三千世界   参ノ四




 里までの道のりはかなり忙しいものだった。
 普段ならば日が落ちてしばらくすれば動きのを止めて、どこかに落ち着いては暖を取ることに専念していた。寒さを乗り越えることが第一だったのだ。
 けれど煉絢の元を去ってから綜真は夜中まで歩き続けては狼の里を目指していた。
 必死だった。
 寝るとなれば玻月は綜真に寄り添ってくる。その方が暖かいのだと言って教えたのも己だ。
 けれど密着すればするほど、玻月の熱は上がり落ち着かなそうに身じろぎをする。
 物言いたげな目で見上げることはなくなったけれど、その分戸惑う指先が綜真を欲していることは間違いない。
 全身が訴えているのだ。
 おまえが欲しいと懇願してくる。
 けれどそれに従うわけにはいかなかった。誘惑を飲み込むことは全てに対する裏切りだったのだ。
 それでも甘美な誘いは揺らぎを呼んでくる。
 自制と我慢を繰り返して、摩耗する己の自我を時折叩きながら先を急ぎ。距離を測りかねては苦みを増すばかり。
 二つ三つ、夜を越えて狼の里が見えた時には脱力した。
 どっと疲れてその場に座り込みたいほどだった。
 だがここで立ち止まっても無駄であり、綜真は深く息を吐きながら門を開いた。
 二年に近い時間が流れ、この里も大変久しぶりであるような気がした。
 以前ならもう何年も訪れずにいても、何の感慨もなかったものだが玻月がいるからだろう。
 里に入ると狼たちがやってくる。門番の役割をしている雄の狼がこちらを向いてはぎらりとした殺意を突き付けた。けれど玻月が見えると途端に棘が消えた。
 同族に対して狼はどこまでも優しく寛大だ。
「炯月の息子か!」
「え、炯月の?」
 口々に玻月の存在を知り始めた狼たちが喋り始める。まるで波紋のように声が広がっていくようだった。
 そして一匹の狼はどこかに走っていく。おそらく父親を呼びに行ったのだろう。
 玻月は注目されて腰を退いていた。綜真の後ろに隠れたがる素振りさえある。
 発情期でなかった頃は、こうして厭う様もなく淡々と視線を逸らしてはじっと突っ立っていた。
 周りに敏感になっているのだ。
「やっと帰ってきたのか」
「大きくなったなぁ。どこに行ってきた?」
 嬉しそうに話しかける狼たちに答えもせず、玻月は固まっていた。
 どうしたものかと思いながら綜真は肩をすくめる。
「ま、色々だ。そう一斉に構ってくれるな」
 そう綜真が諫めると「そうか?」と残念そうにしながらも狼たちは玻月を気にしてちらちらと見てくる。喋る口が減ってたのでそれだけでも玻月にとっては有り難いだろう。
「玻月!」
 勢いのある声が響き渡り、炯月が駆け寄ってくるのが見える。狼が呼びに行ってからそう間がなかったのできっと名前を聞いてすぐに走ったのだろう。
「おかえり!大きくなったな玻月!」
 炯月は綜真の後ろにいた子を見ると両腕を広げて抱き締めた。
 尻尾が凄まじい振りを見せており、歓びの深さを感じさせる。
 玻月は嫌がりもせずにその腕に収まったけれど、くふっと息が吐き出される音が微かに聞こえたので抱き潰されそうになったらしい。
(喜びに満ちた再会ってところか)
 狼の親子というのこうでなくてはならない。見ている者にそう思わせるような光景だ。
「背も伸びた!ちゃんと食べておるのだな!不自由はないか?術師には会えたか?」
 頭をぐりぐりと撫でながら炯月は矢継ぎ早に問いかける。
 玻月は目を細めてやや面倒そうな顔をしたけれど、ぴんっと伸びた耳からしてそれを嫌悪していない。
 だが訊かれたことが多すぎて、返事が詰まっているようだった。
「術師にはまだ会ってない」
 帰ってきて、もう旅に出ることはない。そう早合点されると落胆がやってくる。なので先にそれだけは綜真の口から伝えた。
 すると炯月は綜真を振り返っては少しばかり目を見開いた。
「綜真」
「ようやく思い出したみてぇだな」
 玻月しか見えていなかったのは分かっていたので、炯月の反応に苛立ちはない。だがこれほど綺麗に失念出来るものだろうかと感心してしまう。
「玻月に苦労はさせていないか?」
 そう言われて、思わずその銀色と黒が混ざった髪をばっさり切ってやろうかと思った。一つに括られている長いそれをとっさに掴んでしまったのも無理はないだろう。
「させるかよ。むしろさせられている側なんだが?」
 ここまで己の精神に負担を強いてきたことを思うと炯月の台詞は不条理そのものだった。
 だが父親は綜真の返事に「そうか」とあっさり頷いただけだった。
「よく帰ってきた」
 再び我が子と向き合ったかと思うと満面の笑みで抱き締める。
 玻月しか見たくないとでも言っているかのようだ。
「帰って来ざる得なかったんだよ」
「どういうことだ?」
 怪訝そうな炯月に綜真は溜息をつく。
「見て分からねぇか?発情期だ。初めては里で迎えさせた方がいいだろって知り合いに言われてな」
 狼だけでなく、獣の発情期は肉親には分かりづらいものであるらしい。それは血が濃くなることを避けるため、本能で決められているようだった。
 なので炯月が鈍いにも仕方ないだろう。
 だが綜真にしてみればこれだけ見た目からして変わっているのだから、玻月玻月と眺めていれば分かるのではないかと疑いたくなる。
「良い知り合いを持ったな。その通りだ」
 灯成の言ったことに炯月は軽く首を縦に振って、それから玻月の頬を撫でる。
「そうか。成獣になったのか。良かった、本当に」
 玻月がな…と独り言のような呟いては何度も確かめるように玻月を撫でている。撫でられている子は戸惑いつつもされるがままだった。
 その様子すら愛おしいのか、炯月の瞳にうっすらと涙の膜が張る。
 感無量、といったところだろうか。
 ずっと離れて暮らしてきた分、玻月に対する思いの深さは並ならぬものがあるのかも知れない。
「俺には発情期なんてもんよく分からねぇからな、なんとかしてやってくれ」
「言われずとも」
 息子の発情期まで父親が何とかするものかどうかは知らない。だが炯月が力強く応じたということは、この件に関しては綜真の手を離れたも同然だろう。
「玻月!」
 今度は志月がやってきては炯月の腕にいた玻月へと抱きつこうとする。雄二匹に抱き締められるのはさすがに苦しいだろう。
 察した炯月は玻月を離し、志月へと渡した。
 喜々として玻月を抱き締めて「おかえり!元気だったか?おっきくなったな!」と笑顔で話しかける志月の顔を見て、綜真はそこにも見たことのない色があるのを感じた。
 玻月よりもずっとはっきりとした、雄々しい色の気配。
 発情しているのだろう。
「狼はみんなこの時期に発情するのか」
「大半はそうだ」
 春が来る前に、その訪れを待ち望むように狼たちはつがいを求め始める。
 どれだけ冬の寒さが厳しくとも、春が来ることを身体は知っているのだ。
「炯月は?」
 つがいを失った狼に発情期は来るのだろうか。
 狼の寿命は決して短くはなく、また体力の衰えが遅い種族だ。炯月ほど気力に見た溢れた雄であるなら、まだ子を成して育てるだけの力は充分にあるだろう。
 だが炯月は苦笑した。
「来ることはない。私の妻はもういないからな」
 我が子を成すならば、たった一匹の雌から。
 あの雌だけが己の子を産むのだ。
 炯月はそう決めているのだろう。もしくは身体がそれを刻んでいるのか。
「情け深いことで」
 これから先、どれだけ長い時間が残っていたとしても炯月は新しいつがいなど求めはしないのだ。
 孤独に沈んだとしても、己の妻は沙月のみであると胸を張る。
「狼とはそういう生き物だ」
 妻を思い出しているのか、慈しみを滲ませてそう告げる。
 その言葉に綜真の中でどくりと脈打つものがあった。
 怖いと感じるものに似ている、何かだった。
「華月は?」
 己の中で動いたものが何であるのか知りたくなくて、綜真はまだ訪れない玻月の姉の名を出した。
「もう来るだろう。誰ぞが呼んでいるはずだ。捕まっていても振り切る」
 捕まっていても、という台詞に発情期の雌は求められることが多いということを思い出す。
 特に華月の容姿は優れている。
「華月はこの時期大変そうだな」
「あれは妻に似て器量良しだからな。引く手数多と言ったところだ」
 娘が可愛いらしい父親は誇らしげに語ってくれる。しかも妻の自慢もしっかりと忘れない。
「嫁の行く先には困らねぇな」
「あれにはまだその気はないらしいがな」
 まだ嫁にいかないことを気にした様子もなく、炯月は微笑んでいる。出来るだけ手元に置いておきたいのだろう。
 そういえば炯月は娘を箱入りにしたいかのような扱いだった。娘はそれに一向に従うつもりはないようだったが。
「玻月も妻に似ている」
「雌には苦労しなさそうか?」
 線が細い雄というのは狼たちの中では軟弱だとされるのではないか。と綜真は思うのだがどうやらそれは杞憂らしい。
 炯月は口角を上げて挑戦的な目をした。
「すでに目をつけられている」
 玻月がここにいた時間は短く、痩せていた子どもだったというのに。その時期に玻月を気に入った雌がいたというのか。
「別の意味で苦労をしそうだな」
「魅力的な雄の宿命だ。志月もあれでなかなか雌が放っておかぬようでな、私も隠居が近い」
 志月は炯月似である。美丈夫で勇敢な炯月は沙月を娶るまで発情期になると騒ぎを起こしていたほどだったらしい。
 その子どもたちなので他の狼が関心を向けないはずがないのだろう。
 玻月もいつかここで嫁を貰って子を成すのかと思うと不思議な気持ちになる。だが小さく無表情で、それこそ人形のようだった子が成獣になっては他者に興味を持つようになったのだ。
 いずれは子を成すこともあるだろう。
(……狼にとっての幸せはそういうものだろうからな)
 家族を大切にする狼にとってつがいを持ち、己の血を繋げることは重大なことだ。
「玻月!玻月おかえりなさい!」
 歓声にも似た声を上げて走ってくるのは、華月だ。
 狼にしては金色の色彩が多い華月はきらきらとした瞳を輝かせて玻月を抱き締めた。
 弾けるような笑みは幸せそうで、その表情は真冬だというのに花が咲き誇っているようだった。
「えらい美人だな、特にこの時期は」
 発情期に里を訪れたことがなかったので、季節に身体を任せる狼たちがどんな雰囲気なのか知らずにいた。
 随分艶めくものだ。
「やらんぞ」
 素直に褒める綜真に父親は鋭く切り返した。
 しかしそんなつもりは欠片もない。
「狼を嫁に出来るとは思ってねぇよ」
 そんな大それたこと、と言いながら綜真はふいっと姉弟の再会から目を逸らす。
 無論嫁にするつもりなどない、と無言でもう一度だけ繰り返した。