇まいがよく似合うこの狼も、このように狂いそうになるのかと思うと。興味深くはある。 「何故、そんなことを言う」 返答をしたのは、玻月だった。 しかも泣き出しそうな音に、綜真すらはっとさせられた。 「俺から何もかも奪うのか…!」 ばんっと玻月は背後の壁を後ろ手で殴る。 己が吐き出すことの出来ない感情をそうしてぶつけているようだった。 「おまえたちが家族であり、血が繋がっているのはきっと本当なんだろう!でも家族の記憶なんて俺にはない!俺にとって家族みたいなものだったのはもう一人の俺と術師の女だった!」 何年も玻月はその二人、厳密には一人と生きてきたのだ。 寄る辺はそこだけ。 己とは違い過ぎる者たちに囲まれて、歓迎されることはなく、毎日を辛うじて過ごしてきたことだろう。 どれほど優しくされても玻月を囲んでいた暮らしを思うと、すぐに心を開けというのも、家族だからという言葉も、きっと厳しいものだったのだ。 心を閉ざして己を守ることに必死だった子にとって、他者とは危険なだけの存在でしかなかったのだろう。 「その二人もいなくなって!一緒に探してくれる綜真を頼って!」 玻月は痛みに歯を食いしばるように大声を出していた。 それは他者を遠ざけるため、拒絶するための言葉だ。けれど綜真の耳には「分かって欲しい」という切なる祈りのように聞こえていた。 「好きになったらそれも奪われるのか!俺はっ…何も持ってられないのか…!」 堪えきれずに玻月の双眸からは涙が溢れ、怒声は嗚咽に塞がれてしまった。 それでも玻月は膝を折らない。 力を抜いてしまえば、座り込んでしまえば、その隙を突いて傷付けられると警戒しているかのようだ。 落ちていく涙に綜真はこれまで共に歩いてきた子の姿を思い出す。 欲しがらない子どもだった。 何もいらないといつも言っているような、無欲な子。 だがそれは求めたところで与えられないせいだと勘付いてはいた。 同時にこの子はいつか何かを全力で欲しいと思うことがあるだろうか、奪い取って己のものにしたいという執念を持つことがあるだろうかと。 もしその時が来たのならば、その欲は絶対の力を持って叶えられるのだろうと考えていたものだ。 まさか対象が己になるとは思い付かない頃だ。 望むことは何であっても叶えてやりたいと言っていた父親は玻月の涙に、まるで殴られたような顔をしている。 そうして暫く凝視していたかと思うと唇を噛んだ。 すぐに薄い皮膚が切れて血が流れる。 「家族とは、縛るものではない……」 絞り出すように、父は切れた唇でそう紡ぐ。 それに弾かれるように姉弟は父親を見た。 「決して家族の絆は束縛ではない」 「父様……」 「私はそう信じていた。そうしてきたつもりだった。なのに……忘れてしまっていたのか」 父は立ち上がり玻月の前に立った。 体格は明らかに炯月の方が良い。距離を縮められて、玻月は全身を硬くした。 その反応にすら炯月は眉を寄せて痛ましそうな表情を見せた。 「綜真と共に行く」 ぐっと拳を握って玻月は宣言する。すると炯月はその足下に膝を突いた。 「ああ、おまえの望む通りにしなさい。もう止めはしない。しないけれど」 玻月の胸元にある顔を上げて、炯月は息子の片手をそっと手に取った。 「辛くなるようなことがあれば切り捨てなさい。何より己を大切にしなさい。それを私たちは願っている」 玻月が硬く握った手を優しく掌で包みながら、炯月は柔らな語り方をする。 「家族は、父や姉や兄は、おまえが不憫でならぬのだ。おまえが幸せになることばかり願っている。良かれと思うことをしたいのだ」 最初からずっとそうだった。 「おまえの役に立ちたい。おまえが幸せになるだろう道へと行かせてやりたいのだ。ただそれだけなのだよ。縛るためではない。おまえが綜真を己の幸せだと感じるのならば、父は頷こう」 それがたとえ地獄の煮え湯を飲むようなことであったとしても。という類の言葉が無音で聞こえてくる気がする。 玻月にはきっと聞こえないのだろう、真面目に耳を傾けている。 「だから玻月、出て行くとは言わないでくれ」 「……綜真を殺されるのは嫌だ」 「分かっている。殺したりしない。だからここにいて欲しい」 ここで手放してしまえば、もう玻月に会えないと思っているのかも知れない。 炯月は我が子に真摯に頼み込んでいる。 だが玻月はうんとは言わない。 「ここにはいられない」 「何故」 「……ずっと、色んな者に見られるから」 視線が煩わしい。もしくは恐怖に感じるのかも知れない。 そういえば遊郭に行った時も、里に帰ってきた時も、玻月は始終周囲に警戒を露わにしていた。 「発情期だからな、品定めされてんだろ」 ようやく喋るだけの思考を取り戻したらしい志月が力無く言った。 ここにいる狼たちは慣れていることなのだ。 「こればかりは仕方のないことだ。玻月」 炯月も申し訳なさそうに志月を肯定するしかなかった。 (まぁだろうな。見るなと言われたところで気になるもんは気になるだろ) 本能によるものは抑えが利かない。 「仕方ねぇなら里を出ることを、俺も勧める」 「綜真!」 三人が揃って名を叩き付けるように呼んでくる。 似たもの親子だ。 「玻月の世話してると後ろから食いつかれて殺されそうだ」 その世話が何のことであるか、苦らしく言わずとも分かるだろう。今の玻月が必要としている世話など一つしかない。 「せぬと言っているだろう!」 余計なことを言うなと睨み付けてくる炯月に肩をすくめた。 「頭ではそう思っててもいざ目にすると魔が差すってことは往々にしてあることだろ」 魔が差すどころか、この親子は実際に玻月が綜真の手で乱れているところを目撃すれば確実に殺しに来ると思っている。 世話だとどれだけ言っても、手籠めにしているところだとしか見えないからだ。 「なんて俺が相手だなんて冗談じゃないだろうからな」 「玻月の帰る場所はここだと言っているだろう!」 おまえの言い分など知ったことではないと炯月が完全に無視して、己を意志を貫通させようとする。ここまでくると見事なくらいに綜真の扱いが酷い。 「だから落ち着けば一端戻る。玻月もそれで納得しろ」 己が無碍にされることに、すでに抵抗する気にもならずに綜真は妥協を差し出す。 それでも玻月は迷っているようだった。 「誰も憎しって揉めてるわけじゃねぇ。狼は同族には情け深い生き物だろ。その狼がてめぇのことで揉めてんのはどうもおかしな感じだ」 双方にそろそろ折れろと促す。 けれど動くことはなく、苛立ちが募るばかりの部屋の中で綜真だけが視線を集めていた。 「そう睨むなよ。これでも随分まともな案だと思うぜ。ちっと離れて頭冷やせよ。発情期って言っても何ヶ月もってわけじゃねぇだろ」 「長くても半月くらいだ」 個々に違いはあるだろうが、おおよそその辺りで目安がつくのだろう。 玻月は数日前から始まっているので、せいぜい十日少しで落ち着くはずだ。 「ならそれくらいの間で冷静になればいい。おまえも、そんなに泣くもんじゃねぇよ」 泣き顔を見ると、息苦しいような、居たたまれない気持ちになるのだ。 だから出来るだけ見たくないものだ。 冗談めかして言うと玻月は瞬きをして、目尻に溜まっていた雫を落としてからこくりと素直に首を縦に振った。 次 |