三千世界 参ノ壱 寒さがまだまだ厳しく、気を抜けば凍え死んでしまいそうな夜。 しかし寒ければ寒いほど、過酷な冷たさであればあるほど、夜というのは透き通る。 まるで水のように透る夜の闇。頭上には満天の星と、ぽかりと丸い光が浮かんでいた。 真白の望月。 陽光よりもずっと淡く、けれど柔らかな光が降り注いでくる。 昼の光は生命を育んでいる。慈悲というのならば太陽の光であるだろう。けれど月の光の方が慈しみを覚えてしまうのは。綜真にとって夜が脅威ではないせいだろうか。 それとも暗がりを照らしているその光が、まるで希望のように勘違い出来るからだろうか。 夜の生き物である狼は、それを見上げて何を思っているだろうか。 綜真は隣にいる玻月の視線を追っては横顔を見つめる。 いつしかこの子は月を見上げる際に熱の籠もった眼差しを向けるようになった。 それまでは何の感情も込められず、淡々とした双眸であったのに。今はこんなにも物言いたげだ。何かを欲しがるような表情すら窺わせる。 (春は遠いと思っていたんだがな) 灯成に言われ、綜真は狼の里に一端戻ろうとしていた。 春が、玻月の初めての発情期が来る前になんとか里に帰して狼たちに教育をして貰おうと思ったのだ。 綜真は狼たちと交流はあるけれど所詮は人間。本能に左右される発情期の感覚も、どんな行動を取るのかも詳しくは知らない。 まして初めて発情期を迎える子の扱いなど分かるはずもない。 ならば親元に帰して、同種に任せるのが最良だと思ったのだ。 そのために道を引き返していた。けれど、春は綜真が思っているよりも近くにあったものらしい。 「遠吠えしても構わんぞ」 玻月がそれをしないことに気が付いたのも、灯成に指摘されてからだ。 狼がそういうものであるこということも、綜真は失念していた。それほど玻月は自らの内面を表に出さない。 もしくは出す術を知らないのかも知れない。 「別にいい」 遠吠えを勧めても玻月は素っ気ないままだ。 遠慮しているのではない。分からないのだろう。 「したいとは思わないのか?」 常ならばそうか、と一言返すだけなのだが。発情期が近く、ここのところ落ち着きを失いつつある子はどうにかして欲求を示そうしているようにも見えた。 なのでわざわざ口にしたのだが。こちらを見た玻月には小さな惑いがあった。 感情が読みにくい子がそうして惑いであっても顔に出していること自体、変化だった。 「分からない」 やはり分からないままだ。 その先どうなるのか漠然とした不安が込み上げる。 (ただの連れだったなら、ほっとくんだがな) 玻月は狼たちから預かっている大切な子だ。無碍にするわけにはいかない。ましてすでに二年近く共に過ごして、それなりに愛着も湧いている。 発情期を迎えて面倒になったので「はいここまで」と言って棄てるわけにもいかないだろう。 「寒い……」 この真冬ではやはり寒さが辛いらしい。弱音など吐かぬ子ではあるが、暑さ寒さを感じることくらいあるだろう。 寄り添って眠っていた身体を更に密着してくる。 細く肉付きの悪い身体だがこれでもまだましになった。 己より高い体温を羽織に包んで抱え込んで綜真は鼓動を聞く。 こうして眠ることにも慣れきってしまった。 特に寒い夜はこうして眠ることが最も心地良いのだと染み込んでしまっている。 それはきっと玻月も同じだろう。 (手放した時が思い知らされる) おそらく寒さが堪えることだろう。 いつになるか分からないけれど、この子との旅には目的がある。それが果たされればいずれ別れる繋がりだ。 明確には見えないその終わりを考えていると、察したかのように玻月が見上げてくる。 呼吸すら感じられる距離で交わる視線。 静かなばかりだったその瞳に、確かに熱情が混じっている。 直視すればまるで酔いのように腹の奥から熱が込み上げてはぞわりとした予感が背筋に走る。 (月の子は恐ろしい、というところか) 幻惑と誘惑を得手とする月の僕。狼は発情期を迎えるというだけで目があった者の心を乱すのだ。 源を呼んで術をかけたわけでもないのに、意識の中へと滑り込んでくる誘い。 こんな何も知らぬ幼子ですらそうなのだから。発情期の狼ばかりがいる里に入るのはやや恐ろしい。 だが現在一番恐ろしいのは腕の中にいて、全てを己に預けてくる玻月の存在だった。 この身に触れてしまえと囁く声すら聞こえてきそうだった。 (こりゃ先に遊郭に入れた方がいいかも知れねぇな) 綜真にまで、無意識であっても誘いをかけるということは。欲求が迫り上がっているということだ。先に欲情を吐き出させなければ、里に帰る前に暴れ始めるかも知れない。 それは勘弁して欲しかった。 「寝ろ。明日はだいぶ歩くぞ」 そう告げると玻月は大人しく目を伏せて、綜真へと重みをかけてくる。それをしっかりと受け止めると安心したように目を閉じた。 無防備に何もかも預けてくるその姿にすら、何か引き寄せられる。 (自然なことだったのにな) 当たり前になってしまった日常に深みを探りそうになる。この時点で綜真は己の中に後ろめたさが生まれていることを自覚していた。 (さっさと雄の自覚持たして、雌を求めることを覚えさせねぇと) 誘いを持たせる相手は男ではないのだと。そんな風に情をちらつかせるものではないのだと。玻月自らに気付かせなければ、と綜真は夜の中で一人決意した。 距離が近い。 町中に入り、歩き出すと傍らにいた玻月は益々綜真に添った。 そして表情が増えた。そうは言っても見せられるものは困惑ばかりで、哀れみを覚えるばかりだった。落ち着けと言うのは簡単だが、発情期を感じたことのない子が初めて迎えることに、何の知識も与えられずにただ冷静になれというのも無体なことだった。 玻月は身の内から生まれてくるだろう熱と、衝動を抑えようとするように綜真へと近寄ってくる。 だがそれに応じるわけにはいかないのだ。 正直馴染みの町に入り、遊郭へと向かい安堵を覚えていた。 己では手に負えないことだ。 (後は煉絢に任せればいい) 情欲に関することならば、あの女が良いようにしてくれるはずだ。発情期の獣の扱いには慣れている。 狼の里までなんとか保つかと、玻月を見て計っていたのだが。どうもそこまで持ちそうになかった。ここのところは夜も二人でいると落ち着かずに綜真の様子を窺っている。 己が何をしたいのか、きっと玻月自身もよく分かっていないだろう。だから困ったような、泣きそうな顔をちらりと見せるのだ。 無知は憐憫の情を抱かせる。けれど何も知らずにいてくれて良かったとも思った。 蠱惑的な生き物は相手が預かり者、そして同性であり子どもだと知りながらも危うさを掴ませようとする。 (手出せるような相手じゃねぇ) こんな子どもに手など出せるものか。 そう己に言いながら、綜真は先を急いだ。 冬場の乾ききった大気によって土が砂煙を上げる。だがそれを踏みにじるようにして綜真は歩き続ける。 行き過ぎる者たちなどには頓着しない。ただ顔なじみの遊郭に向かうだけだった。けれど玻月は先を行く綜真に声をかけてくる。 「綜真」 「どうした」 困惑の濃い声に振り返ると玻月の耳が忙しなく周囲を探っていた。周りに無関心である子は最近になってこうして耳や尻尾をよく動かす。 「見られている」 端的な、だが脅威を感じているだろう声音だった。 言われて綜真も周囲を探るが、確かに視線が幾つも絡んでくる。 綜真に向けられているもの、玻月に向けられているもの。男女様々ではあったのだが。綜真はこの手の視線にも慣れていた。 玻月のものでなければ何とも思わない。 「時期が時期だからな」 この時期だけは他者に無関心な者であっても、ついつい周りを見てしまうものだ。 「発情期だからな、どいつもこいつも品定めしてんだ」 相手が自分の好みであるのか四六時中周りを見ている。 綜真は常から変わった格好をしている男であるため見られることには慣れている。それでもこの時期の視線は特別であると感じていた。 情欲の視線というのはどれも強すぎる。 肌に付いては粘りけを帯びるようだった。 人間には発情期がないので、どうもこの時期だけは蚊帳の外にいる気持ちだ。もっとも巻き込まれても良いことはないので、放置しておいてもらうのが喜ばしいことではある。 「そこいらで気に入るのがあるなら、それで手を打ってもいいんだぜ」 遊郭に行って女をとらずとも、気になる雌がいるというのならばそれを誘っても良いのだ。 玻月は見た目は細く、容姿も雄々しいとは言えない。だがそういう雄が好きだという雌も山ほどおり、この子は母親似であるが綺麗だと言えなくもない狼だ。 欲を言えばもう少し育って欲しいが、それは好みによるだろう。 雄相手なら止めるところが、相手が雌ならば相当危険そうな相手でなければ綜真が口出しすることではない。 だが玻月は首を振った。 「いらない」 頑なである声でそう言ったかと思うと綜真の羽織の端を掴む。 それに引っ張られるのは何も布だけではない。 綜真の心まで軽く引き寄せるようで、心臓がどくりと跳ねた。 (嗚呼……参る) 何がどうとは言えない。だがそうとしか言えない、叩きのめそうとしている力を感じる。 玻月から与えられているのか、己の中から襲いかかってくるものかは判別が付かないが。それに囚われればならないことたけは理解出来ていた。 次 |