三千世界 弐ノ十 帰り道はどんよりとした空気だった。 行きは六人だったけれど、帰りは半分しかいない。 紅猿たちは捨て置いた。 声をかけたところで何の反応もなかったのだ。灯成などは痛ましいという顔をしたけれど、綜真はそこで完全に興味が無くなった。 元々薄い関心が無くなっただけだ。 もう思い出すことはないだろう。 「春、か」 指折り数えたとしても、それは遠い。 まだ雪が降るだろう冬すら迎えていないのだ。 灯成はすでに極寒の地にいるかのように厳しい表情を浮かべている。 「春過ぎに来て、なんとかしてよ」 来ないと断言したわけではない。だから灯成はまだ言うのだろう。 「気が向いたらな」 それ以上返せることはない。 重苦しいほど圧迫感のある森の中、その答えに灯成が溜息をついたようだった。 ろくな結末など見えない。それを知っていたから綜真は深入りなどしたくなかったのだ。 「それまでは俺も里に帰ろうかな」 ぽつりと寂しそうに呟いている。 犬は里の意識が強い。 どれほどふらふらと放浪していても、やはり生まれ育った里が恋しくなる時があるのだろう。 まして灯成は里を追い出されたわけでもないらしい。戻りたいと言うことを我慢する必要のない犬だった。 「野良がおかえりか」 「発情期が来るからね」 そういえばそんな時期か、と発情期のない人間である綜真は思い出す。 言われなければ意識することのないものだ。実際発情期であると思われる冬の終わりから春にかけては周りが浮き足立っているのが分かるけれど、他人事だ。 たまに誘いを受けて巻き込まれるのだが、一夜限りのそれは遊びでしかない。向こうも綜真が本気にならないことを知っているからこそ、の者ばかりだ。 そこでへまを打つような愚かさは持っていなかった。 「やっぱり里が一番心地良いからね。特に発情期は」 交わりは同種が最も良いとされているらしいので、犬はやはり犬を欲しがるのだろう。 本能がそうさせるらしい。 「その子も帰らせてあげなよ。狼は警戒心が強くて発情期は里で迎えるのが普通らしいから」 「そうなのか」 知らなかったことだ。 保守的な狼は己の血を繋ぐために里に帰って子を成すことを重視するとは知っていたのだが。わざわざ意図的に里帰りまでするとは。 そういえば狼が外で子を成すことは極めて珍しい。だから狼の子も出回らないのだった。 「そうなのかって……その子はまだ成獣にはなってないみたいだけど」 何も知らないのかと灯成が呆れたような目で見てくる。 連れているのだから、と批難しているようだ。 「幾つ?」 「十七だ」 「じ、十七!?」 ひっくり返った声で灯成は瞠目している。 ぴんっと尻尾が立っているので、冗談抜きで驚愕したらしい。 「それでまだ!?」 発情期は十四、十五くらいにはもう訪れているらしく、この年齢が遅いことは綜真も理解はしていた。だがこれほどの反応が返ってくるということは予想を上回る事態なのかも知れない。 「育ちが悪くてな」 出会った時は細く小さな身体で、発情期なんてとんでもないとしか言いようのない有様だった。それどころかまずは身体を作らなければ倒れてしまうのではないかという状態だったのだ。 あの頃に比べれば肉が付いてしっかりと骨が作られてきたことだろう。 「これでも随分年に追いついてきたんだ」 狼の元で育てられたのならば、立派な成獣になっていたことだろう。表情も豊かで母親に似た綺麗な狼になっていたことだ。 何故か父親に似て雄々しき狼という予測は出来ない。 「そうなんだ…でもこの春は間違いなく来るよ」 これまで来なかった方がおかしいのだろう。 断言されて綜真は軽く髪を掻き乱す。 成獣になっていない者を連れているのは初めてで、発情期の世話までしたことなどなかったのだ。 どうしたものかと、やや弱りたくもなる。 成獣なら自力で何とでもしろと言うのだが。 「里の方がいい。初めてだったら自分で抑えられないだろうから」 己もまた初めての発情を経てここにいるだろう灯成がそう教えてくる。 綜真には味わうことのない感覚だ。春の盛りを知る者が言うのならばそうなのだろうと思うしかなかった。 「そうか」 里に戻る。 ここから狼の里まで行けば、春までには十分間に合う。 そうした方が良いのだろう。 この獣が成獣になるのか、と玻月を見るのだが全く実感が湧かない。色んなものが欠落しているせいで、生々しい情欲など抱く時が来るのか疑問だった。 今も本人は何の話をされているのかも分からないような顔で隣を歩いていた。 「人間にはなくても、この子にあるんだからさ」 分かり切っていると思っていた。だが己は自覚しているよりもずっと玻月に関して抜けている部分があるようだ。 異種というのはそういうものなのかも知れない。 「そうなんだろうな……」 このまま発情期が来ないなんてことがあれば、それこそ問題だろう。 成獣になれないということだ。 どこか脆い幼さがある子だが、このままでいて良いはずがない。親がこれ以上嘆くのも哀れだ。 「……だがそういうのが一切感じられないんだが」 「なんかね」 灯成に同意され、違和感を覚えるのは一人だけではなかったことに多少安堵した。 「里か」 一つの年が周り、親姉弟も玻月が今どうしているのか知りたがっていることだろう。 綜真としてはたった一年で戻らなければならないのかとも思うのだが、発情期は里で、というのが獣たちの常ならばそれに従うのも不服ではない。 (ただ毎年帰るってのは無理だろうけどな) それでは里の周囲をぐるぐる旅しているだけだ。見付かる者も見付からない。 だから今回だけ、と限定させて貰いたい。 「玻月」 呼ぶとそれまで無関心だった狼が見上げてくる。 発情期の獣たちの瞳を見たことはあるけれど、それと同じものがここに宿るだなんて冗談みたいだ。 「おまえ雌なんか抱けるのか?」 そもそも抱き方なんて知っているのだろうか。賊の中にいるなら畜生働きをする痴れ者もいただろうが。玻月がそれに混ざるはずもない。 知識くらいは入れられているのだろうか。 猥談に向いてそうもない、その上聞いてそうもないが。 「なんとかなるもんなのか?そういうのは?」 「いや、どうだろうね。初物食いが好きな雌に会わせて貰えば?」 綜真の疑問に答えるのは灯成だけだ。 どうにも品のない会話だが、心配してしまうのも無理はないと思いたい。 初物が好きという輩は性別問わずにいるものだ。里に行けばどうにか相手を探せるかも知れないが。 「……そもそもなんで俺が筆下ろしの心配なんざしなきゃなんねぇんだよ」 父親になったつもりはないのだと舌打ちをすると灯成が笑っている。 「いっそ遊郭に入れられりゃ、どうにでもしてくれるんだがな」 あそこは初物食いが好きだと公言する雌すらいる。綜真が顔をよく出す場所なら玻月も歓迎して貰えるだろう。けれど里になると、綜真にはどうすることも出来ない。 その代わり家族がどうにかするだろうが。子どもの発情期まで家族は面倒を見るのだろうか。人間からして見れば謎だ。 分からねぇなと呟くのだが玻月はそれを見ても表情を出さない。 おまえのことなんだぞ、と言いたいのだが言ったところで何も返ってこないのはこれまでのやりとりでよく分かっていた。 |