三千世界   参ノ七




 それは簡単なことなのだ。
 ただ下肢にあるそれに触れて、握るなり、上下に擦るなりすれば刺激を感じて欲は高まり、頂点を迎えれば自然と吐き出される。
 考えるまでもないこと。
 大抵の者はいつからか耳に入ってくる猥談から、その事実を知って自らで試す。そうして快楽を覚えていくものだ。
 けれど玻月はその段階がなかったのだろう。
 なので綜真が下履きを外して、頭をもたげ始めていたそれを指で包む。
「っんん」
 触れるだけで玻月の喉がしなった。
 向かい合って座り、玻月の足の間に手を入れているという。この体勢だけで綜真としては逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
 後ろめたい。
 何も知らない子どもに卑猥な悪戯をしている。そんな罪悪をひしひしと感じていた。
 けれどこうしなければ玻月は辛いばかりで、解放されることがない。
 それもまた哀れなのだ。
(俺は何してんだか)
 こんなことをするような人間ではないのだが、と内心愚痴りながらも指で茎を撫でる。
「ふ、ああ」
 子どもだ。何も知らない無垢な子。感情すらどこかに置いて来たのではないと思うような、静か過ぎる子。
 それが鼻にかかった甘い声を響かせては、綜真の肩を掴む。
 しっかと握る手は頼る先が己しかないことを如実に訴えていた。
「あ、あっ」
 呼吸はすぐに荒くなって、茎を軽く擦る綜真の指がくちゅりと水音を生み出し始める。
 どくりどくりと脈打っているそれは己が持っているものと同じで、決して扇情的なはずはないというのに。玻月の声が脳みそに入り込んではぐらつかせようとしてきている。
(ガキだガキだと言ってたじゃねぇか)
 己はずっと玻月を痩せて骨張った、哀れな子だとだけ思っていた。そのはずなのだ。
 こんなに薫り高い触れたくなるような肌の生き物だなど、身体を開かせて揺さぶって壊してやりたいと思うほど誘惑に富んだ生き物だと思ったことなどない。
「や、はぁ、なんか、来る」
 来る、と玻月は怖がる。それまで綜真の指に身を預けて腰を揺らしてすらいたというのに、硬くなったそれが先端から止めどなく雫を漏らし始めると綜真から逃げようとする。
「やだ、っい、おかしい、おかしい」
 首を振って嫌がる玻月は絶頂が怖いのだろう。
 快楽に呑まれて己を失うことに、本能的な恐怖があるのだ。
「おかしくねぇよ。素直になっとけ」
 迫り上がるものを出してしまわなければ、玻月はずっとこのままだ。けれど怖いと泣く子が不憫で目尻に唇を寄せた。
 慰めるような仕草に玻月は拒絶の言葉を口にしなくなった。
「ふ、あ、あっ、ああっ!」
 ぶるりと震えて綜真の手に白濁が飛び散る。足が揺れているのが見えて、それが誘惑に思えるのだから己の頭も大概馬鹿になっているのだろう。
 吐精を促すように軽く絞ると玻月が嬌声を上げる。
「くぅ……っんん」
 甘える犬のような声だ。
 雄々しく凛々しいのが狼である。玻月はそれに少しばかり外れているのだが、それでもこんな声で啼くような生き物には見えなかった。
 精が収まると玻月は乱れた呼吸のまま、綜真を見る。
 潤んだ瞳のまま、いつかのように首もとに頬をすり寄せる。
 そしてざらりとした舌で喉仏を舐めてきた。
 牙を持つ者が急所に口を持ってくることは恐ろしいのだが、唾液で濡らされるそれは官能的だ。
 少しは落ち着いたかと思って玻月の様子を見るけれど、汚れた手で触れていた茎はじわりと堅さを取り戻そうとしていた。そして太股が焦れるように動いている。
(一回程度じゃ無理か)
 あれほど、我が身を投げ出すのではないかと思うほど発情していたのだ。簡単には楽になれないらしい。
 はぁはぁと口を開いて息をする玻月の犬歯が見えて、何故かそれを舐め取りたくなって口付けを交わす。
「んん……んっ」
 玻月は触れた瞬間はびくりと肩を跳ねさせたけれど口内に舌を入れて絡め取ると夢中になって応じてくる。
 絡め取り、歯列を辿り、吸い上げる。激しい水音に煽られるように大胆に動き回る。
 まるで舌自体が別のものになったかのようだった。
 口内をなぶりながら、綜真は手で茎を愛撫する。
「んっんん、ふ、ぅん」
 舌を絡める合間に聞こえる喘ぎ。
 いっそ茎ではなくその後ろへと手を伸ばして猛り始めた己を突き立てたい。
 しかしそれが許される身体ではない。
 分かり切っていたことだ。納得して、むしろそれが良いと己で理解していた。なのにその判断を忌々しいと言いたくなる衝動にかられる。
 こんな子どもの発情にここまで追い詰められるとは思わなかった。
 膨れていく茎を絞ると玻月がぎゅっと掴んでいた綜真の肩を自らへと引っ張る。
「あ、あっんん、くぅん」
 口付けを止めると感極まる響きが聞こえ、思ったより呆気なく熱が溢れ出した。
 二度目にもなると手が汚れただの何だのという感覚はない。ただ玻月の内太股に白が添えられている光景は淫らだった。
「はぁ、あ……ぁん」
 余韻に浸り微かに震える肌を眺め下ろす。
 まるで女のようだ。
 雄がこんな風に快楽に浸っていても、何の感慨もなかったはずなのに。舌なめずりをしてしまう。
 己は獣ではないはずなのに、発情を掻き乱される。
「ちったぁ落ち着いたか?」
 現を見ているのか、夢を見ているのか分からないほど焦点が曖昧になっている玻月の耳へと、言葉を流し込む。
 ぴくんと尖った耳が立てられてはこくんと首が縦に動いた。
「少し……」
 まだ刺激が身体の中で疼いているのだろう。玻月の口調と拙く上擦っていたけれど、表情には穏やかさがちらついていた。
 目を伏せて己の格好を知ると、足を閉じようとする。
 その羞恥にすら背筋が粟立ち、綜真はあえて目を逸らした。そして己の手で脱がせた着物を適当に合わせてやる。
「怖くねぇだろ」
 恐怖に逃げ回ることなどないのだ。一度知ってしまえば大したことがないと拍子抜けするほどであるはずだ。
「綜真だから」
 しかし綜真の予想を上回り、玻月は噛み締めるように告げた。そんなに情が籠もった言い方をしたのは初めてだろう。
 貴方だから、と確固とした思いを含む言葉は芯が通っている。
「俺は狼じゃねぇ」
 玻月の声音と比べて己の声の情けないこと。後ろめたさに目隠しをして、何もかも穏便に済まそうとしている。己にとって波風の立たないようにと逃げ腰になっているのだ。
 そんな生き方は見下してきたというのに。
「俺も狼じゃないようなものだ」
 玻月は、己は己なのだと言う。以前からそれは一貫していた。
 狼たちは己が狼であることを誇りにしている。けれど玻月は異なっていた。
 だが己が己であることを誇れるのならば、狼であろうが何であろうが変わりない。
 立派な矜持だろう。
 綜真はそういった心持ちが嫌いではなかった。だからこそ苦さが深まる。
「他の奴は、怖いか」
 己でなければ駄目なのかと、半ば祈りを込めていた。
「駄目だ」
「おまえに危害を加えるような奴ばかりじゃない。いい奴だっていっぱいいる」
「そんなの分かっている」
 それもそうだろう。この里にいる狼たちは皆玻月に好意的だ。何年もはぐれていた子が無事に帰って来たということで特別大事にしているらしい。
「それでも駄目だ」
 そんな理由ではないのだ。そう突き付けてくる。
「術師と俺を重ねているだけじゃねぇのか?」
 己は何を言っているのだろうか。
 他の誰でもない己でなければ駄目なのだという理由を探っている。この狼に捕まえられるだけの言い訳を欲しているかのように、この気持ちを知ろうとしている。
「術師は女だった。綜真とは何も似ていない」
「だったら術師ってだけで懐いてるとか」
 人間の術師であったのならば、とりあえず心許せるような気性になっているのではないか。
 そう告げると玻月が顔を上げた。そこには怒りと悲哀が色濃く滲んでいる。
「俺はそんな風に見えるのか?」
 それだけで綜真を求めているのだと思っているのか。それは侮辱であると、狼の眼差しが憤りをぶつけてくる。
 その怒気に喜びのようなものを覚えている愚かさが綜真のどこかに潜んでいる。
「……いや。だが何故俺なのか分からない。共にいすぎたか?」
 容姿は悪くないと思っているが、雄に好かれるような造形だとは思えない。力は持っているし、術に関しては右に出るものはそういないだろう。けれど玻月は源に関心がない。
 特別優しくしたと思えず、放置することも多かった。手間がかからない分構ってこなかったのだ。
 ただ一緒にいた。
 玻月に好かれる原因はそれしか思い当たらなかった。
「困るか……?」
 か細く儚い問いかけが静かに綜真を締め上げる。
 けれど軽々しく否定はしなかった。
「ああ」
「嫌か……?」
 沈んでいく様に髪を掻き毟る。突き放すことが、肝心な部分で出来ない。
「嫌じゃねぇよ。ただ炯月に会わせる顔がねぇってだけだ」
 預けられた子が己を選んでしまいました。
 それは綜真だけの責任ではない。だが親にとって無害であると、そう信じていただろう分気の毒ではある。
「ならばここから出て行く」
「おい」
「二度と戻らない」
 子どもが親に叱られて家出をする。その程度の意味合いであったのならば諫めただろう。
 そんなことを言っても親が恋しくなるものだと笑った。
 けれど玻月が言うと冗談にならない。自身も本気なのだろう。
 この子はここで生きていた記憶が数ヶ月しかないのだから。家族にどれほど慈愛をそそいで貰ったとしても、玻月はそれを切り捨てられるだけの決意がある。
 言い換えればまだ情が染み込んでいないのだ。
 どれだけ優しくされても玻月自身がそれを己の中に宿さなければ意味を成さない。
「それこそ俺は殺される」
 どんな形であっても、どんな性根になっていようと。家族は玻月が里に戻ることを願っている。その思いを潰すことはしたくない。
 勘弁してくれ、と言うと玻月はそれに返事をすることなくあらぬ部分を探り始めた。
 それは綜真がそれまで玻月のものを握っていた箇所に相当する。
「おい」
「俺もする」
 袴の中に手を入れて、綜真の茎を撫でようとするのだ。
 ただでさえ煽られているというのに、手による刺激を与えられると自制が聞かなくなるだろう。
 慌てて玻月の手を掴むと不満そうに睨み付けられる。
 そんな表情も滅多に見ることの出来ない珍しいものだった。
「俺だけがされるのは嫌だ。与えられるばかりなど」
 貰った分だけは返す。大切にされたと思うのならば大切にする。
 その情のやりとりを当たり前のように考えているのかも知れない。
 賊の中で生きてきた割には擦れていない、殺伐としていない思考だが。育てていたのだろう術師の教えか。
(いや、狼の本質なんだろう)
 己に近しい者に対してどこまでも懐が深く、情が濃い。それが狼たちだ。
「分かった。だがここじゃ駄目だ」
 この部屋にはいないと言えども、近くに炯月が控えているのは間違いない。
 その炯月が、玻月がしていることを知ればどんな気持ちになるだろうか。
 間違いなく綜真を殺したくなるだろう。憎悪を抱くはずだ。
 今後の関係のためには、そんな危険はおかしたくない。それに親の近くで、その子に奉仕させるなど趣味の悪いことは萎える。
「俺にだってちっぽけだが良心ってもんはある。ここじゃ出来ねぇよ」
「ここじゃなければいいのか」
 綜真が喋ったことに関してこれほど間髪入れずに答えてくるなどなかった。
 何もかもが変わっていく。
 獣は成獣になると一皮剥けると言うけれど、この子は変化が大きすぎるのではないだろうか。綜真の方がついて行けない。
「出るつもりか」
 発情期は里で、と望んでいたというのに玻月はここに留まるつもりはないらしい。
 今ならまだ平穏な暮らしが得られるというのに。それで良いのか。
「……俺は狼じゃなくてもいい。だが綜真がいなければ困る」
 狼だろうが犬だろうが何であろうが構わない。
 そんなことを言い出す狼は他に知らない。
 そして己だけをこんなにも求めてくる者も。
(……怖い生き物だ)
 綜真は女にも男にも睦言を囁かれた事がある。
 それは術師として好まれていたり、綜真の源が目当てだったり。中には綜真自身を欲しがる物好きもいた。
 だがこんなになりふり構わず、己を棄てることも厭わぬように手を伸ばす者はいなかった。
 駆け引きも何もない。生身で傷付くことも考えぬ無防備さはこちらの方が恐ろしくなるくらいだ。
 脱力しながら息を吐き、己の内蔵が見えないもので縛り付けられていくのを感じる。
「参る。おまえには本当に参る」
 弱音は自身の耳に入っても微かな歓喜を滲ませていた。浅ましいほどに求められることを拒めない。
「そんなに惚れられているとは知らなかった」
 色恋など何もない間柄ではなかったか。そう苦笑すると玻月は真顔になった。
「俺も知らなかったし惚れていない」
「これでか」
「綜真以外には触れられたくないだけ。求める綜真だけ。それだけ」
 あっさりと告げられたが、それがどれほど特別な思いであるのかこの子は分からないのだ。
 唯一の存在を作るということがどれほど貴重で、狂おしいことであるのか。
「意外と情熱的だな」
 甘い言葉どころか、言葉自体苦手でろくに喋らなかったではないか。淡々とした感情のまま、ろくに己のことを表さなかったくせに。こんな熱情を抱いていたなんて。
 見た目と普段を裏切りすぎて鼓動が止まってしまいそうだ。