三千世界   弐ノ九




 灯成の瞼を抑えている掌から、灯成の体内を巡る気が感じられる。その気はいつまで経っても落ち着かない。
 陽の気を流して、自然と灯成がそれを己のものに出来るように染み込ませているはずなのに一向に安定しない。
 陰の気がぞわりぞわりと内側を這っているのだ。
「おまえ、頭ん中でさっきの光景思い出してんじゃねぇだろうな?」
 嫌な予感がしてそう問いかけると灯成の肩がびくりと跳ねた。
 聞くまでもない答えに舌打ちをした。
「なんで分かんの?」
「気が乱れっぱなしなんだよ。魅了されんぞ」
 忘れてしまえと言えれば良いのだが、簡単に忘れられないほどのものを見せるから、あの大樹は恐ろしい存在なのだ。
 だからこそ虜にされるものが後を絶たない。
 案の定灯成は「うー……」と唸った。
「昨日の晩飯は何だった?」
「え?」
「何食ったんだよ?」
 いいから答えろと灯成に命じる。
「川魚と〜、茸の汁物…あ、宿の女将に漬け物貰ったなー、大根美味かった」
 綜真が泊まってるところの女将は茄子の漬け物が美味いよ、と教えてくれる。
 単純な話を振ると容易に食いついて語ってくれるのが、手軽で楽だった。
 きっと頭の中も食った晩飯がうわうわと思い浮かんでいることだろう。
「漬け物は梅干しが好きなんだけどさ。それで、魅入られたらどうなんの?」
 灯成は晩飯を思い出して少しばかりいつも調子が戻ったらしい。深刻さが決定的に欠けた喋り方で問いかけてくる。
 緊張感がない、とこの状況を知らぬ者なら言うかも知れない。だが綜真はそれが正しい対処だと知っている。真剣に向き合えばその分だけ引き込まれる。
「下僕になる」
「げ、ぼく」
「あの男にとっては今、樹の中から出てくる己が最も好いた者が出てきており、そいつの為に喰い物を運んできている。この喰い物がどんな形であろうとも構いはしない。そんな理性は残ってねぇだろう」
 だからこそ平然と死体を肩に担げるのだ。
「源を持っている者たちが、食べ物?」
「そうだ。それを食って樹は力を蓄える」
 くちゅ、と濡れた音がして綜真は逸らしていた視線を元に戻した。
 玻月など何の表情の変化もなく眺めているが、実際目の前にあるのは転がされた死体の腹に触手を入れている樹の姿だ。
 触手は牙のように先端を開き、尖らせては皮膚を食い破っている。裂けた肌から触手を突っ込み肉を千切って血を啜る。
 無数の触手たちは全て一つのケダモノになっているようだ。
 肉片やら血やらが周囲を汚しているけれど、そこにいるはずの男は触手に包まれていてこちらからも存在が確認出来ていない。
(…何度見ても、おぞましいとしか言いようがないな)
 小さなケダモノが肉に群がり、浅ましく喰い散らかしている様は気味が悪い。
 人間であったはずの死体はみるみるうちに骨が見え始め、四肢が離れていく。
(樹だとは到底思えない食欲だ)
 あんな喰い方をする植物を他に知らない。
「それで、力蓄えてどうすんの?」
 不気味な音が聞こえているはずの灯成は少しばかり声量を上げた。嫌な想像をしてしまいそうな己を止めているのかも知れない。
「冬に備え、春と共に種を出す」
 そんなところだけ、植物の仲間であるような顔をする。しかしあくまでも季節に添っている、という部分だけだ。
「虜になった男の身体に種を植え付けて、種を育ちやすいところに運ばせる」
 樹は動くことが出来ない。だが近くに己の子孫を残すわけにはいかないのだ。
 周囲を見れば分かる通り、あの樹は周りの養分を吸い取ってしまう。まだ若い木などひとたまりもないだろう。だから種は遠くに飛ばさなければならない。
 しかし飛ばしたところで限界がある。だから足を使うのだ。己にはない足を、人を惑わすことで得る。
「そして土が見付かって種が芽を出そうとする時、虜は真っ先に餌になる」
 その身体を養分として種は芽を出して土地に根を張るのだ。
「壮絶だね……」
 虜になりかけた灯成は虜になっている男のことを考えているのか、掠れ気味の声でそう言った。他に言いようもない心境なのだろう。
「幻覚がかかっているからな、虜にとっては幸せだろう」
 どんなものであっても大樹が与えるなら幸福に繋がるのだ。そういう錯覚を起こすように仕組まれている。
 都合の良い存在だ。道具であり食物にもなるのだから。
「人を攫って来ることに何の躊躇いもないのは、そのせいか」
「好いた者と己が幸福になるためだ。他の生き物なんざどうでもいいんだろうよ」
 虜の世界は己と大樹だけで閉ざされている。
「……紅猿も?」
 灯成は周囲を憚るように、更に声を潜めた。
 後ろにいるだろう者たちを気遣ってのことだろう。
「弱っていたなら好都合だっただろうな」
 もうとうに喰われて跡形もなくなっているはずだ。
 源を保持している上に片腕を失って弱っているなんて、獲物としてはかなり上質だ。間違いなくあの中に納められたことだろう。
「それで、一昨日は何を食った?」
 灯成は紅猿でも思い出して、そこからまた大樹を連想したのだろう。陰の気がまた乱れ始めていた。
 こうして単純な話題を振ってやらなければ瞼の裏に幻想を抱きそうだ。
「おにぎり。中身梅干しで美味しかった。あと柿」
 そういえばこの里には丸々と太った柿をずっしりと実らせている木が多い。土地が豊かなのだろう。
 自身もそうして余計なことを意図として思いだそうとしているところからして、あの邪気がどれだけ危ういものか察しているのだろう。
 肌から伝わってくる気配だけでも寒気がした。
「兄貴が喰われてたとしたら、あの人たちどうすんのかな」
 ここまで決死の思いでやってきて、恐怖に負けそうになりながらも辿り付いたのだ。なのに兄貴がいなくなっていたとすれば不憫だと、灯成は哀れみを覚えているようだった。
 けれど綜真はその優しさを笑う。
「どうするもこうするもねぇよ。どうせ何も分からなくなってんだろ」
「どういうこと?」
「ここで俺がおまえに陽の気を流してるからおまえはまだ正気だが。あいつらには何もしてねぇ。今頃魅入られてる」
 深く深く神経に幻をすり込まれているはずだ。あの大樹の意志に従って己を手放して、隷属の一つに成り下がる。
「今からあいつらは大樹の下僕だ」
 綜真ですら直視出来ないものを、あれらは見ているはずだ。不用意に目にすれば視線を釘付けにされるのだから間違いない。
「見てしまえば、耐性のない奴はみんないかれちまう」
 そして果ては餌になって喰われるのだ。
 こんな巡り合わせに立ち会ってしまったのが運の尽き。兄貴がいなくなったことなど放置して、また別の紅猿の者にすがれば良かっただろうに。
 賊が仁義など通すからろくなことにならない。
「うわぁ……」
 灯成は上擦った声でそう呟いてからぶるりと震えた。恐れがまた陰を濃くさせてしまう。
 おい、と声を掛けようかと思ったのだが「あ。そうそう」と場に合わないほどの軽い口調が聞こえた。
「宿の人が干し芋くれるって言ってたよ。あそこの芋美味いんだよね」
(食い物に関して詳しすぎだろうがこいつ……)
 自ら陰に囚われないように努力することも、飯の話題を振ったのも綜真だが。それにしてもこの周辺の宿で出す食い物に関して詳しい。
「そりゃ良かった。後ではずんどく」
「そーしといてよ。俺干し芋好きで、よくあそこから買うんだよ」
「雌みてぇだな」
 干し芋は嫌いではないが、甘い物だという認識がある。それが好きだという雄は珍しい。
「そうかな」
 大体栗だの芋だのというものを好むのは雌の方が多い。
 あとは子どもだが、玻月はまだ幼いのにそういうものを好む様子もなかった。
 何が好物かも知らない。
(出されたもんは黙って食うしかねぇからな)
 今度訊いてやっても良いと思っていると、灯成が深く息を吐いた。
「……ねぇ、これほっとくの?」
「あぁ?」
「もし紅猿の下っ端まで下僕になった。もっと人が攫われて、喰われる人が増えるんじゃないの?」
 下僕という手が増えてしまえば、捕らえられる者が増える。失われる命が多くなる。それを嘆いているのだろう。
「退治してくれない?」
 そっと切実な思いが込められているだろう言葉を聞くけれど、綜真は応と言えず唸った。
「安心して暮らせないよ」
「おまえくらいの力があれば、あんな男や紅猿の下っ端くらい返り討ちに出来るだろ」
 灯成は攫われはしない。断言出来る。
 今回子どもの死体を運んでいた男も、後ろで呆けているだろう男三匹も灯成には敵わない。伊達にふらふらと放浪しているわけではない。
 しかし灯成の言いたいことはそれではないのだろう。分かりながらもはぐらかした。
「俺はそうだけど。でも他の人は、もっと弱い人は攫われてしまうだろ。綜真」
 犬は頼み事が上手い。
 下手に出て、おだてて褒めて、まして貴方しかいないというようなすがるような目で見る。今は目を塞いでいるので視線は向けられていないが、それでも声音は切なるものがあった。
 非道と言われることに抵抗のない綜真だが、親しみがある相手にまでそう罵られるのはやはり気が重い。
「退治出来るならそうした方がいいんだろうな」
 あっても何も良いことはない。
 人間にも神格にも、害にしかならないものだ。倒したところで感謝こそされ、恨むのは下僕だけ。
 それでも綜真は承諾しない。
「だが今は無理だ」
「どうして!?」
 言いたくない、と綜真の矜持が叫んでいるのだが致し方ない。
 無理だの一点張りでは納得しないだろう。
「あいつがどれだけの源を喰ったか分かるか?」
 ぴたりと灯成が止まった。
「どれだけの者がいなくなった?」
 多くの者がいなくなったから灯成は動いたのではないか。だから里は緊迫していたのではないか。
 言うなれば、その分だけあの大樹の中に源が、生き物の生気が蓄えられているということだ。
「いくら俺でも膨大すぎる源には太刀打ち出来ん」
「綜真でも?」
 最後の望みの綱とでも言いたいのか、頼み込んでこようとする灯成に憂いを感じる。
「悲しいかな俺は所詮人間の形をしている生き物だ。源を留めるために形を変えた巨大な化け物には歯が立たねぇよ」
 あれは自ら動くことはなく、ただ源を溜め込んで種を残すことのみに特化している。他の部位など切り捨ててしまっているのだ。
 それほど洗練された、ただ源を貯蔵することに長けているだけの生き物に人間の形を保ったままの綜真が敵うことは出来ない。
 二つの足も、目も口も、意志も何も捨てていないのだから。
 そして捨てることは無理だと分かるだけに、あれを羨む気もない。
「それじゃ、このまま……」
 灯成はこの土地が気に入っているのだろう。あれほど宿のことに詳しいのだから何度も通っているはずだ。それが喰い尽くされるのは忍びないらしい。
「春になったら溜めた源で種を出す。殺すならその後だ。三年ほどは眠りに入るからな」
 あの大樹とてずっと毎年のように種を出すことは出来ない。種を出すということは大樹にとっても命がけで行う大変な営みのようだ。
 だから種を出せば暫く眠るのだ。欠損した部分を癒すために。
「その間になんとかして貰え」
「来ないの?」
 己ではない誰かを呼べと言う綜真に不満げな声が上がる。
 何の目的もない、連れもいない状況なら来ても良いと言うところだ。大樹が壊れる様もどんなものか見てみたい。
「種がどうやって運ばれて、芽を出すのか見たくない?」
 特殊であろうその光景を餌にして、綜真をまた呼ぼうとしている灯成に苦笑する。
 何であれば綜真の気を引けるのか、ちゃんと理解しているところが犬の人なつっこさに思えた。
「見たことがある」
 残念ながらそれは見たことがあるのだ。
 ここではない別の場所で、とある男が抱え込んだ種が数日間歩き続けてとある温暖な場所に辿り着いては芽を出した。
「ちぇ」
 なんだ、と灯成は膨れっ面をする。
(連れがなければな)
 玻月がいなければ、春過ぎにまたここに来ても良かったのだが。玻月がいて、目的がある。
 紅猿に関しての情報を得たとすれば、そちらを優先するだろう。
 だからここに必ず来るとは約束出来ないのだ。
「芽が出たところとか、すごかったんだろうね」
「すごかったぜ。そりゃもう…」
 拗ねるように言う灯成の言葉に同意して、綜真はちらりと大樹を見た。
 肉片で汚れた木。
 しかしすぐに目を逸らす。醜いからではない。源を喰って、一層大樹が育っているのが分かるからだ。
「これよりも、な」
 そう呟いた綜真に玻月の視線が絡む。
 淡々とありのままを見ていただろう狼は、それでも顔色一つ変えることもなく立っていた。