三千世界   参ノ六




 触れたくない。
 そう態度で告げる玻月に炯月の頭にある耳が垂れた。
 そんな炯月を見るのはかなり珍しい。
「玻月。だがこのままでは辛いだろう?発情を止めることは難しい。それに身体に負担がかかる」
(抑えられないと言っちまえばいいだろうに)
 綜真は発情期を抑える術を知っている。だがそれは身体の中を弄って、本能を押さえつけるものだ。当然他の意識にも影響が出る。
 そんなもの、炯月が玻月に許すはずがない。
 だから存在しないと言えば良いだろうに。炯月は我が子に偽りを言いたくはないのだろう。
 真摯だと思うのだが、それでも良いとただをこねられたらどうするのかと危惧してしまう。
 だが玻月が言ったのはそんな不安を軽く超えたものだった。
「……だろ」
「ん?」
 上擦った玻月の小さな声は不鮮明だった。炯月が甘やかに促すと、震える呼吸が綜真の元まで聞こえてくる。
「欲しい者を欲しがったら、こ、殺すんだろう?」
 泣きそうな声だ。
 うずくまって深く俯いている背中。もしかするとその顔はすでに濡れているのかも知れない。
 それにしても玻月の言うことが謎だった。
(何のことだ?)
 話が繋がらない。
 炯月は助けを求めるように綜真を振り返るのだが首を傾げてやるしかなかった。
「誰がそんなことをするのだ?」
 玻月が欲しいと願うのであれば何であっても許すだろう炯月が、不安そうに尋ねている。
 発言主の名前を聞けばその者の首を絞めに行く程度のことはするだろう。
「と……父さん」
 酷く言い辛そうに口にされた名に、他ならぬ炯月が凍り付いた。
 信じられないことだったのだろう。
 しかし先ほど再会するまで全く連絡も取っていなかった父親が、どうやって玻月の相手に関して言及出来るというのか。
「どういうことだ?」
 炯月が言いたいだろうことを綜真が投げかける。
 すると更に玻月は小さく縮こまった。
「な、ぜ私が?どうしてそんなことを思ったのだ?私はおまえの望みを止めたりはしない」
 手元に引き留めたいと思いながらも、玻月が里から出て行くことを認めたような父親だ。この言葉は真実だ。
 だが玻月の背中は丸いまま、尻尾も身体に巻き付いている。
「俺が、綜真を欲しいと言えば……綜真は殺されるだろうって」
 耳を疑った。
 らしくなくぽかりと口を開けてしまったほど、雷に打たれたような衝撃が全身を駆け巡った。
(……こいつ……!?)
 何を言っているのかと叫びたかった。だが衝撃に固まった身体は止まったままだ。
 それは炯月も似たようなものだったらしいが、次第にぎぎぎと軋む絡繰りのように再び振り返ってきた。
 そこには明確な殺意がある。
 背筋が泡立ち、直ちに逃げ出した方が良いと綜真が纏っている風が教えてくる。けれどここで逃げれば綜真は確実にこの狼に喰らい付かれるだろう。
 誤解を受けたまま。
「おまえ、な……」
 とりあえず現状は極めてよろしくない。強張る唇で音を出すと精神もゆっくりと硬直から解かれ始めた。
「あれは言葉の綾だ。というかおまえ、本気なのか?」
「綜真」
「待て。落ち着け。俺は確かに俺なんぞを相手にしたら炯月に殺されるとは言った。言ったがな」
 そしてそれは事実だろう。
 炯月の腰は浮いており、気にくわないことを言えばその瞬間その首に牙を立てると言っているようなものなのだ。
「まさか本気だとは思わないだろ」
 もしも、という話だった。
 笑ってしまうようなたとえだと、そう言いたかったのだ。それに含まれているものなんて考えなかった。いや、考えたくなかった。
「おまえ、本当に俺なのか?同族でも雌でもねぇ。おまえより年上でがたいもいいぜ、それなのに」
 何故だと、言いたかった。
 綜真だったのならば、己のような男は相手にしない。死んでも嫌だと言い張るだろう。
 なのに玻月は弱々しく頭を上げたかと思うと頷いたのだ。
 確かな肯定に炯月の殺意が濃くなった。
「まさか貴様、玻月に手を出したのでは」
「出してねぇよ!俺に男色の趣味はねぇ!女の方がいいに決まってんだろ!そりゃ一応食ったことがねぇとは言わないが幼獣なんざ無理に決まってる!」
 炯月の誤解を解くために、玻月は無理であることをことさら主張した。
 すると玻月がこちらを見上げては表情を歪めるのだ。すでに泣いていたことは、その頬にある涙の跡から分かった。
 内蔵がえぐれるような痛みが走っては、それ以上何も言えなくなる。
(そんな顔するなよ)
 貴方しかいないのだとすがるような、そんな瞳は止めて欲しい。
 見ている者に何もかもをかなぐり捨てさせる眼差しだ。
 炯月の殺意は膨らんでいく一方で、だが動き出さないのは玻月が見つめているからだろう。
 緊迫した沈黙がしばし流れ、綜真は黒髪を乱暴に掻き乱した。
「俺は止めておけ。家族が泣くし、子も残せねぇ」
 誰も喜ばない結末だ。
 玻月が選ぶには相応しくないものだろう。
「おまえなら言い寄ってくる雌は山ほどいるんだ。もっといいのがいるだろ」
 だから、と言いたいのだが玻月は何度も首を振ってそれを拒む。
 はさはさと金色に近い髪が揺れては、その瞳から一粒の雫が落ちる。
 泣いている。
 その透明な水が玻月の双眸から流れる場面は、初めて見るものだった。泣いたのだろう、と察知することはあっても、落ちる時は見ていなかったのだ。
 狼の子が泣いていても異常ではない。なのに綜真はそれが酷く特殊なものに思えて見入ってしまう。
 父親もそんな我が子を凝視しては弱り切っている。
「……辛い…」
 ごく短い気持ちの吐露。だが無口な子が告げるそれは重みが違う。
 綜真の足がとっさに一歩出てしまったほど、深刻な響きだ。
 抱き締めてやってもいい。慰めて、いっそ抱いてしまってもいい。
 そんな過ちを引き出させる。けれど綜真と玻月の間にいる炯月はそれを許さないだろう。
 どうすればいい。
 しかしこうしてじっとしている間も玻月の身体は欲情に蝕まれている。
 炯月も綜真と同じくこのままではいけないが、手段に迷っているようで唇を噛んでいる。
「辛いなら、出せばいいんだろ」
 綜真は溜息をついて、そう一端の判断をした。
 冷静さを完全に失い、玻月はわけが分からなくなっているような状態だ。第一泣いていることからして尋常ではない。
 ならば一度静けさを戻してやれば良いのだ。
 そうすれば苦しみからも逃れられるし、暫くの間は急き立てられるような衝動からも遠ざかれる。
 身体の中で滾っているものを出し切ってしまえば良いのだ。
 それは何も雌だけが出来ることではない。
「綜真」
「先達としてどうすれば楽になれるかくらい、教えてやる」
 男、雄としてその衝動がどうすれば収まるのか。この手で学ばせることくらいは苦でも何でもない。
 玻月は何を言われているのか分からないのか、涙が溜まったままの瞳で呆然と見上げている。
 蒼灰色は真冬の色だが、潤むと透き通った川底のようにも思えた。
「雌じゃねぇんだ。入れる必要もないだろ」
 これが雌であったのならば中に雄を引き入れなければ、おそらくうずきは止まらなかっただろう。雄でも生身の身体を与えるほうがずっと気持ちが良い。けれど落ち着かせるだけなら、欲情を吐き出せば大丈夫だろう。
 こんなことは成獣になる前から知っていて当然のような知識なのだが、玻月にはそれすらない。
 特殊な育ちなのだと痛感させられた。
「それでちっと落ち着け。今は混乱してんだ」
 何をどう丁寧に説明したところで意地を貫くに決まっている。
 変に強情なところは炯月にも似ているようだ。
「ならば私が」
 玻月の世話なら何でも出来る、と炯月は己を主張するのだが綜真は生温い笑みを返してしまう。
「その方がきついだろ」
 いくら発情期だからといって父親に下肢の面倒まで看て貰いましたというのは、今後玻月にどんな気持ちを与えることか。
 それならばいっそ他人の方が割り切れるのではないか。
(まして俺を欲しいと言ったくらいだ。多少触ったくらいでは嫌がらねぇだろ)
 おまえの望んだことはこれ以上の行為なのだと言えば良い。まるで己を正当化するみたいで好まないやり方だが、玻月の目を覚ますきっかけになるかも知れない。
「肉親より俺の方が傷は浅いだろうよ」
「しかし」
 渋る父親を遮るようにして玻月の身体を動いた。もう腰が立たないのか、手を伸ばして綜真に寄ってきてくれるようにねだっている。
「綜真かいい」
 拙い口調。一心な眼差しは幼い子が保護を求めているかのようだ。
 けれど全身から扇情的な熱を滲ませている。
 真に蠱惑的な生き物というのは、玻月のように無垢と色香を混ぜて無防備に人を誘い込む者かも知れない。
(ああ、ったく参る)
 玻月が発情期を迎えてから何度目になるか分からない台詞を、この時も心の中で呟いた。
「一端、預かるぞ」
 炯月に対して一言断り玻月の背中へと手を回す。力の入らなくなってる身体だ、容易に綜真の腕に抱かれた。
 冷え込んだ夜に不釣り合いなど熱い身体だ。
 安堵と歓喜に震える吐息が聞こえ、綜真は己の肌までその熱が移ってくるようだった。
 物言いたげな炯月の視線を感じながらも「任せとけ」と告げる。
 ぐらつく己を叱責しながら、玻月の頭を撫でた。