三千世界   参ノ八




 四度吐精すると、玻月は呼吸を整えながら瞬きを繰り返して綜真に寄りかかった。
 ぼんやりとした表情は眠気を訴えるものだ。
 情交の後眠くなる質の者がいるのだが、玻月はその類らしい。
 肌に馴染んだぬくもりを惜しむように、綜真の腕の中にいることを望んだ。
 求められるままに布団の中に玻月と共に入り、寝息が聞こえ始めてようやく冷静さが戻ってくるようだった。
 玻月の眼差しに晒されていると、己が上手く制せない。
 これもまた狼の惑わしの一つだろうか。
 源を呼びもしないのにこれほど誘惑が出来るのだから、たまったものではない。
(弱った……実に)
 疲労がのし掛かってくるけれど、綜真は布団からゆっくりと這い出た。
 玻月に悟られないように動いたのだが、ぐっすりと眠っている子はよほどのことがない限り起きそうもない。
 安堵しつつ部屋から出ると炯月は綜真と酒を呑んでいた部屋にいた。
 その向かいには娘である華月がいる。
 どちらも綜真に負けぬ位疲れ果てた様子を見せている。華月も炯月から事情を聞いていることだろう。
「玻月は?」
 父親は悲壮な表情で尋ねてくる。陰るその瞳に綜真の心の臓まで締め付けられる。
「寝た」
「そうか……」
「華月はどうした?」
 夜更けのこんな時刻に玻月が逃げ帰ったことをどこで知ったのか。
 発情期の夜であるなら、華月も雄の元にいるはずだろうに。
「玻月の相手に選んだのは私の友人でしたから。教えてくれました」
 初めて発情する子に相応しい、優しい雌を。と誰もが考えていた。それに見合った相手が華月の友人にいたのだろう。
 気心の知れている間柄なら玻月のことも相談していて、頼みやすかったはずだ。
「そうか。怪我はなかったか?」
「大丈夫みたいでした」
 遊郭では女を傷付けて大騒ぎになった。それを覚えていて精一杯配慮して逃げたのかも知れない。
 怪我がないことは双方にとって良い結果だろう。
「玻月は狼でも無理だと言っている」
 綜真が言うまでもなく、見れば明らかである。あんな怯え方をされれば抱く抱かない以前の段階なのだと分かりそうなものだ。
「そしておまえを選んだということか」
 溜息の如き吐かれた台詞に、綜真は親子から少し離れた場所に腰を下ろした。
「否定はしねぇ」
 玻月自身がそう言うのだ。誇るかのように堂々と宣言するのだから、綜真は誤魔化しも出来ない。
「おまえに懐いたからか。共に暮らし、信頼したから」
「おそらくは」
 炯月はあぐらを組んだ足の上に手を置いていた。
 そしてそれをじっと見下ろしている。
 綜真からは見ることが出来ないのだが、その瞳には息づく憤怒があるのだろう。
「旅をする内にそうなったのだと。おまえであると決めたのだと」
 そういうことなのか、と炯月は独り言のように呟いては唇を噛んだ。
 その真ん前で華月は正座した自分の膝を叩く。
「後悔しています。何を言っても引き留めるべきでした。そうすればこんなことにはならなかった」
 悔しげだ。
 玻月が里を出ると決めた時、華月も志月も反対していた。玻月はここにいるべきだと言い続けていた。
 けれど父が下した、断腸の思いに頷いてしまったのだ。
 あの時に戻れたのならば何がなんでも止めるつもりだろう。
「そうすればこの里で平穏に暮らして、この際雄でもいい、狼を選んでくれれば!きっともっと良い道があったのに!こんなことにはならなかったのに!」
 綜真など見るのも嫌だと言うように激情を叫んでは、華月の双眸には涙が滲む。
 この時期の狼はよく泣くのだろうかと、人事のように思った。
「華月、止めなさい」
「父様!」
「この里で暮らしていても玻月は狼を選んだかどうかは分からない。あの子はこの里を出て行こうとしていたのだから。綜真が来る前から」
 華月が凍り付いた。
「それは、初耳だな」
 父親が静かに告げたことは、きっと他の誰も知らなかったことなのだろう。綜真がやや面食らいながら喋ると、華月の膝に涙が一粒落ちた。
「それは……本当なのですか父様?」
「ああ。出て行けばここに戻ることもなかったかも知れない」
 狼が里を恋しがらない。それだけでも悲壮なものを感じる。
 故郷を大切にし、故郷で死ぬことを決めているのが狼たちだと思っていた。それすらあの子は外れていく。
「あの子が無事に育ち、成獣になり、多少なりとも情を覚えたことだけでも喜ぶべきことかも知れない」
「そんなの、あんまりです……!」
 狼として、生き物として、それはあまりにも小さなことに感じるのだろう。華月が首を振っては認められないとばかりに泣き声を上げる。
「あの子に罪はないのに、せっかく戻って来たというのに狼としての幸せは何一つ得られないと!?」
「落ち着きなさい」
「綜真はどうしてもっと狼らしく育ててくれなかったのですか!?」
 とうとう顔を上げて華月が睨み付けてくる。
 赤く染まった目尻には憎しみが浮かんでおり、鋭い牙を持つ生き物がすごむと雌であっても脅威ではある。
「俺は狼じゃねぇよ」
 罵られようがなじられようが、綜真に言えるのはそれだけだ。己では端っから無理だった。
 知らぬものは教えようもない。
「なら何故止めてくれなかったのですか!そんなに月が欲しいのですか!?」
 決して己の手に入らない月の源が欲しいから、だからおまえは玻月を奪ったのだと怒鳴られてさすがに綜真は口元を歪める。
「欲しい。だがてめぇらの子を奪うつもりなんざねぇよ。分かってんだろ。あれは俺の中にはどうやったって宿らないんだからな」
 月が欲しくて何度もここに足を運んだのだ。門前払いは当然、馬鹿にされたことも多々あった。それでも諦められなかったのは己のものとしたかったからだ。
「だから玻月を代わりに手に入れたのでしょう!?」
「怒るぜ華月」
 苦笑を浮かべるが、それ以上言うつもりならば己が纏う風が暴れ始めることだろう。
 月が己に宿らないから、と代わりに玻月という子を手に入れるほど落ちぶれてもいない。
 所詮玻月の源は玻月のもの。綜真のものではないのだ。それでは意味も価値もない。
 そんな勘違いをするような男だと思われるのは心外だった。
「俺はそんなに愚かな術師じゃねぇよ。第一玻月がいなくなった時は俺も探し回っただろ。家族ほどじゃねぇが、それなりに思い入れはある。手籠めにしてぇと思ったことはねぇ」
(むしろこの状態だって勘弁して欲しいくらいだ)
 玻月に選ばれたことに喜びよりも困惑の方がずっと強いのだから。
「それでも玻月はおまえを選んだ」
 炯月は目の前で見ている分、華月よりも事実を受け入れる姿勢を見せている。そうするしかないのかという、悲哀も強い。
「おまえ以外に触れられるのは嫌だと、あんな風に怯えて」
 痛ましい姿に炯月が耳を垂れる。情けない有様だと言いたいのだがそれは確かに慈愛を抱いているからこその光景だ。
 他のことでは誇り高きこの男の、そんな様は見られない。
「雄同士、同族でもねぇ、子は成せねぇ。誰も喜びもしねぇ。全部言ってある。止めろともな。俺だって特定の誰かを伴侶みてぇに決めるのは勘弁願いたい」
「ならば玻月を見捨てると言うのか!」
「貴方という人はなんてことを言うのですか!」
 綜真の発言に親子が殺気だって腰を上げる。
 今すぐにでも喰らい付いてやるという威嚇をしている二匹に、綜真は深く息をつく。どうしてこうも己は責められてばかりなのか。
 つがいを持たぬのかと以前訊かれた時に、そういう煩わしいのは嫌だと答えていたではないか。
 そして炯月は不思議そうな顔をしながらも、そうかと納得していたはずだ。相手が息子になるとこうも激変するものか。
「狼ってのは、一人と決めたらもう変わらねぇのかよ」
 これは間違いではないのか。
 そう思いたいのはお互い様だ。二匹はぎりっと奥歯を噛み締めながらも、まだ殴りかかってくることはない。
「そういうわけではない。だがつがいと決めたのならば大抵は変わらない。相手が死ぬまで」
「もしくは死んでも、か」
 炯月はつがいである沙月を失っても、発情期すら迎えないのだ。
 死んだ後もつがいの絆が続いている。
 もし玻月が綜真をつがいと決めてしまっていたのなら、今後どのようなことが起こっても玻月は他の誰も求めないのだろう。
「玻月がおまえをつがいとしたかは分からない。だが今のところはおまえだけが欲しいのだろう。あの激しさは、そうなのだ」
 炯月は浮かせた腰を落として、今度は力無く呟く。
 激しさと言われて綜真はさきほどまで腕にいた玻月を思い出す。
 身体も命も差し出してくる、あの情熱は人間にはそうそう真似の出来ないことだ。少なくとも綜真にはあんなことは出来ない。
 己は己のものであるからだ。誰かのものになんてなりたくない。
 けれど玻月は綜真のものになりたいと願っている。
「俺が呪わしいか」
 玻月を攫っていった紅猿たちを殺したいと炯月は言った。そして今、玻月は綜真に元に行こうとしている。
 止めようもなく。
 一刻たりとも手元にいては貰えない子を、容易に持っていく男に対して宿るのはどす黒い心だろう。
「殺したいさ」
 炯月は自嘲する。
 許されるのならばすぐにでも、綜真の首に噛み付いて鮮血を吹き上げたいところだろう。
 それだけの殺意がそこにある。
 だがその眼差しを閉ざして、頭を抱える。
「だが綜真。あの子が帰って来た時私は嬉しかった。あの子は輝いていたからだ」
 再会を傍らで見ていたのだが、この親子は三人とも玻月を見るなり至上の喜びであるように抱きついていた。
 帰って来たことに対する歓喜だと思ったのだが、それだけでもなかったらしい。
「以前とは比べものにならないほど、あの子の目は生き生きとしている。出て行く時はまるで人形のようだったというのに」
 初めて玻月を見た時、父は玻月に魂があるかどうか疑っていた。
 それほど玻月には感情が見付けられなかったのだ。
 だが綜真と共に旅に出で、玻月は変わったのだろう。常に共にいた綜真にとってその違いは明確には分からないけれど。離れていた分、炯月にはその比較が出来る。
「そんなの、里にいても得られたかも知れません!」
 綜真だけが特別で、綜真が玻月を生かしてくれたかのような言い方は受け入れられないらしい華月が拒絶を示す。
 だが炯月はまぶたを上げて寂しそうに娘を見た。
「そう思うのならば玻月に会うと良い。おまえも狼ならば、見れば分かる」
 否応なく知ってしまう。
 今の玻月はそういう状態なのだろう。
(世知辛ぇな)
 狼のことは分からない。子どももいないので親の気持ちも分からない。ただ彼らは我が身が引き裂かれそうな思いであることは感じ取れた。
 しかしそれは己に対する刃にもなりかねず、距離を置いて傍観するしかなかった。