三千世界   参ノ参




 上手くいくかどうかは分からない。
 そう釘を差されたようなものだが、あんなものはいざとなれば身体が勝手に動くものだ。
(まして相手は玄人だしな)
 欲情に任せていれば、どうとでもなることだ。
 そして一度味わってしまえば後は抵抗も薄れることだろう。どういうものであるかまずは学んでしまえばいいのだ。
 何も知らないから恐ろしいと感じる。
 知れば頭も身体もそれを受け入れることだろう。
(あいつは誰にも慣れてねぇから。だから一番近くにいた俺に情を向けただけだ)
 それは発情期につがいを求めることではない。勘違いしているのだと知らなければならない。
 でなければ、綜真も身が危うい。
(玻月が俺に欲情を向けることを決めたら、俺殺されるな)
 家族は綜真に玻月を預けた。けれど玻月をやったつもりはないだろう。
 きっと玻月が目的を遂げ、心の内側が整った後には里に戻って平穏な暮らしをして欲しいと思っているはずだ。
 狼として、狼の里で生きて欲しい。
 それが狼としての威厳と暮らしを奪われた子に願う家族の愛情だ。
「俺じゃ到底無理な話だ」
 綜真は狼ではない。一つのところに留まることも出来ない。ましてあの子と子を成すことも有り得ない話だ。
 初めから発情期の玻月に意識されてはならない存在だ。
 今回は初めてだったから、という言い訳を己の中で繰り返しながら綜真は与えられた部屋で一人酒を呑んでいた。
 口に含むと溶けるようなその芳醇さは極上の品であることを示している。
 女ではなく酒を入れることによって綜真はここに金を落とすことが多い。
 だが今は女を呼んで貰おうかと、ちらりと考えていた。玻月の物言いたげな熱の眼差しにずっと晒されていたのだ。その気はなくとも、身体の奥にくすぶるものがあった。
 玻月と共に旅をして、お互い女には縁がなかった。玻月という子どもがいるのだから女など見ている暇がなかったというのもある。それに綜真は元々源だの何だのを考え始めると女が欲しいと思わなくなる。
 情欲より、別の欲が勝るのだ。
 けれど女が欲しいと思わないわけではない。抱く快楽もしっかりと知っているので、一度意識してしまうと喉に引っかかる小骨のように、気が取られる。
「どうしたもんか」
 苦笑しつつ独りごちると襖が前触れもなく開いた。
 中にいる綜真に一言もない、その無遠慮さからそこにいるのは一人だと分かる。
 見ると案の定煉絢が立っていた。
 深紅の着物を合わせている帯はいつも緩く、艶めかしく白い足が裾から覗いている。
 見る者の視線を奪うには充分過ぎるほど蠱惑的な姿なのだが、綜真にとってみれば煉絢が浮かべる苦り切った顔の方が気になった。
 嫌な予感がする。
「どうした」
 酒が満たされていた杯を置いて、綜真は問いかける。
 すると溜息が返って来た。
「綜真。狼を引き取りに来やれ」
 それは玻月の身に何かがあったということだ。思わず腰を浮かした。
「何があった」
「売り物に傷を付けられたわいな」
 はんっと煉絢は嫌そうに鼻を鳴らした。
 遊郭にとって遊女は商品であり、それに傷を付けられると少なくともしばらくは客が取れない。なので遊女の身体に傷を付けられる、損傷を与えられることを大変嫌がる。
 そして遊女にそのようなことを強いる客は遊郭から閉め出されるものだ。
「……暴れた、のか?」
 玻月は大人しい子どもだ。言われなければ誰に手を上げることもない。
 自らを守ろうとする場合にのみ牙が剥けられる。それも、相当な危機感でなければ動かないほどだ。
 威嚇程度ではびくともしない。そういうところは大変肝が据わっている。
 淡々としていたあの子が女相手に暴れるということが、綜真には信じられなかった。
「暴れたというより、怯えておる。母親から引き離された幼い子のようじゃ」
 遊女に傷を付けられたというのに、煉絢が激怒していない理由はそこかも知れない。
 情欲に任せた行動ならば煉絢は力自慢の男衆に玻月を捕らえさせて、座敷牢にでもぶち込んでいるところだろう。そして一晩くらいはそこに置く。
 けれどそうではない。だからこうして苦そうな顔で綜真を呼ぶのだ。
「あれは発情も何も分からぬではありんせんか?もしくは、もう」
 あの子は、と言いかけて煉絢は口を閉ざした。
 酷く何か言いたそうな目で綜真を見下ろして来る。その先が何であるのか綜真は考えたくなかった。
「発情期が分からんと言われてもな……」
 そんなものどう教えるのか、綜真が知りたいくらいだ。
「売り物の傷は?」
 玻月を連れているのは綜真だ。玻月がやってしまった不始末の責を負うのは致し方ないことだった。
「腕に少し。大したことはありんせんが、数日は客が取れぬじゃろう。上玉じゃというに」
 この稼ぎ時に痛手である、と煉絢の顔には書いてあった。
 それはつまり綜真にどうしてくれる、と言っているに等しい。
「数日分の金は出しておく」
「そうせよ」
 当然のことであると煉絢は頷き、敷居から動いた。廊下へと身体をずらして、綜真に出てくるように促す。
「迎えに行くが良い」
「……どうしたもんかね」
 ここで座っていても意味はない。綜真は立ち上がり部屋から出るのだが足取りは非常に重いものだった。
 


 玻月が与えられた部屋へ、煉絢に案内されて向かうと玻月は部屋の隅でうずくまっていた。
 背中を壁に預け、耳を忙しくなく動かしている。
 朱色の布団が真ん中にあり、それは掛け布団のみが乱れている。おそらくその上でもみ合ったのだろう。
 橙色の灯籠が周囲を照らしているのだが綜真の目に一向に温かそうに見えない。
 玻月の様子がぬくもりなどとはほど遠いからだろう。
 綜真が入るとはっと顔を上げ、凝視してくる。
 その瞳はうっすらと濡れており、顔は泣き出しそうに歪められる。
(……なんて姿だ)
 こんな玻月の顔は初めて見る。
 発情期を迎えて雌を当てがわれたというのに、その姿はまるで暴漢に襲われた生娘のようだ。襲いかかるべき側であるというのに、真逆にしか見えない。
 尻尾は大きく膨らんでおり、玻月の状態がただならぬ様であることがよく分かる。
 ここまで怯えているといっそ哀れだ。
 呆れるよりもずっと憐憫の情が強く湧いてしまい、己の行ったことが非道であるかのように感じられた。
「綜真……」
 弱々しい声だ。
 どんな窮地に立ったとしてもこんな声を出してくれるような子ではないと思っていた。
 ぎゅっと心の臓が締め付けられる。
「どうした」
 出来るだけ柔らかな声で話しかけながら綜真は玻月へと寄った。
 一人きりで取り残された迷子のような玻月の前で膝を折る。
 すると玻月は更に表情を歪めた。
「嫌だ……」
 感情を込めて喋ることを苦手としていた子が、熱と思いを込めてそう告げる。
 否定する際にこれほどの気持ちが込められてしまうということ自体、悲哀を思わせた。
「何がだ?」
 問いかけながら、玻月が何を厭っているかなど理解していた。状況を見れば明らかだ。
 それでも口から出てきた言葉に対して玻月が唇を噛んだ。
 言ってはならないと感じているのかも知れない。
 綜真が世話をしてくれたことを無碍にすることは、悪いと判断するくらいの配慮は出来る子だ。
「抱きたくならないか?」
 あの雌では駄目だったのか、と聞きたいところだが。これではどんな雌だろうと駄目だろうとは察しが付いた。
 雌自体が、いやそもそも成獣に迫られること自体無理なのかも知れない。
 そんな予感を抱かせるような態度だ。
「ならない」
「でも身体が疼くだろう?」
 予想していた通りの答えだが。玻月の身体はそうは言っていないはずだ。その双眸はつがいを探しているものだ。
「熱い……」
「そうだろう。雌を抱けばそれは収まる」
「嫌だ。触れたくない。触れられたくない」
 玻月は接触を拒むのに、その手を綜真に伸ばす。
 すがり、懇願する眼差しを向けながら綜真に近寄るのだ。
 まるで熟した果実を手に握らされるような錯覚を覚えて、綜真は頭を抱えた。
「だがおまえは俺に触れる」
「綜真はいい。綜真だけは」
 おまえだけは、と告げる声が蠱惑的で鼓動を急かす。その発情した肌に呼応せよ、と囁くのだ。
 許されないことだと律する己を嘲笑っているかのようだ。
(これは、本当にまずいのかも知れない)
 この狼は、成獣になってしまった子は、腹をくくろうとしているのではないか。
 もう決めてしまったのではないか。
 選んではならない相手を、抱き込もうとしているのではないか。
 そんな恐ろしい想像が駆け巡る。
「玻月……」
 駄目だと言いたかった。
 しかし玻月は綜真の衣の裾を引いては身体を寄り寄せる。もし綜真が獣であったのならば発情している者の匂いが濃く漂ってきたことだろう。
 けれど人間にはこの匂いが分からない。それなのに絡め取るような視線が綜真を縛ろうとしていた。
 にじり寄り顔を寄せては首筋に唇を付けた。柔らかな感触。
 この子は知っているのだろうか。
 獣にとって首とは重要な意味を持っている。それは急所であり、他者に触れられることをとっさに拒んでしまう箇所だ。それだけ大切にされている身体の一部分に触れる、触れさせるということは、己を許すということになる。
 またそれを許されることを望んでいる行為だ。
(情事の際に首を噛まれることを好む雌は多い……)
 獣の雌を抱いた時、発情期にそれをすると甲高く啼いたことを思い出す。
 それを玻月は知らないだろう。
「玻月。俺は男だ。おまえと同じ雄だ」
「知ってる……」
 そんなことは当然のことだとして、玻月は受け止めているのだ。それでも尚、肌を寄せようとしてくる。
「狼でもない」
「分かっている」
「だからこれはおかしい。許されない」
 それで引き下がってくれと思った。だが玻月は綜真の予想を裏切り、しっかと見つめてくる。
 凛としたその瞳は綜真の中身を全て見透かしてしまいそうで思わず目を背けた。
 間違ったことなど一つも言っていないというのに、何故こんなにも息苦しさを覚えるのだろうか。
「何が許さない」
 それはおまえが許さないと決めただけではないのか。
 玻月が、言葉も意志も強く伝えることのなかったはずの子がはっきりと告げる。
 まるで突き刺さるようだった。
「……狼の性に逆らっている」
「俺は狼じゃないようなもの」
 こんなにも強く誘惑を香らせる者が狼以外の何であるというのか。
 玻月は己が今どんな様であるのか分からないから言えるのだ。
 しかしどう説明したところでこの子は理解しようとはしないだろう。そんなことはきっと、どうでも良いのだ。
「おまえの家族に悪い。俺は炯月に殺されるかも知れない」
 可愛い息子を男に取られた、しかも安心して預けた相手に手を付けられたとなれば炯月は怒り狂うだろう。
 綜真としてもあの狼に本気で狙われたのなら逃げ切れるかどうか自信がない。
 狼の執念は恐ろしいものがあるからだ。
 地の果てまで来るかも知れない。それが厄介だ。
 父親が許さないと言うと、玻月が凍り付いた。
 綜真の肩に触れようとしていた手が止まる、瞳孔が絞られる。
 衝撃を、痛みを感じている。
 見るだけではっかり分かる変化だった。それほど玻月にとって厳しい一言になってしまったらしい。
(こいつにも家族の情はちゃんと育っているのか)
 父親が悲しむことはしたくない。そう素直に思える心があるらしい。
 それに我が事のように小さな歓びを覚えるのだが、それより強いのは冷酷なことをしてしまったのではないかという後悔だった。
 玻月は見開いた瞳をゆっくり閉じていったかと思うときつく唇を噛んだ。
 込み上げてくる全てをそうして飲み込もうとしているかのようだ。
 ぴんっと力強く立っていた耳がへたりと垂れて、嫌だ嫌だと訴えているようだった。
 哀れみが掻き立てられるけれど、手を伸ばしてしまえば玻月の悲しみは増える。誰も歓迎しない結果が訪れる。
 それでは駄目なのだ。
「大丈夫だ。里に行けば雌を抱けるようになる。同種ならきっと怖くねぇよ」
 玻月は少しばかり混乱しているだけだ。だから側にいた危険のない相手、綜真にすがってしまっただけだ。
 少しばかり考え違いをしているだけだ。
 そう優しく説いては頭を撫でてやる。
 玻月は目を完全に閉じて力を抜いたようだった。
「狼ならきっと受け入れられる。さっきは狼じゃなかったから戸惑っただけだ。気にするな」
 里の狼なら平気だ。
 そう言い聞かせながら、綜真自身もそれを願っていた。
 けれど入り口の襖にもたれかかりながら傍観していた煉絢だけは冷ややかな目を向けてきていた。
「それはどうじゃろうな」
 綜真の見通しは甘いと一蹴している煉絢の台詞は、己の中からも聞こえてくるものだった。