三千世界   参ノ五




 雪が降りそうなくらい冷え込む夜だった。
 畳の上で火鉢を傍らに置き、炯月と酒を酌み交わしていた。
 卓には焼いた魚と干し肉があり、それを囓りつつ静かな声で語り合う。
 ひっそりとした空気だ。
 この家の外では狼たちが睦言を交わしては新しい子を成そうと身体を重ねているだろう。けれどここで感じられるのは枯れ木が風で軋む音くらいのものだ。
 微動だにしない静寂が漂っているのは、綜真の目の前にいる者が纏っている悠然とした姿勢のせいだろう。
 きっと玻月が成獣になったことでおおよその不安は取り除かれたのだ。
 達観したかのような落ち着きを宿している。
 その玻月は里に帰ってきてから姉と兄に預けた。
 どうすれば良いのか、発情期にある彼らがよく知っているだろう。
 玻月を慈しみ、玻月のことを宝のように思っている二人に託し、綜真は何の心配もなく酒を飲めた。
 姉と兄が言うには炯月が出るまでもなく、玻月を手伝ってくれる雌は多くいるだろうとのことだ。血筋の良さがここでも有利になっている。
「道中、どうだった?」
 機嫌の良い炯月は笑みを浮かべたままそう問うてくる。
「大して何もねぇよ。食い物食わせて、たまに面倒見たらあれだけ育った」
 玻月があれほど痩せていたのはちゃんとした暮らしをしなかったせいでもあり、形代を持っていたのでそこから体力を削られることがあったせいだろう。
 きちんと食べて暮らしていれば、育つべき者は育つ。日を浴び、水を飲んで草木が伸びるのと同じだ。
「旅に出たばかりの頃は警戒もされたが共に寝たら懐きもした」
「寝た……」
 発情期という季節のせいか、炯月はその言葉に引っかかったらしい。
 まさかそんなはずが、という顔をしているのだが無意識の内に湧いた疑惑もあるだろう。
「寄り添って寝ることは旅には必要なことだろ。寒い冬は特にな」
 おかしなことではない。旅する者たちなら自然とするだろう行為だ。
 他意などあるはずもない。
 綜真は誤解だと釈明する労力もいらないだろうと言うようにさらりと口にする。
「互いの気配に慣れちまえば手間もかからなかったぜ。旅慣れしてたからな」
「そうか」
 旅慣れしているということが炯月にとって決して耳に心地良いものではないと知りながらも、つい言ってしまっていた。
 そして更にそれを深めることを、伝えなければならなかった。
「狼らしくないと言われた」
「……だろうな」
 父親は苦々しそうに呟いた。
 炯月も玻月と少しの間過ごしたのだ。狼である分、子どもの異常さには気が付くことだろう。
「遠吠えもしねぇって」
「ああ。あの子にはそれが分からないらしい」
 身体が疼くということも、月を見て何かに突き動かされるということも。玻月はきっと分からないのだ。身体はそれをしたがっているだろうに。頭がそれを認めようとしない。
 そして己を押さえ込んだまま、過ごしてしまった。
 だからこそ抑えきれなかった発情期という衝動に混乱しているのだ。
「遠吠えは止められてたみてぇだな」
「猿どもにか?」
「ああ」
 猿の中に入れられた子は狼としての主張を一切許されなかった。生きているだけでも奇跡のようなものだ。
 父親はそんなことになった現を呪うかのごとき眼光で、手元の杯を睨み付けた。
「殺してやりたい」
 ごく簡単な、この上もなく簡素な気持ちの吐露だった。
 炯月の中にある、紅猿への思いはただそれだけなのだ。
 皆殺しにしたい。
 ただ一つだけを願っている。それでもここにいるのは里を守るべき地位であること、そして炯月がそれを遂行しようとすれば娘や息子たちが付いてくるだろうということだ。
 復讐を良しとはするけれど、我が子たちを危険に晒すことは出来ない。
 玻月のように我が子を奪われるかも知れないという恐れが、炯月をここに留めている。
「紅猿は皆で殺し合いをしている、仲間割れの真っ最中だ。放って置いても死んで逝く。おまえが出て行っても手間になるだけだ」
 そんなに殺したいと思うのならば、最後に残った紅猿を殺せばよい。それで紅猿を根絶やしに出来るだろう。
 かなり時間がかかることだろうが、それまで炯月の怨恨は残っているだろう。
 それだけの執念を感じさせる。
「術師は、見付かりそうか?」  炯月も己が出ることは賢明ではないと理解しているのだろう、話題を変えてくる。しかし苦悩はそこにあるままだ。
「どうだろうな」
「玻月は記憶を操作されているか二、三年も過ぎれば分かるだろうと言っていたようだが?」
 炯月はかつての綜真が言ったことを思い出したようだった。
 そういえば、と過ぎた己の言葉を甦らせながら綜真は肩をすくめた。
「それも分からねぇ。操作されてる気配がないと言えばないが」
 正直ちゃんと反応が出てくるかどうかなど誰にも分からないことだ。かけた本人にだって把握出来ないだろう。
「そうか」
 落胆しながらも、炯月は落ち込みを深めはしない。玻月が現在良い方向に変わっているからだろう。
「玻月は術師を見付けて、まだ己の形代を欲しがるだろうか……」
 家族よりも近い存在である、自身の片割れをまだ求め続けているのか。それは他者には分からない。
 あの子は感情も己の欲も見せない。まして秘めてしまっていたとすれば、察知することは無理だろう。
「寄る辺が欲しいだろうか」
 父親はそれが己になれば良いのに、と切望している。けれど子がそれを認めなければ叶わないことだ。
「玻月にしか分からねぇことだな」
 綜真はここに来るまで玻月とずっと共にいた。それでもあの子の内面に触れることは出来なかったのだ。
 きっと誰一人玻月の中を見ることは出来ない。
「他の奴に対する警戒は随分強いままだしな。今回も里に帰る前に遊郭に寄らせたが、えらい目に遭った」
「何故遊郭などに」
 発情期が来ていると知りながらも、炯月は遊郭という単語に顔を顰める。
 まだこの親の中で玻月は幼い子のままであるらしい。
「里に戻るまであいつの身体が持ちそうにないと思ったからだ。辛そうだった」
 そうだ、辛そうだった。だからそれをなんとか解放してやりたかったのだ。
「だが完全に裏目に出た。あいつは女をあてがわれると暴れて嫌がったらしい。上玉に怪我までさせてな」
 くいっと綜真は酒をあおった。陰った炯月の瞳に同調してしまいそうになる。
「俺が迎えに行くと哀れなほど怯えていた。元々触れられることが怖いんだろう」
「だがおまえは先ほど共に寝ていたと」
「初めは術で寝かせた。警戒したままずっと一緒に旅をしていたらあいつが心身共に参っちまうと思ったからな」
 警戒する者もされる者も気が立つ。だから壁を早く取っ払ってしまいたかったのだ。
「だが発情はそういうわけにもいかねぇだろ。寝ながら出来るもんでもない」
 出来たら楽だろうに、と心底思うのだが。寝ている間に出せるようなものでもないのだ。
 しかし寝かせなければ前に進めない子というのも困ったものだった。
「同族なら問題はないだろう。匂いが同じだからな、誘われて難なく乗り越えるだろう」
「だといいがな。しかし初めてだから里に帰ってきたが。毎年ってわけにはいかねぇぞ。帰って来られる距離なんざ知れてるからな」
 その範囲の外に術師がいれば、永遠に会えない。それでは玻月が里から出ている意味がないだろう。
 当然のことだとして綜真は語るのだが、炯月は頷けないようだった。
「だが里の外に狼の雌などそうそういない」
「そう思いたいような、思いたくないようなってところだな」
 狼の子が高値で売られているのは事実であり。雌であったのなら高級遊女として遊郭に入れられていることだろう。
 里の外でそれが目玉になっていることがある。
 そんな哀れな雌などいないと、炯月は思いたいのだ。
(いたとしても希少で、探すのがまた面倒だろうからな)
 術師ほどではないだろうが。狼の雌を外で探すとなるとかなりの労力だろう。捜し物を何個も持つのは正直億劫だ。
「とにかくこの春をなんとか慣れてくれりゃいいんだがな」
 これくらいどうとでもなる、と軽く受け留めるくらいになってくれれば炯月の心配も薄らぐ。綜真も気を回さずに済むだろう。
 今夜が山場だな、と綜真は懐から煙管を取り出した。それを察して炯月が煙草箱を手元へと寄越してくれた時だった。
 がたりと音がした。
 戸口が荒々しく開かれる音。そして何かが転がり込んでくる慌ただしい気配。物音が響き渡っては二人の間にあった静寂を破る。
 顔を見合わせて音がした方向へと向かう。
 炯月もらしくなくどたどたと足音をさせて床を踏み、辿り付いたのは玻月の部屋だった。
(まさか)
 嫌な予感がした。数日前の記憶が脳裏に映し出される。
「玻月?どうした?」
 痛みを噛み締めるような表情だというのに炯月の声は慈愛に満ちていた。
 きっと炯月の頭にも恐れている光景が浮かんでいることだろう。
 出来るならば違っていて欲しいと思いながら開かれた障子の奥で、玻月がうずくまっていた。
 微かに震える肩は、あの時と全く変わりがない。
 炯月が息を呑み立ち尽くした。
 雌を与えられたはずの玻月がどうしたのか、見れば明らかだった。
「駄目か?」
 黙り込んでしまった炯月に代わって綜真が尋ねた。知りたいのはそれだからだ。
 玻月は綜真の声に身体をびくりと跳ねた。炯月にとってそんな反応は初めて見るものだったのだろう。きつく握られる拳が視界の端にあった。
「狼の雌でも、駄目だったか?」
 震えるばかりで応じない玻月の背中。
 無言であることがその痛みの深さを示しているようで、切なかった。
 綜真よりずっと玻月を思いやる炯月はふらりと力無く部屋に入っては、まだ細い背中に手を置いた。
 そしてしゃがみ込んではその背を撫でている。
「玻月、何が怖い?」
 囁く声は動揺のない優しいばかりの声だ。
 炯月には覚えがないだろう恐怖を、なんとかして理解しようとしているのだ。
「恐ろしいことなど何もないぞ。考えることもない。求めるままに手を伸ばせば良いのだ。発情期とはそういうものだ」
 玻月の怯えは頭で何かを考えているから、抵抗する思考があるからだと炯月は言う。発情期は身体が求めるもの。それに全て委ねれば良いようになると教えているのだ。
 狼の本能のまま、動けば良いのだと。
(そういうもんか)
 発情期のない綜真は炯月の背後でただ聞いていた。獣ならば獣らしくなれと言うのも、人間には言い辛いものがある。
「触れあうことは悪くない。玻月」
 家族すら遠ざける子には、他者全てが己を害する者として感じるのかも知れない。
 それを違うことだと告げる父親に、玻月はようやく動いた。
 だがそれは首を振るという、拒絶を示すものだった。