三千世界 参ノ弐 「おまえも分かっているとは思うが。発情期が来ている」 遊郭の町である印の、朱色の大門を通ると綜真はそう説明を始めた。 辺りにはすでに嬌声が響き渡っていた。発情期の遊郭は実に賑やかだ。 騒がしく、猥雑で、あまりにもうるさいので綜真がこの時期に遊郭を訪れることは滅多にない。 周りが欲情を露わにして、露骨に誘ってくると萎えるような趣味をしているのだ。 欲情に頭がいっぱいになっている雌にはどうも、手が動かない。 しかし現在は己のためにここに来ているわけではない。後ろにいる子のためだ。 「発情……」 玻月は己の身体がどうなっているのか、薄々でも分かっていただろう。驚きも迷いもない。そうなのだろうと腑に落ちたように呟くだけだ。 「子を成すための欲が掻き立てられる時期だ。人間にはないのだが獣には大抵これがあり。これを迎えることによって成獣になったと認められる」 交配が出来ねば成獣も何もない。 それにしてもなんと堅苦しい話し方をしているのだろうかと自嘲したくなる。 「知っている」 何も知らぬだろうと思っていた子は、綜真の淡々とした説明にそう返事をした。 それにやや安堵しつつも、説明は続ける。 「そうか。発情期がやってくると子を成したいと思い相手を求め始める。我慢しようと思っても出来るような衝動ではない」 人間ならば我慢出来るのが当然なのだが。発情期の獣にそれを強いるのは酷だと聞いている。 獣として生まれついた者のさだめのようなものだ。 現に周囲では相手を求める声がひっきりなしに聞こえてきていた。 ずらりと並んだ朱色の提灯に照らされた館たち。格子の向こうで手招いている遊女たちも、どことなく浮き足立っていて抱かれることを今か今かと待ち望んでいるようだった。 煌びやかな着物が褪せるほどの、誘惑の視線が飛び交っている。 「つまり雌を抱け、ということだ。そうすりゃおまえも落ち着く」 腹にあるだろう熱の渦も、そうすればきちんと収まるのだ。 抱くことに快楽を得て、それを好むようになるかどうかまでは知らない。だが熱が引くことだけは約束されている。 「雌……」 玻月の声がやや沈む。それに気が付かないふりをしたかった。 「中には同性でもいいって奴もいるが。大半は異性を欲しがる。交配を身体が望んでいるからな。子が成せる性を選ぶのが自然だ」 言い訳じみている、と我ながら思っていた。 玻月の手がまだ羽織から離されていないと知りながらも。おまえの相手は雌だと繰り返す。 そうしてくれという願いも含まれていた。 「同種であることが望ましいが狼の里までまだかかる。それまでおまえが持ちそうもないからな」 欲情に何もかも囚われた玻月は見たくない。 「ここでお世話になっとけ。初めてなら玄人の方が楽だし、恥もかかねぇ」 「何を」 玻月から動揺の声が聞こえた。 けれど立ち止まることはない。 遊郭には初物が好きだという遊女もいるのだ。綜真が懇意している館には、そういうのが好きだという女を幾人か知っている。 男を喰い物にしている女が多いのが特徴なのは主の性質故である。 「色々だよ。生きてりゃ学ぶことはたくさんある」 そう言った頃、ようやく求めた館に辿り着いた。 長かった、といつもよりずっと短い時しか使っていないというのに、綜真は疲れを感じていた。 ひときは頑丈でどっしりとした赤紫の門。格子から歓声のような誘惑が聞こえてくるのだが、それには目もくれずに毒々しいまで華やかな暖簾をくぐった。 鼻につくほど甘い香りが綜真を出迎えてくれる。 ふんだんに灯籠を使い、館の中は明るい。発情期は他の時期よりも中が明るいのだ。そうしなければ暗がりでいきなり睦み合いが行われる可能性があった。 それほどこの時期は節操がない。 入り口で立ち止まると玻月が強張ったのが気配として感じられる。けれどここで下手な情けなど掛けようものなら、後でまずいことになる。 番犬である屈強な男が綜真を迎えに来る。強面の顔には似合わないほどふわりとした柔らかそうな犬の耳が頭についている。 けれど背後にある、同じく柔らかそうな毛並みの尻尾が振られているところを綜真は見たことがない。 誰が目当てであるのかは互いに言うまでもないのだが、今回ばかりは少しばかり事情が違った。 それでも話を通すのはこの番犬ではない。 「姐さんを」 そう告げると頭を下げて番犬は通してくれる。天井まで吹き抜けになっている階段は目が眩むほど高さだが緩く回っているこの上りを全て踏んだことはない。 この時も躊躇いなく階段を上がり始める。玻月も黙って後に付いてきていた。 一度味合ったことがあるだけに、綜真ではない別の気配が術を広げていっても抵抗はしない。 客人がこの階段を上がってくることを暢気に待つだけの暇を、相手は持っていない。 それだけ悠長に構えているつもりはないのだろう。 綜真もその方が有り難い。 問答無用でまぶたをすっと下ろされるような力を感じたかと思うと、次の瞬間にはこの館の最上階に着いていた。 目の前には大きな襖だ。艶やかな椿の絵が描かれており見る者を威嚇するほどの迫力がある。 常ならばその襖の前に女童が二人、左右に控えているのだが今日はいないらしい。 (ということはてめぇで開けろってことか) この襖に自ら手をかけるのはなにやら覚悟がいる。 向こう側にあの女がいることを知っているので尚更だろう。相手の体内に取り込まれているかのような感覚を覚えるこの館は、居心地はあまり良くないのだ。 「失礼する」 一言かけて襖を開けると、いつも通り上座に女が鎮座していた。 脇息にだらしなくしな垂れ、手には煙管があった。 他の部屋にある灯籠は橙か朱色が多いというのに、この部屋は黄色だ。そして窓に格子はなく、置かれている箪笥や鏡台も落ち着いた物静かな雰囲気である。 遊郭の一室にしては騒がしさがない。 ただ一つ、女の背後にある屏風を除けばの話だった。 金糸で張られた蜘蛛の糸に、美しい蝶が捕らわれているという捕食の図。残酷であるはずの絵柄ではあるが、肝心の蜘蛛はどこにもなく、また美しい蝶は女にたとえられるはずだというのに、この絵から連想するのはただの力強さだった。 おそらく屏風の前にいる女が、決して喰われる側ではないからだろう。 「何用かや」 朱唇から煙を吐いたかと思うと女は気怠そうにそう問いかけた。力が抜けているような声ではあるのだが、その双眸には輝きにも似た強い意志が宿っている。 その性根が荒々しいことを外に出すことが珍しい女が、このような姿をさらしているのも時期が関係しているのだろう。 長く豊かな黒髪は耳から上が結い上げられ、紅色の玉が連ねられている簪で止められている。 他の髪はそのまま長く糸のように広がっており、深紅の着物に新しい図柄を与えているかのようだった。 綜真を見据える双眸は瑠璃色。輝石のようだがその鋭さは刃とも言える。 いつ見ても凍り付きそうになるほど美しい容貌の女だ。一目見れば記憶に焼き付いて、羨望を向けるものであるが、綜真は小さな恐怖は抱いてもそれ以上の感情を持つことはなかった。 ましてこの女は現在機嫌があまりよろしくないらしい。 「稼ぎ時じゃ」 閨事を金に換える遊郭にとって、発情期は放って置いても次から次に金が入ってくる季節だ。この時期はどんなに愛想のない女も、女というだけで金になるのだから遊郭としては客を一人でも多く取らせて忙しく金勘定をしている時だろう。 なので女に対して関心もない綜真が来て、煉絢は水を差されたような気持ちになったのだろう。 「その稼ぎ時に貢献してやろうかと思ってな」 そう言うと煉絢の眼差しが何のことかと問いかける。 それに綜真はちらりと己の横にいる者へと目を向けて教えた。 「子どもが成獣になったか」 ふむ、と煉絢は不機嫌さを消して、姿勢を正した。 どうも煉絢もこの子に関わることになると、多少は手を貸してくれるようだった。 狼の両親が死に物狂いで玻月を探し回り、それが他者の心を打ったからだ。 「痩せ細ったか細い子だとばかり思ったが、大きゅうなった。そうか、発情期まで迎えたかや」 感慨深いという煉絢の表情は、どことなく親のようなものにも見える。 この女にも親愛の情があるのかと思うと不可思議な気持ちになるのだが。きっと煉絢も同じことを綜真に対して感じているはずだ。 「そういうことだ。一人、いいのをよこしてくれないか。初めてだからな、優しい女がいい」 玻月が抱く相手の条件まで出すとは、どこまで保護するつもりなのかと己に呆れも湧いてくる。しかし戸惑うばかりで、小さくなっている玻月を見ると無難に筆下ろしを済ませてやりたいと思ってしまうのだ。 そんな綜真を見て煉絢は笑うと思っていた。随分と気を遣うのだとからかうだろうと。だが意外にも見せられたのは苦さだった。 「軽く言いよる」 「筆下ろしが出来る女の一人や二人いるだろ」 何故渋られるのか、初物が好きだという女だっているはずだと綜がいぶかしむと煉絢は近くにあった煙草箱に煙管の雁首を預けた。 「おる。じゃがな、おぬしは大切なことを忘れておる」 煉絢は溜息をついたかと思うと肩から流れ落ちた髪を後ろへと払いのけた。 「それは狼であろう」 狼は保守的な生き物。他者を良しとはしない。 それは己も散々身に染みて分かっていたことだ。だが発情期になってしまった今、同種かそうでないかまでこだわるだろうかという、楽観があった。 しかし煉絢はそれが外れだと暗に告げていた。 「まずいか」 「良くはないわいな」 それはどう転ぶか分からないということだ。 ここにくればとりあえず何とかなる。煉絢が何とかするだろうと高をくくっていた綜真を嘲笑うかのような状況だった。 「狼は気難しい。相手はかなり厳選する生き物じゃ」 「だがこいつはいまいちこだわらないと思うぜ。狼の自覚もねぇし」 狼らしさが身についていないような子だ。 正直ちゃんと発情期を迎えたことにも少し驚いたくらいだった。 「発情は本能であり身体が物言うもの。人であるぬしには分からぬことであろうが、生まれた時から染みついた気質はそう抜けたりせぬ」 駄目かも知れない。 そう突き付けられ、綜真はどうしてものかと頭を抱えたくなる。 (だがここまで来て、引き下がるのもな) 辺りは喘ぎ声で満ちており、玻月もここに来る前よりずっとさわさわしている。 発情の高ぶりがあるのだろう。 それなのに退室すれば事態は危険なことになりそうだった。 「何より狼は警戒心が強い。気立ての良い犬でもあてがうが」 どうやら煉絢は手助けをしてくれるらしい。そのことにまず安堵したのだが、晴れない表情はどうなっても知らぬと言っているようなものだ。 「どうなることやら」 玻月は己のことだというのに、相変わらず聞いているのかいないのか分からない。 俯いて何かに耐えているかのような姿は可哀想ですらあった。 「しゃんとしろ玻月。一度やっちまったらどうってことねぇよ」 背中を軽く叩くのだが、びくりとするばかりで顔が上がることもない。 発情期を知らぬ子どもの頃の方が泰然としており、まだ背筋が伸びていた。 弱々しさすら滲ませる様に不安が掻き立てられる。 「その子の方が取って喰われそうじゃな」 くつりと笑ったかと思うと煉絢はふと何かに気が付いたかのように瞬きをした。 「いっそわっちが相手してやるのも良いな」 「止めろ。俺はここで玻月を死なせるわけにはいかん」 とんでもない台詞に綜真は即座に拒否を示す。煉絢が出てくるなど冗談ではない。 「死なせるなど、そのような愚行わっちはせぬわいな」 「大差ねぇよ」 骨抜きにして自我も何かもかも奪われるのならば、死者と違いがない。少なくとも綜真にとってそれは生きている内に入らない。 玻月をそんな目に遭わせるなど断固お断りだった。 そんな綜真に煉絢は「残念じゃな」と愉快そうに喉を鳴らした。 次 |